それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日は、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。
没理想論争第一ラウンドにおける「記実・談理」優先問題で、逍遥が「記実」を優先することに対して、鷗外は「談理」優先を主張します。
これに対して、逍遥は次のように言います。
この「批評家の本分」に言及した『梓神子』は、主人公が恐ろしい夢にうなされるところから始まります。家人が、卜者に占わせて病状をあてさせてみては?と勧め、占わせてみると、卜者は眉をひそめて、数多の怨霊に取りつかれているといいます。祈禱に着手する前に神子をたずね、怨霊の口寄せをしたほうがいいと言います。家に帰り、人を四方に走らせ、神子を探します。
そして、逍遥は「巫女」という存在について、こんなふうに表現します。
巫女は理想詩人のようである。理想を広くすれば自然となる。この言説は、「造化の作用」の解釈として、没理想論争第一ラウンドの「シェークスピア脚本評註緒言」で、改めてこんなふうに述べられます。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!