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#855 今度は女性の作家の霊が嘆きます

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

「第八回」は、近松門左衛門の霊が嘆いた内容に対して、主人公が返事をするところから始まります。答えていわく、虚と実と被膜の間に美術ありという高説、面白く承った。「虚」は広くして限りなければ、一切の法相を覆って余りあり、「実」は狭くして鋭ければ、特殊な法相が躍如して飛動する。「実」は差別、「虚」は平等、「実」は個性、「虚」は通性、詩人の本領とは、この虚実の二字である。しかし、この二字の境を弁えるのは簡単ではない。そなたの作を見るに、おおかたは「虚」であり、虚妄が甚だしいのはシェークスピアにも優っている。名工の筆からなる神怪の絵は、形は「虚」であるが真に「実」である。形の「実」を重んずるのは、理の「実」を重んずるよりも甚だしい。時代物の劇を作れば、事実と風俗に力を尽くすが、人情の「実」は却って空しい。形而下の論理に目がくらみ、形而上の論理を忘れるゆえに、虚実の境に戸惑ってしまう。そなたを日本のシェークスピアと褒めるに、形無き評であってはならない。そこで、聞き申す。そなたは中年まで荒唐無稽の時代物ばかり書き、老後には自然派の人情物を書いたのには理由があるのか。シェークスピアに比べて、そなたは上中下どの位置にいるのか。すると、壇が轟き、鏡がゆらめき、無数の怨霊の気配がします。

物語の親を忘[ワスレ]たるか。あをによし奈良の昔の八重櫻、かはらで匂ふ我作[ワガサク]を何とか見つる。げにこそ盲人[メシイ]、物におぢず。

「あをによし」は、「奈良」にかかる枕詞です。

物知らぬしれものばかり無禮[ナメ]なるはなかりけり。と罵る聲は女子[オナゴ]なり。紫のおもとよ、げにいはれたりや。しやつら手爾葉[テニハ]の使ひざまだに得しらぬを、文人[ブンジン]にてはべるの、詩人[ウタヨミ]にてはべるのと、みづからおもひあがり、人にも持てはやさるゝこと、世の末[スエ]になりにたる兆[シルシ]にて、言魂[コトダマ]のさきはふといふ此國[コノクニ]の恥辱[ハズカシメ]になんある。此たびわが輩[トモガラ]の蘇[ヨミガエ]りつるは、斯[カカ]る五月蠅[サバエ]なす醜男[シコオ]らをおはんが為なり。厠[カワヤ]にまゐりて反吐[ヘド]すといへばこそ穢[ムサ]からざれ、厠へまゐりてといはんには穢[ムサ]きこと堪[タエ]がたきにあらずや。へにの心に差[シナ]あればなり。

「東京に行く」と「東京へ行く」の違い……

しかるに今の文人かゝる大切なる事をだに知らず。浅ましとも浅まし、云々[シカジカ]。といふは男なり。此聲いまだ終らざるに、だまれ、漢文学の霊爰[ココ]に在[ア]り、我れ先づ言ふべき事のあるを、汝等[ナンジラ]は退[スサ]りてあれ。

「女性の霊」に対して「紫のおもと」と言っているということは、紫式部のことでしょうか……。さらに「男性の霊」の嘆きに続いて、次は「漢文学の霊」が嘆くようですね……

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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