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#831 写実派の旗を立てることが目的成就の道理なり!

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

第四回は、「我慢」の上中下を論ずるところから始まります。我慢の「最大」は一切の善悪を受け入れて余りある状態で、我慢の無いことに等しい状態。我慢の「中[チュウ]」は衆善を容れる量はあるが、衆邪を破るには疾風のなかの枯葉を掃うに似ている。そして我慢の「下々[ゲゲ]」は、目の無い笊[ザル]のようで、善をも容れなければ悪をも容れない。ゆえに自分を尊び、思い上がる。巫女に乗り移った目の前の怨霊は、まさにこれで、どんなに論じても退散の効き目がない。

いつそよしにしたものか、と一息[ヒトイキ]つく間[マ]に一たびは考へしが、そこは凡夫[ボンプ]の浅ましき所なり。値切[ネギリ]かけし人力車[ジンリキ]に僅[ワズカ]一銭の相違[チガイ]なれど、草疲足[クタビレアシ]をひくにひかれず、乗るに乗られず、據[ヨン]どころなく當世[トウセイ]の為、文学の為などゝ大層なる口實[イイグサ]山々作りて、さて物體[モッタイ]らしくいひけるやうは、そも/\往時[インジ]足下[ソコモト]を破[ハ]せしものは、元より足下の敵[カタキ]なりき。然[シカ]はあれども公然[アカラサマ]に名宣[ナノ]りかけての仇なるゆゑ、一たび足下の外郭[ソトグルワ]を乗り取り、寫實派[シャジツハ]の旗を立てたる上は、當座[トウザ]の目的成就の道理なり。

勧懲を排して写実の旗を立てる!これは『小説神髄』から一貫している逍遥の主義ですね。

本丸までも切って入[イ]りて、殿さまの首を取るべき要[ヨウ]は無かりき。畢竟ずるに、彼等の持前[モチマエ]と足下の持前とは、畳と絨氈[ジュウタン]とほどの相違[ソウイ]あれば、敷物に類[ルイ]ありて畳ばかりが敷物では無し、絨氈も佳[ヨ]いものなり、召され/\、と斯う売廣[ウリヒロメ]をしてのけし上は、強[アナガ]ち足下[ソコモト]の一門を根ほり葉ほり族滅[ゾクメツ]せぬも故障はなかりき。

大阪府東成郡沢に生まれ、米穀商を営んでいた村田伝七(1848-不詳)が、堺・住吉方面で対米輸出品として盛んに製造されていた緞通[ダンツウ]の製造に取り組むため、緞通機を3台購入したのは、1883(明治16)年のことです。緞通とは、経糸[タテイト]にパイル糸を結びつけて作った床敷物のことです。1889(明治22)年、欧米のインテリア敷物を収集していた高島屋4代目の飯田新七(1859-1944)がカーペットの試作を村田伝七に命じます。こうして、1890(明治23)年、村田は日本初の絨毯を作ります。その後、村田の技術の高さに注目した飯田は、明治政府より用命を受けていた帝国議会議事堂のカーペットの製造を村田に発注し、1891(明治24)年、村田は帝国議会議事堂にカーペットを納入します。1913(大正2)年、村田と飯田の共同出資による「住江織物合資会社」が誕生します。これがのちの「住江織物株式会社」です。現在の国会議事堂の赤い絨毯も、スミノエの特注品です。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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