#831 写実派の旗を立てることが目的成就の道理なり!
それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。
第四回は、「我慢」の上中下を論ずるところから始まります。我慢の「最大」は一切の善悪を受け入れて余りある状態で、我慢の無いことに等しい状態。我慢の「中[チュウ]」は衆善を容れる量はあるが、衆邪を破るには疾風のなかの枯葉を掃うに似ている。そして我慢の「下々[ゲゲ]」は、目の無い笊[ザル]のようで、善をも容れなければ悪をも容れない。ゆえに自分を尊び、思い上がる。巫女に乗り移った目の前の怨霊は、まさにこれで、どんなに論じても退散の効き目がない。
勧懲を排して写実の旗を立てる!これは『小説神髄』から一貫している逍遥の主義ですね。
大阪府東成郡沢に生まれ、米穀商を営んでいた村田伝七(1848-不詳)が、堺・住吉方面で対米輸出品として盛んに製造されていた緞通[ダンツウ]の製造に取り組むため、緞通機を3台購入したのは、1883(明治16)年のことです。緞通とは、経糸[タテイト]にパイル糸を結びつけて作った床敷物のことです。1889(明治22)年、欧米のインテリア敷物を収集していた高島屋4代目の飯田新七(1859-1944)がカーペットの試作を村田伝七に命じます。こうして、1890(明治23)年、村田は日本初の絨毯を作ります。その後、村田の技術の高さに注目した飯田は、明治政府より用命を受けていた帝国議会議事堂のカーペットの製造を村田に発注し、1891(明治24)年、村田は帝国議会議事堂にカーペットを納入します。1913(大正2)年、村田と飯田の共同出資による「住江織物合資会社」が誕生します。これがのちの「住江織物株式会社」です。現在の国会議事堂の赤い絨毯も、スミノエの特注品です。
ということで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!