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「敗者」とワンセットの「勝者」は世界に価値をプラスしているか。

スポーツ観戦が好きなので、よく目にするのは「勝者」を讃える記事や言説である。
大きな大会があるとそればっかりが連日メディアに溢れる。
結果、世の中に何か新しいプラスの価値が加わったように見える。

しかしスポーツは基本的に勝負事であるから、1対1の勝負の場合、勝者が生まれれば同時に敗者が生まれる。
世界全体を俯瞰すれば、つねに勝者と同数の敗者がいるわけなので、実はプラマイゼロなのではないか。

レースという仕立ての競技の場合は、1位に特別な重みを置くので、一人の勝者と残りの敗者ということになり、価値の傾斜の度合いによっては、勝者と敗者の数に極端な差がつく。

1対1の勝負の場合も、優勝や金メダルに対し、それ以下は全て敗者という見方もできる。

膨大なマイナスが与えられる敗者に対して、プラスはごくごく一握りの勝者にしか与えられないのだ。
果たしてそのプラスは、マイナスの合計を上回っているのだろうか。

「敗者」のことは見て見ぬふりをして誰も取り上げず、プラスの面だけを見ていれば良いのだ、という意見もあろう。
しかし「敗者」に対してものすごく悪趣味な注目がなされる場合が実際ある。
2024年のオリンピックでもいくつかそういう例が目立った。

いずれにせよ、勝者の存在は敗者を前提としている。前提なのであるから、これは絶対的事実である。


敗者=マイナスという思考に陥らなければよいのかもしれない。
そこから抜け出す考え方の一例を挙げてみる:

 ・「勝/敗」を、チャレンジにおける「成功/失敗」と捉え直す。
  「成功」と「失敗」はワンセットというわけではない。成功すればプラスだし、失敗ならばゼロ地点である。だからマイナスではない。

 ・試験のように、あるレベル以上の成績を「合格」と考える。
  どのような試験も「合格/不合格」の比率の設定は任意なので、例えば8位入賞や決勝進出、または選手権大会への参加自体を合格と捉えることもできる。

 ・体験の質に価値を見出す。この考え方をとれば、敗けた方がより価値の高い体験をしたのだ、と捉えることも可能になる。
  例えば吉田沙保里の敗戦。

このように、様々な見方で、マイナスではなくせめてフラットに、よしんばプラスに捉えようというものの考え方は無数にありうる。

とはいえ、世間一般はそうは見ない、という身も蓋もない結論もありうる。

勝負に賭ける選手からすると、負けたら奈落の底だからこそ挑む価値があるのだ、という声もあろう。

いずれにせよ「がんばったからみんな金メダル」ということはないと思う。
がんばった対戦相手に勝ってこその勝利なので。

結局、全員がこの「割りに合わない」勝負に賭けているというスポーツ界全体が、何らかの価値を持っているかどうか、に掛かっているかもしれない。

そしてそれは全くないのかもしれないし、だからこそすごいことをやってるのかもしれない。
まあ、芸術のようなもので、だから開会式や閉会式がああいうことになったりもするのかもしれない。


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