異世界転生ものについて考える
転生ものって、転生した本人の意識があたらしい身体の中で目覚めて、ああこれが俺だ、と思うのは勝手だが、その体にそれまで入っていた意識はどこへ行ってしまうのだろうか。
意識の先住民というか。
それは次のどれかだろうか。
① 最初からそんなものはなく空っぽ(哲学的ゾンビ状態)だった。
② 転生した瞬間から世界が丸ごと出来たので問題なし。
③ 追い出された意識はさっきまで自分がいた身体と入れ替わっている。
④ 追い出された意識はトコロテン式にどこか他の世界に転生している。
⑤消滅。
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記憶がどのように保持され受け渡されたのかという問題もある。
出生の時点からのいわゆる「生まれ変わり」なら問題ないだろうか。
しかしその場合転生前の記憶を鮮明に思い出すことは難しいのではないか。その記憶はどこに保たれているのか。
新生児の脳のニューロンの結合状態が、転生前と同じであることはありえないのだし。
単純な「入れ替わり」にしても記憶がどのように瞬時に受け渡されるのかは全く不明である。
ニューロンの結合状態が別の空間にあったものと同じ形に、瞬時に変化するというのはやはり無理がある。
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そもそも転生ものには、なぜ本人がそう確信できるのか、という疑問がどうしても残る。
自分は気が狂ったのではとか、何らかの手段で妄想を見させられているのではないか、などの可能性を主人公はなぜ考えないのだろうか。
実は「タイムスリップ」ものも同じ問題を抱えている。
主人公の、超常現象への「疑いもたなさすぎ」問題。
そういうお約束だから、と言ってしまえば身も蓋もないのだけれど。
つまりそれは、ファンタジーを愉しむための様式であり、暗黙のルールだ、ということ。
プロレス、特撮映画など、「お約束」に疑問を持たない、という鑑賞スキルを必要とするジャンルは多い。
一般的な小説や映画だって同じことだ。
物事が物語の都合に良いように整理されて起こるし、誰もがセリフの滑舌がよく、無駄なことを喋らない。
とんだ異世界である。
極論を言うと、フィクションは、すべて「異世界もの」であり、
タイムスリップものを含む、「主人公の意識がいまこの場所・この時間とは連続していない、どこかほかの身体で目覚めるフィクション」は、すべて「異世界転生もの」であると言える。
「ドラえもん」だって「サザエさん」だって「ちびまる子ちゃん」だって、ああいう「異世界もの」なのだ。
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「ドラえもん」といえば、むかしまだ幼かったうちのムスメが、「のび太くんの世界では‥‥、」と、言ったときは、ああそういうふうに捉えてるんだ。おれの子ども時代には考えもしなかったなあと思ったものだ。
ドラえもんのいる日常というのは、けっして近所ではないとは思っていたが、この世界とはどこか地続きで、山をいくつか越えた遠いところくらいには思っていた。
いまから思えば原始的な世界観だ。
しかし原始と言わずとも前近代くらいまでは、そういう考え方を大人もしていたのではないか。
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自分より少し下の世代の漫画家から聞いた話だが、
新潟に住んでいた彼は小学6年生くらいで何かのチャンスで東京に来たときに「練馬区」に行かせてもらって、とにかくそこら中を歩き回ったのだという。
というのは、『コロコロコミック』のカラーグラビア企画で、作者が実写で撮られたタイムマシンやどこでもドアなどのひみつ道具と写っているのを見て「おいおいやっぱり本当に持ってるじゃないか!」と確信し、のび太たちの町は「練馬区」だと何かで見て知ってもいたので(作者もそこにいるとなぜか思いこみ)、行けば見せてもらえるだろうと考えたのだとのこと。
もちろんある程度歩いたところで諦めて帰ったそうなのだが、まあ、とてもよくわかるというか、あの時代の小学生の頭の中にあった世界認識というのはだいたいそれくらいのレベルのものだ。
なので、怪獣ものでも妖怪ものなんでも現実と区別がつかず、だからこそ本気で面白かったのだが。
(途中)
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