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並行世界を生きることが出来ない理由

並行世界があったとして、そこに行って帰って来たとしても、何度か行き来して複数回なぞったとしても、本人視点からすると、やはりそれは「一本道」のひとつの世界なのではないか。

つまり、実際にそういう世界がありそこに行けると分かった時点で、この世界が「その〈並行世界〉も含んだ世界」というふうに書き換えられ、単に「世界を生きた」に過ぎないことになる。
というわけで、並行世界を生きるということは「原理的に」不可能である。

屁理屈のようだが、定義としてそうとしか言いようがない。
そういう問題は、いくつかある。

例えば宇宙の外に出ることは出来ない。
なぜなら実際に「宇宙の外」に出たとして、そこもまたこの宇宙の新しい所番地に加わることになるだけなので、結局宇宙の外には出られなかったことになる。

「前世」はあるか、というのもそうで、記憶がつながっていないと、あったということが分からないし、記憶がつながっているということはすなわち、本人にとってはそういう「ひとつながりの人生」であるということになるので、その記憶がある期間も決して前世ではないということになる。

死んだと思ったら意識があり、「ああここは死後の世界」かと思うという話があるが、死後に魂だけになっていたとしても、それは身体的に非常に特殊な人生が継続している状態なのであって、すなわち人生は閉じておらず、本当の意味の「死後」ではないということになる。

過去や未来に行けるか? というのも、行った本人目線からすると、その時間はつねに「今」である。

のび太はいくらタイムマシンに乗っても行く先々が「今」になるので、決して過去へも未来へも行ったことにはならない。
ピー助にとっても、のび太の部屋で生まれて、そのあと白亜紀に連れて行かれたという連続した「今」があっただけで、「過去」に行ったのではないということである。

いつに行こうともそこは必ず今になってしまうので、過去にも未来にも行かれない。
時空の座標の中でああいう動きをするタイムマシンと呼ばれる機械は出来たとしても、搭乗者にとって原理的にタイムトラベルは不可能だということになる。 

第三者の目線からは、タイムトラベルしている人を客観的に把握することは出来る。
のび太は時々、タイムマシンでやって来た自分に会うことがある。
自分とはいえ他人なので、このぼくは違う時間から「今」に移動して来たぼくなんだなと把握することが出来る。
だが、自分がその移動をする側になったときには、ただ目の前に「今」の景色が次々と繰り広げられていくだけなので、ずっと「今」のなかにいるだけだ。
人は「今」の牢獄から決して出ることは出来ない。

「他人」になれるか? という問題にもこの話は当然発展していく。
他人の身体の中で目覚めたとしても、その人の身体が自分のものになったというだけであって、自分が他人になったわけではないのは明らかだ。




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