見出し画像

〈支援〉する塾講師をめざして(1/3)

1 「子ども支援学」の教え

ヤジロベエみたいな正しさだ 
今この景色の全てが 笑ってくれるわけじゃないけど 
それでもいい これは僕の旅 

BUMP OF CHICKEN「なないろ」(Toy’s Factory、2021年)

子ども支援学の教えを、進学塾の現場で実践したい。そう思い始めて、はや5年。

この目標は正しいのか。正しいとして、自分はその正しさにどのくらい近づけているのか。悩みは尽きない。
けれど、たとえ亀のような歩みでも、あるいは時に後ろに進むことがあっても、歩き続けることだけはやめずにいたい。どんなに無理だと思えても、この目標に向かって歩いていくのだと、決めたのだから。

〈支援〉する塾講師になる。それが、私の目標だ。

「子ども支援学」との出会い

大学で授業の教科書として買い、今もよく読み返す本がある。安部芳絵『子ども支援学研究の視座』(学文社、2010年)だ。

私は大学生の頃、この本の著者である安部芳絵さん、その師匠筋にあたる喜多明人さんから、「子ども支援学」を教わった。子ども支援学はそれ以来、私が教育実践をするうえでの行動指針となっている。このあたりのいきさつについては、別の記事にも書いた。

子ども支援学とは何か。ここでは、誤解を恐れずにいち読者として定義を試みる。
子ども支援学とは、子どもを権利の主体として捉え、社会の意思決定に対する子どもの参加を促していくための「視座」である。キーワードは「参加」「支援」そして「ゆらぎ」だ。

「参加」「支援」そして「ゆらぎ」

まず「参加」について。
子どもの権利条約第12条は「意見表明権」を定めている。子どもは、自分に関するすべてのことについて意見を表明できる。国は特に、子どもに影響する行政・司法の手続きを行う際、子どもの意見を聴く機会を設けなければならない。日本はこの条約を1994年に批准している。
社会の意思決定に、子どもは「参加」する権利がある。

近年における「参加」の実践としては、「ルールメイキング」の活動が有名だ。活動例として多いのは、学校の校則を生徒と教員が話し合って変えていく、というものである。
子どもに関わることは、大人だけで決めるのではなく、子どもも「参加」して決める。ルールメイキングの活動は、「参加」実践の一例である。

次に「支援」について。
だが、子どもが「参加」するためには、大人の「支援」が必要である。先に挙げた「ルールメイキング」の活動でも、校則の改正が実現した例もあれば、そもそも話し合いの場すらもてなかった例もある。
子どもと大人の間には、知識・経験・体格など、様々な差がある。そうした差があるうえで子どもが「参加」するためには、大人の「支援」が必要になる。

そして「ゆらぎ」について。
子どもの「参加」にも、大人の「支援」にも、唯一絶対の正解はない。
先の「ルールメイキング」に関して言えば、校則を変えたい生徒にも、校則を変えたくない教員にも、それぞれの言い分がある。いや、校則を変えたくない生徒も、校則を変えたい先生もいるだろう。そうした複雑な状況のなかで、なるべく多くの人が納得する決定をするには、どうするべきか。
「参加」しようとする子どもも、「支援」しようとする大人も、思い悩む。しかし、そうして思い悩むことが、その活動を前に進めるだけでなく、その過程に関わる子どもや大人の成長につながる可能性もある。これが「ゆらぎ」だ。

まとめよう。子どもの「参加」を促すためには、大人の「支援」が必要となる。しかし、「参加」しようとする子どもも、「支援」する大人も、ときに「ゆらぎ」を抱える。
そして、「参加」しようとする子どもとそれを「支援」する大人は、他の現場にもいる。他の現場で培われてきた実践と、その背景にある理論を、子ども支援学の知見は教えてくれる。

安部さんは『子ども支援学研究の視座』で子ども支援学の学術的な輪郭を描いた後、例えば『災害と子ども支援』(学文社、2016年)では災害からの復旧・復興の現場、『子どもの権利条約を学童保育に活かす』(高文研、2020年)では学童保育の現場に向けて、子ども支援学の理論と実践を届けてきた。

『子ども支援学研究の視座』、そして『災害と子ども支援』『子どもの権利条約を学童保育に活かす』は、私も自室の本棚に置いている。
私の現場は被災地復興でも学童保育でもない。けれど、これらの本からは、子ども支援に現場で向き合っている人たちがいること、子ども支援は確かに誰かを支えうることがわかる。その事実が、私に力を与えてくれる。

「指導」への恨みと「支援」への興味

私が子ども支援学にこれほどまでに惹かれたのは、子どもの頃「支援」してくれた大人がいて、その人に憧れたから…ではない。むしろ、逆だ。

高校生の頃、生徒会役員として、学校生活のある分野に関する生徒の意見をまとめようとしたことがあった。しかし、その動きは学校がすでに策定した計画の妨げになるとして、アンケートをとることすら許可されなかった。
子どもとして「参加」しようとしたけれど、そもそも君たちは「参加」するべきではない、と「指導」されたのだ。

その経験を喜多さんの授業で話した時、お釈迦様の手のひらの上なんだよね、と言われた。よくある話だ、というそぶりで。生徒の自主性を尊重する、という文言には、教員の認める範囲内で、というただし書きがつく。空の上を自由に飛び回っていると思い込んでいた孫悟空が、実はお釈迦さまの手の上でもて遊ばれていたように。

衝撃だった。自分にとって切実な経験の本質を、ついさっき初めて出会った先生にズバリと言い当てられた。教育への優しくも鋭いまなざしに惹かれて、喜多さんの「子ども支援論」を受講した。

その流れで安部さんの「子ども支援特論」を受講した。授業では、安部さんのもとで子ども支援学を学んだ様々なゲストスピーカーが、自分の現場での実践を語っていた。こういう大人に、あの頃出会いたかった。
だから決めたのだ。教育の仕事をするなら〈支援〉的であろうと。

ことあるごとに読み返すのは、『子ども支援学研究の視座』の次の一節である。

教育学における支援と指導の違いは、教えるか、教えないかにあるのではない。支援 の場においても、一方が他方に教えることは起こり得る。逆に、指導の場面であって も、教えないこともあるだろう。支援と指導は、学校現場であれば生徒と教師、家庭 であれば子どもと親の、いずれかが主となって力が作用しているかが両者の区分の分岐点となる。すなわち、生徒と教師の場合、力の不均衡を顧慮せずに教師が生徒に関わると一方的な働きかけになりがちであり、教師主導の指導に傾くことになる。一方、 教師が生徒との力の不均衡を十分に顧慮している場合の生徒への関わり方は、支援に近づく。

安部芳絵『子ども支援学研究の視座』(学文社、2010年)p.25

指導と支援との差異は、支援が、支援者自らの力の優位性の自覚を伴いつつ被支援者 をエンパワーするという点にあるだろう。

同、p.26

「支援者自らの力の優位性の自覚を伴いつつ被支援者をエンパワーする」ことが〈支援〉である。ならば私は、塾の教室という現場で、「教師が生徒との力の不均衡を十分に顧慮している場合の生徒への関わり方」をする、〈支援〉する塾講師になろう。

大学を出て数年、塾講師としての仕事を始めた時、私はそう誓った。

塾講師はどうすれば〈支援〉者になれるのか?

しかし、その志はすぐに壁にぶち当たる。

教科の授業は、その教科についての知識や経験が豊富な先生が、そうではない生徒に教える、という構造のもとで行われる。進学塾の場合、受験という至上目標があるからなおさらだ。
「参加」を「支援」しようにも、たどり着くべき目標やそこへ至る道筋は概ね決まっており、取り組める時間にも限りがある。「参加」を「支援」するよりも、「一方的な働きかけ」による「教師主導の指導」の方が圧倒的にやりやすい。

そうしたなかで、〈支援〉する塾講師になることなど可能なのか。可能だとして、どうすれば実現できるのか。新たな課題が生まれた。

((2)の記事につづく)

いいなと思ったら応援しよう!

小陳泰平 / Taihei Kojin
より良き〈支援者〉を目指して学び続けます。サポートをいただければ嬉しいです!

この記事が参加している募集