ティク・ナット・ハン マインドフルネスの教え

禅師/詩人/平和活動家 ティク・ナット・ハン師のマインドフルネスの教えを実践する仲間(=サンガ)のnoteです。 プラムヴィレッジのダルマティーチャーによる法話の日本語テキスト、リトリート参加者の体験レポートなどを掲載しています。(翻訳と記事はボランティア各位の協力によるもの)

ティク・ナット・ハン マインドフルネスの教え

禅師/詩人/平和活動家 ティク・ナット・ハン師のマインドフルネスの教えを実践する仲間(=サンガ)のnoteです。 プラムヴィレッジのダルマティーチャーによる法話の日本語テキスト、リトリート参加者の体験レポートなどを掲載しています。(翻訳と記事はボランティア各位の協力によるもの)

マガジン

  • プラムヴィレッジ ダルマティーチャー法話

    フランス、香港、タイランドなど世界各地のプラムヴィレッジのダルマティーチャーによる法話、Q&Aなどのボランティアによる翻訳・要約を集めました。 ティク・ナット・ハン師、アン・フーン&トゥご夫妻の法話やQ&Aの翻訳・要約は別のマガジンでご覧ください。

  • アン・フーン・グエン&トゥ・グエンご夫妻法話

    アン・フーン・グエン&トゥ・グエンご夫妻の法話、Q&Aなどのボランティアによる翻訳・要約です。 アン・フーン師は、禅僧ティク・ナット・ハン師の実の姪で、夫であるトゥ師と共に、ハン師から正式に認定された在家の瞑想教師(ダルマティーチャー)です。ワシントンDCで、非営利のマインドフルネス実践センター(Mindfulness  Practice Center of Fairfax=MPCF)を設立され、在家の瞑想教師として、MPCFを拠点に、瞑想会、クラス、ワークショップ、リトリート(瞑想合宿)などの場で、マインドフルネスの実践の教えを広める活動に専念しています。2013年から日本の実践者のコミュニティ(サンガ)のメンター(指導者)として、月に一度のオンラインでの法話とマインドフルネスの実践指導を続けています。

  • ティク・ナット・ハン師法話

    ティク・ナット・ハン師は、史上最も名を知られた禅師の一人であり、西洋社会にマインドフルネスを紹介したことで広く知られています。同時に、人権運動家、詩人、作家でもあり、累計数百万部の著作が世界中で出版されています。弟子たちからは親愛をこめて「タイ(ベトナム語で先生の意)」と呼ばれています。 ティク・ナット・ハン師の法話、Q&Aなどのボランティアによる翻訳・要約を集めました。

  • プラムヴィレッジ マインドフルネス体験レポート

    ティク・ナット・ハンの拠点であるプラムヴィレッジ(すもも村)は僧侶、尼僧、一般の在家修行者たちのために開かれた仏教共同体です。世界各地のプラムヴィレッジのリトリート(瞑想合宿)や日本で行うプラムヴィレッジ来日ツアー等の参加者による体験レポートです。

最近の記事

2024/4/28教育者向けイベントでのBr.ファップニェムのお話

4月28日29日に行われた「教育者のためのマインドフルネスデー」にて、Q&Aで出家をした理由を聞かれたブラザー・ファップニェムの答え。 Q「なぜ出家したんですか?」 自分が生まれたころのベトナムはまだベトナム戦争の最中で、周りは戦争中の苦しみに満ちていた。その苦しみをどうしたらいいんだろうという思いがあった。 ある時(ブラザーが子どもの時)ベトナムで大嵐があって村中が破壊されるようなことがあった。お寺の建物も壊れたけれど、そのお寺の仏像は壊れずに残っていた。その仏像を見

    • 2024/4/28-29教育者のためのマインドフルネスデー

      2024年4月27日から5月9日にかけて、プラムヴィレッジ僧侶団来日ツアー2024 Peace in Me, Peace in the Worldが実施されました。 4月28日29日と2日間にわたって開かれた「教育者のためのマインドフルネスデー」でのブラザーファップニェムの法話の内容をシェアいたします。 人のお世話をしようと思っても自分の中に十分な喜びや幸せがなければ、人のために何かをすることも、教室で生徒を幸せにすることもできない。大切なのはまずは自分の中の喜びと幸せを

      • 「自分を癒し、世界を癒す」Q&A

        タイランド・プラムヴィレッジのオンラインリトリート「自分を癒し、世界を癒す」の中で行われたQ&Aでのお話です。ブラザーファップニェムとシスターディンニェムが参加者から事前にメールで集めた質問に回答してくれました。 Q1.どのように呼吸と食べることや歩くことを組み合わせることができるのですか?食べている時には食べていることに、歩く時には歩くことに意識を向けることはできても、それと同時に呼吸にも意識を向けるのはとても難しいと感じます。 A1.(ブラザーファップニェム)私たちは

        • 「変容と癒し」2021年5月3日 シスタールンニェムの法話

          2021年5月3日にオンラインリトリート「自分を癒し、世界を癒す」の中で行われたシスタールンニェムの法話です。 この法話の最初を慈悲の瞑想から始めたいと思います。それは愛の実践です。 インドのデリーの病院の前に立っている若い男性の写真がありました。彼のジェスチャーはお医者さんに向かって「ドクター、どうかお母さんを助けて下さい」と言っていることを伝えていました。彼は希望を失いかけていました。そして少女がお父さんの遺体がビニール袋に包まれた横に座っている写真も見ました。遺体を

        マガジン

        • プラムヴィレッジ ダルマティーチャー法話
          43本
        • アン・フーン・グエン&トゥ・グエンご夫妻法話
          8本
        • ティク・ナット・ハン師法話
          5本
        • プラムヴィレッジ マインドフルネス体験レポート
          3本

        記事

          「幸せを育む」2021年5月2日ブラザーファップニェムの話

          2021年5月2日にあった、タイランド・プラムヴィレッジのオンラインリトリート「自分を癒し、世界を癒す」でのブラザーファップニェムの法話です。 今日はこのような状況の中でもテクノロジーの発達やテック・チームのブラザーシスターなどの働きにより、物理的には離れていても皆さんと一緒にいられることをとても感謝しています。 今コロナウィルスの感染が拡大していく中で、私たちはどのように生きていったらよいのでしょうか?今必要なこととは何でしょうか? 私が今いるベトナムでもコロナウィル

          「幸せを育む」2021年5月2日ブラザーファップニェムの話

          2021年4月4日 アン・フーンさんの法話

          4月4日(日)に行われた全国のサンガ向けのアン・フーンさんの法話です。 マインドフルネスのプラクティスとは、立ち止まるプラクティスです。走りづつける思考を止めるプラクティスなのです。 もし、止まることができなかったら、たとえあなたが崖まで行っても立ち止まることができずにそのまま落ちてしまうことになります。孤独や絶望を感じている時に、その止め方を知らないでいるということは、命を危険にさらすということです。自分の孤独や絶望を止めることができずに命を絶つ人たちがいます。そのよう

          2021年4月4日 アン・フーンさんの法話

          2021年1月10日 アン・フーンさんの法話

          2021年1月10日に全国のサンガ向けに行われたアン・フーンさんの法話です。 今の世界ではたくさんのことが起こっていて、人々は状況に圧倒され、プラクティスをするのに苦労している人も多くいます。日々のプラクティスを維持することが困難で、坐布の上に静かに坐るということが簡単ではありません。坐布の上に坐っていても心が静かにならず燃える炭の上にいるように感じている人もいます。 これまでのように人に会うことができず、一緒にプラクティスをすることもできません。友人や生活から切り離され

          2021年1月10日 アン・フーンさんの法話

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          Q&Aセッション:意識・関係性・コミュニティ作り

          2020年10月25日 プラムヴィレッジ・ロウアーハムレットQ&Aセッション:意識・関係性・コミュニティ作り Q.末那識について質問したいと思います。シスターホイニェムの話を先週聞いて、末那識についてもっと知りたいと好奇心を持ちました。末那識とは自我の働きだとシスターホイニェムはお話していました。末那識というのは「自分はこういう人間だ」「これは私のものだ」「他と切り離された自分」だと執着することかと思います。インタービーイングのプラクティスをしたいと思うのですが、どうやって執着を手放すことができるのでしょうか?特に自分自身の喜びや幸せなどにも囚われずにそれを超えていくプラクティスがどうやったらできるでしょうか? A.(ブラザーファップリン)質問ありがとうございます。私たちはみんなそのプラクティスをしているのだと思います。みんなで見つめていくのは良いことだと思います。あなたが末那識の働きを描いていたのはその通りで、末那識は名詞というよりも動詞でありアクションだと思います。それは傾向なのです。プラクティスを通してその傾向を和らげることができます。取り除いたり闘ったりするよりも、和らげることが大切です。その傾向は様々なレベルで見られます。例えば、感情にもあって、良い感情は続いてほしいと思い、嫌な感情はすぐになくなってほしいと思うのです。しかし、それらの感情が起こった時にもっと近くで見てみる必要があります。不快な感覚があったらそれをもっと見つめます。不快だと感じるけれど自分は本当にその感情を見つめることができているのだろうか、と考えます。例えば赤ちゃんは野菜が嫌いだとしても、それが本当に身体に悪いものだからというのではありません。苦しみや不快な感情もそのようなものです。まずは自分の傾向に気がつくことが大事です。それを見つめてみると不快な感情の奥には、別のものがあることもあります。誰かが嫌なことを言ったり、何か嫌なものが机の上にあったり、嫌なことやトラウマを思い出したり、と私たちには色々な嫌なことが起こります。マインドフルの種を育んで呼び出すことができると、嫌な感覚を感じてそれを避けたいととっさに思っても、そこに留まり「それと本当に出会っているのだろうか?」と見つめなおすことができます。相手の行動に対して思っていることやストーリーや想定しているから反応してしまっている可能性もあって、そこから悲しみや絶望を味わうことがあります。でも、そのようなことを感じた時にはその不快な感覚と一緒に座ってお茶を飲んで歓迎するようにしています。「ようこそ、一緒にここに来てください。あなたのことが知りたいんだ。あなたのためのスペースを、これまでここに用意していなくてごめんね。」と語り掛けます。それはあなたの中に古くからいる友人のはずです。自分自身のストーリーをどこかに置いておいて、自分自身の身体で感じます。どこで感じるのか、胸なのか、お腹なのか、喉なのか。名前をつけることもせずにまず認識します。末那識の働きは非常に素早いものです。「好きだ」「好きじゃない」とすぐに決めます。疑問符を付けて、それを一度置いておきます。ほうれん草を好きか嫌いかを決めないでおくように。それが嫌いか好きかを決めないでただそこにあることを許します。最初耐えられないとか、人生を脅かすと感じていることでも、深く見つめてみたらそれほど悪くないことが分かるかもしれません。自分が思っていたものと全然違うことかもしれません。怖れと思っていたのが孤独だと分かるかもしれません。単なる感覚でそれほど強い感情ではないかもしれません。「それは私なのか私のものなのか?」考えてみて下さい。「私の感情」「私の経験」「私の人生」というけれど、本当に私のものなのでしょうか。「これは私のものだ」と強く握ろうとすると、幸せは逃げて行ってしまいます。瞑想するときに本当の自由と喜びを経験するためには、それをそのまま味わって手放します。樹々を秋に見た時には色が非常に美しいですが、それを所有する必要はありません。美しさを味わうためには誰のものである必要もないのです。そのようにアプローチして末那識の働きから来る自分の習慣を見直すことができます。マインドフルであったら、その感覚が起こった時に、立ち止まって「それは本当に確かなの?」と考え直すことができます。そのことによって執着しないようになります。トータルリラクゼーションで何も考えずに身体をゆるめることも助けになってくれると思います。 (シスタートンカン)私たちはみんなプラクティショナーとしてこの質問をしたらいいと思います。人生をかけた質問です。私もこのプラクティスをしています。このための基本的なプラクティスを紹介します。まずは顕在意識から始めます。アプローチしやすいところから取り組みます。質問では2つの部分があったかと思いますネガティブな種への執着についてとポジティブな種を育む方法です。深く見つめるためにははっきりと自分の意識の中に何があるのかを認識することが大切です。タイが私たちの意識にあるものを「本当の名前で呼ぶ」と言ったことです。顕在意識と五識(から働きかけます。6つの感覚を守ることが私たちのプラクティスです。顕在意識は庭師です。様々な状況を庭師として整えます。何を育てるのか、良い種はどれなのか、どの種を植えるのか決めます。私たちはそれによりもっと自分自身を理解することができます。個人としてそして仲間とプラクティスします。私たちはサンガと共にプラクティスできるので幸運です。ブラザーファップリンが紹介してくれたのは、私たちの庭を整える庭仕事です。プラクティスをするうちにだんだん上手くなっていきます。そして、私たちの蔵識を信頼することが大切です。ある時、好奇心を持って庭に植えた種をすぐに芽が出たか確認するために外に出して、芽が出ていなかったので埋めて、また何日かしたら掘り起こして、としていたら中々芽が出まませんでした。私たちの蔵識も同じことです。育っていくためには時間がかかります。蔵識への信頼が必要です。雨が降ったり太陽の光を浴びたり。忍耐がなくて、せっかちで、サンガに変容していく力があることを信じられないと習慣の力がやってきて困難と苦しみを私たちにもたらします。末那識を変容させるためには、顕在意識と五識から始めます。それらはつながっていて、具体的に見えるもの感じられるものから始めます。ネガティブな思考を止めることができたら自分で分かるように、まずは感じられるところから始めます。幸運を祈っています。 Q.親しい人で何年も深刻なうつ病に苦しんでいる人がいます。その人のために何ができるか知りたいです。その人が自殺をしてしまうのではないかと恐れています。自分のできることとできないことを知りたいです。その人のためにどうやってそばにいたらいいでしょうか。その人がいてくれて私は幸運だと思っていますので、その人を助ける方法を知りたいです。 A.(シスターエリザベス)命とはとても貴重なものです。でも、時としてその感覚を失ってしまいます。人生で何かが起こって苦しみに囚われて人生の美しさと生きる意味を失い「なぜ今ここで生き続けているのだろうか」と考え絶望し、鬱になってしまいます。私のお話をしたいと思います。タイが言ってくれたのは「唯一の答えは愛だ」ということです。私の母にも毎朝鬱になるような傾向がありましたのであなたの話は心にふれました。すべてのものには条件があります。その人にそのような状況をもたらしている条件は何でしょうか?その人の絶望を続けさせている条件は何でしょうか?条件がすべて揃わないとそれは現れず、条件がすべて揃った時に現れます。一つでも揃わなければそれは現れません。友人にその状況をもたらしているのはどんな条件か見つめて下さい。何によって栄養を与えられているのか見つめてください。すべてのものは食べ物がなければ生き残ることはできません。私自身の話をすると私は生きることへの自信を失っていたことがありました。ここに来てサンガに助けられながらプラクティスとして深く見つめました。なぜそれが起こっているのか、何によってその種に水やりをしているのか。私が見ているもの、耳にするもの、匂いを感じているもの、味わうもの、感じる事、考えていることの何に影響されているのだろうかと。外側から内側への6つの門です。注意深く見てその人や自分を守る必要があります。悲しいニュースや、悲しいテレビ、悲しい音楽だろうか、それを見つめます。同じ道を歩く仲間と一緒にプラクティスをして手放します。そして家族から受け継いでいる種もあります。家族の中にある種も見つめます。家族から鬱の傾向が引き継がれていることもあります。祖先は私たちの細胞の一つ一つにあります。深く見つめることで理解して、世代をつないでいく鎖を断ち切れるのは私達なのです。私達には苦しみを止めるための方法があるからです。4つの精進を彼女に紹介することができます。苦しみがそこにある時、苦しみのケアをします。苦しみが出てきたら理解と愛により和らげることができます。抑圧したり、拒否したり、無視したりしないでください。愛で何があるかを見つめてください。「これは私の苦しみだ」と。末那識は私たちの一部です。理解と愛が末那識を変えてくれます。苦しみをケアできるとだんだん阿頼耶識に降りていきます。そして阿頼耶識の中で小さくなって眠るようになります。意識の中で貯めているとそれがどんどん大きくなります。ケアすると下に降りていって眠ります。阿頼耶識の中には多くの心の形成物があります。精進してプラクティスするということは「これは自分の中にあることを知っている」と分かった時に、自分の中に十分な強さがあってふさわしい時ならば、タイファップリンが言ったように招いてふれます。もし自分の習慣としてそのことを考えてしまうならそれにはふれないようにします。強さが十分にある時にはタイファップリンが言ったようプラクティスします。でも、くせで小さい子供がかさぶたをはがして血をまた出すように傷にふれることがあります。3つ目の精進はマインドフルネスで幸せの種にふれます。苦しい時にも幸せの条件は十分に自分の中にあるのです。幸せであることに気がつきます。それを大事にして保つようにします。そうすると意識の中の幸せが育まれます。薔薇の花が美しく咲くように。4つ目は阿頼耶識の中には眠っている幸せの種があります。たくさんの幸せな記憶があります。たとえ忘れていたとしてもそこにあるのです。苦しみがやって来た時には阿頼耶識の中に眠っている幸せにふれてバランスを取ります。タイは「CDをかえる」と表現しました。阿頼耶識に良いメッセージを送ってもらって幸せはここにあるのだと思い出します。幸せを感じるためには身体をリラックスさせることが必要です。目から涙を流していたとしてもそれでも幸せを感じることができます。愛と、ケアを優しさによって。その苦しみの外に出るためにはたくさんの忍耐が必要です。多くの慈悲が必要です。種が育つ前に土を掘り返したら種は育ちません。強くなるための根がだんだん育ってきても最初はまだ脆いかもしれません。忍耐が必要です。ブッダが言った最初の四聖諦は人生には苦しみがあるということでした。自分が苦しんでいることを見つめて、それを適切に扱えばそれが止まって、良くなる道があります。そのことを友人に伝えることができます。最後に大地に触れる瞑想のプラクティスもお勧めします。ブッダは教えてくれました、細胞を開いて大地に触れた時、大地に苦しみを受け取ってくれるということを。大地は何も拒否しません。立ち上がる前に私たちが苦しんでいる世界にある美しさも見て下さい。花や美味しい果物など。あなたが彼女と一緒にプラクティスすることができれば彼女も変容していくでしょう。 Q.私の傾向として鮮明な夢に囚われて身体が痺れます。朝目が覚めた時にぼんやりして、そのまま夢に囚われて一日ぼーっとしていることがあります。どうやったら朝自分自身のことを思い出すことができるでしょうか? A.(ブラザーファップアオ)日々の中で何かに出会って、それが夢の中で思い出されることがあります。まずは何を日々の中で身体に取り入れているのか見つめる必要があると思います。何を見て、何を聞いて、何を考えているのか。それが意図しなくても自分の蔵識に染みこんでいることがあります。それが自分の身体と心に滋養を与えてくれているのか確かめます。私も夢を見て、朝起きた時に夢のことを考えています。そして、自分が読んだものや見たものを見つめなおします。そうすることによって、自分が見たニュースや考えたことを見つめなおし、何が夢に不快感を与えていたのか、なぜよく眠れなかったのか理解します。私のプラクティスをしていて、多くの良い条件があるので、自分自身の感情を埋めるためにインターネットを見ずに済んでいます。時にはインターネットを見ることもありますが、気づきと共に見て、自分自身を埋める必要がないこと、エンターテイメントがなくても大丈夫なことに気がつきます。さらに瞑想をして、自分の身体と意識をスキャンして、生きるための十分な条件と環境があり、優しく素敵な人々が周りにいることを認識します。私たちは人間で愛とケアが必要です。時として私の夢では誰かに追われていたり、動けなかったりしますが、その夢から目覚めると自分が動けることに気がつきます。その夢についてもう心配しなくていいというのは幸せなことです。そして手放すプラクティスをします。私の部屋にはスペースがあって、自分の部屋を楽しむことができます。勉強したり、仕事をする場所も別にしています。そうでないと何か仕事をしてしまったりするので。夢というのは自分を深く見つめる機会です。自分はなぜその夢を見たのか。何がその夢を起こしているのか。それがもっと自分を疲れさせたりさせているのか。そして私は毎朝目が覚めたらガーターを読むようにしています。自分の目の前に美しい新しい一日が広がっているのだと思い出すために。良い条件が十分にあって、プラクティスできる幸せ。素晴らしい仲間がいること。そのことに気がつくと不健康な種を育てるものを取り入れないことの助けになります。 Q.(パートナーとの)関係の中で信頼が失われた時にビギニングアニューをすることは可能なのでしょうか? A.(ブラザーファップアオ)すべてのことは可能です。それは自分がやりたいと思うのかどうかの問題です。自我が私たちのコミュニケーションをブロックしてしまうことがあります。男性には特に難しいことなのですが、自我を置いておいて自分自身の欠点を相手に向かって表現する必要があります。相手は愛とケアを必要としています。それぞれの人には自我があって、自分を守ろうとします。でも、謙虚さのプラクティスをして、愛と感謝を表現することができれば、修復することは可能なのです。心からプラクティスをします。相手に許してもらうためにやるのではありません。愛とケアを伝えるためです。そして和解することができるように。自我を置いておいて、愛とケアを相手と分かち合います。そしてその時の状況にもよります。その人を外に誘って自然の中で歩くことが必要かもしれません。最初はただ、その人のためにそこにいて、お茶を飲んだり時間を過ごすのが良いでしょう。最初から話す必要はありません。どのように相手を聞くかということも大事です。苛立たずに、相手の話を聞きます。態度で示すことです。相手の話を聞きながら不快な感情を持たずに、タイが言っていたように、愛を持って話深く聴きます。私たちがどうあるか、ということが何を言うかということよりも大事です。言葉を選びますが、実際にはどのように話すかのということによって自分が伝えたいことを伝えられないこともあります。関係を修復すること、それは可能ですが、大事なことはあなたがそれをできるかどうか、ということです。 (ブラザーファップリン)信頼というのはとても貴重なもので、その貴重さは失うまで気がつきません。自分が何かをやって信頼を失うこともあるし、相手が何かをやって信頼ができなくなることもあります。信頼というのは貴重なもので、相手が何かをして信頼を失ってしまった場合、広い視点で見る必要があります。安全だと感じられないかもしれません。何かを言えば傷ついてしまうと思ってしまうので話せなくなりますしビギニングアニューもできません。視点を広げて、安全をもう一度作り出す方法を見直す必要があります。自分自身の鎧を脱ぐ必要がありますが、信頼関係が崩れてしまった時にはそれは難しくなります。自分が傷つかないようにしようと、むしろ鎧を着ようとしてしまうものなので。自分自身を無防備に感じてしまいますから。私たちの真の安全とは何か見直す必要があります。安全で強さを感じる思うためには何が必要なのか。何を拠り所としたらいいのか。私たちがつながっているより大きなものを見つめます。私たちは切り離されていません。地球上の真の平和につながりたいという深い願いにつながることができたら、それが本当に必要な基盤が分かり、その平和を何とか築こうとします。信頼をとは地球上の平和だからです。信頼を再構築することが自分にとって義務なのだと分かります。相手の過ちを受け入れ、自分の弱さを受け入れます。相手にとっても学ぶ機会が必要なのです。でも、相手の行ったことに傷ついて安全だと感じることができなくなり、そこを切り離したいと感じるかもしれません。もう十分だ、と感じてそれ以上続けたくないと感じてしまいます。「もう無理だ」と感じている自分がいるとしたら、そんな自分も抱きしめる必要があります。安全だと感じられない自分を抱きしめます。そして大きな拠り所を見つけるのことが自分を整えることも大事です。大地に触れる瞑想はその一つです。パワフルなプラクティスです。自分自身とビギニングアニューをするだけでなく、祖先や友人や先生から助けてもらいます。もし私たちの心が大地のようであれば、慈悲の強さを得ることができて、自分が安全だと感じることができるようになります。ただ現実的になる必要はありますし、もちろん限界はあります。自分自身を状況の被害者にしないことも大切です。自分自身が圧倒されて慈悲を感じられないなら止めます。そして、当事者二人でビギニングアニューをするのは難しいことがあります。お互いの歴史があり、お互いのどのボタンを押したら相手を攻撃できるのか知っています。そのような時には2人の和解のプロセスをガイドしてくれる人が必要です。2人だけだとお花に水をあげているつもりで、相手にナイフを刺していることもあります。「これには感謝しているんだけどでも…」と言って本当は水をあげていないこともあります。それは本当にお花?ということも。「昔はこうだったけど変わってくれてありがとう…」と言っていても本当にはそれを意味していないこともあります。その関係が非常に難しくなっていたら他の人の助けを借りて下さい。拠り所を見つけて心を開いて、広い視野で見て下さい。時間が必要なこともあります。悲しすぎる時にはできません。死ぬ直前に後悔を口にする人もいます。ただ、プラクティショナーとして死ぬまで待つ必要はありません。瞑想で深く見つめる必要があります。少なくとも、あなたがここにいることはあなたの深い願いを表わしています。真の強さと安全を築いてください。大地に触れる瞑想も助けてくれるでしょうし、友達が必要かもしれません。数回のセッションが必要かもしれません。まずは話を聞くことです。最初に必要なのは話を聞くことだけです。「あなたの話を聞きたいんだ。あなたを十分に理解できていないと思う。あなたのことをもっと理解したいんだ」という話で一回を終える。相手が話したいと思える状況を整えます。相手が話してから、次の時に自分の話を聞いてもらう、など。私にはこのプラクティスに対する信頼があります。今まで関係性を壊した人とも信頼を取り戻すのを経験してきました。関係性を修復するのはもしかしたら一生かかることかもしれません。でも、その機会が与えられたことを幸運だと私は思っています。 Q.(オンラインでの質問)サンガを築いていくためにそれが必要だとは思っているのですが抵抗があって難しいと思っています。どうしたら良いでしょうか?オンラインの時代にローカルサンガは必要ですか?サンガの中には好きになれない人がいる時にはどうしたらいいでしょうか?サンガの中には頑張る人と頑張らない人、変容している人とそうでない人がいます。どうしたらいいでしょうか? A. (シスターエリザベス)サンガを作るのは難しいことですよね。私たちが笑っているのは私達もまたそれを経験していて良く知っているからです。笑うのはからかうためではなく、私達もその経験をしているからです。私たちは人間で、それはとても美しいことです。「困難なことが起こった時に、サンガを離れない事」という戒律があります。サンガというのはすでに使われて汚れた箸のようなものだとタイは言いました。お湯の中に入れて石鹸を使って、二つの手で柔らかくしてきれいにします。サンガではこのような困難を避けることができません。そして私たちが出会えるものの中で最も美しいものでもあります。私たちは受け入れて、愛と理解と慈悲のプラクティスをしようとします。それがダルマなのです。プラクティスをするのはすべてのものは永続しないので変化していきます。頑張ってプラクティスしても前に進まないこともあるし、大きく前に進むこともありますし、理由も分からず後ろに進むこともあります。そういうものです。でもだんだんと進んで、プラクティスに馴染んできます。タイの側にいて、ある夕方タイの小屋にいました。他の2人のシスターとマッサージをするためにタイを訪れていました。シンクを見てみるとボールがあって、カップがありました。そして中にはお米がたくさんついたスプーンありました。私の家ではそういうことはしませんでした。スプーンを2本使って汚れを取って終わりです。なぜタイがお湯の中でお米がたくさんついたスプーンを置いていったのか不思議でした。私はそれが何か分からず何もせずに考えていました。そして師匠の愛と理解にふれてたくさんの涙が出ました。私たちはみんなお米のくっついたスプーンなのです。お米の付いたスプーンへの一番の対処法はお湯の中に入れることです。たくさんのお湯の中に入れれば自然とお米が離れていきます。比較などを手放すのです。タイに直接教わった一番大切な教えです。そしてタイのところに行った時には「あなたはダルマティーチャーになりなさい。教えはすでに授けられたのですから」とタイは言いました。愛が唯一の答えなのです。 (シスタートンカン)私達も同じような経験をしています。プラムヴィレッジサンガには同じような問題があります。特別に加えることはないのですが、基本的なプラクティスにそれぞれが帰ってください。困難な状況にあった時、お互いにビギニングアニューをすることが難しい時、自分の中でプラクティスをします。ビギニングアニューを自分の中でします。解決しない状況でお互いにビギニングアニューが難しい時は自分の中でまずはプラクティスします。サンガで何かが起こった時にはまずは自分です。サンガで何かが起こった時に不快なことを私が感じた時は、それを抱きしめています。もっと理解をしてはっきり見えた時にしようと。でも、自分の中にまず何かがあるのです。自分たちが和解できるかどうかは自分自身によるのです。自分の安定と状況と自分自身を理解する力です。相手をよく見たら相手がなぜそのようかが分かりますし、自分自身が道のりのどこにいるのかも見えてきます。自分は道のりのどこにいるかどうかを尋ねます。他の人に光を当てる前に自分に当てます。今は半月がありますが、昨日月の光を感じました。時として光を当てたら相手がはっきりと見えるかもしれません。でも、自分には光を当てないことがあります。そして自分はサンガの中で上手くいっていると信じている。でも、何かが上手くいっていない時は自分に光を当ててください。答えは愛とコミットメントです。諦めないこと。プラクティショナーとして、もう一度始めることで目が開きます。新しい目で再開して他の人をインスパイアしながらプラクティスすることが大事です。自分自身でプラクティスの興味と願いを持ち続けたらサンガ作りの道は続いていきます。プラクティスへの関心とプラクティスを持ちサンガを作ってくれてありがとうございます。 (ブラザーファップリン)対面のサンガを作る必要がありますか、という問いに対して「はい」と言いたいです。人間の存在が大切です。物理的に会うことが大切です。ここで今直接会えるということは貴重なことです。テクノロジーは素晴らしいですが、誰かの目を見て、場を分かち合い、共に食事し、存在を感じることの完全に代わりになりません。将来のリトリートはオンラインと対面のハイブリッドになるかもしれません。今やっているように。対面のリトリートをやりながら物理的に来れない人のためにオンラインも同時に提供することもできます。 相手は自分と違っていて好きになれないかもしれません。好きなものや趣味が全く違っていて「何この人!?この人はなにしているの?」と私も思っていました。プラクティショナーとは自分のようでなければならないのだと思っていました。価値化や大事にしているものや政治的な指向を共有するべきだと。でも、ダルマの素晴らしいところは自分とは全く違う人間をも引きつけるということです。ダルマがなければ一緒にいない人とも一緒にいることができます。先ほどお話したように地球上に平和を築くというミッションがあって、もっと美しい社会を作ろうと思ったらより多くの人が必要です。もしサンガが自分のような人間、もしくは自分たちのような人間しかひきつけないとしたら、それは悲劇です。ごく少数の人としかできないのならそれは失敗が保証されているようなものです。地球上に平和を築こうと思ったら誰とでもやる必要があるのです。まったく自分とは違う人を惹きつけるタイとタイの教えに感謝するんです。それは素晴らしいことです。彼らから学び、最初の「嫌だな」という感覚を超えていきます。それがサンガの素晴らしさです。時間がかかることもあります。自分の反応に気づいていきます。「何で相手はこういうことをするんだ!」と思った時に自分の反応に気がついて自分について学びます。それは祖先から与えられたものかもしれませんし、自分の習慣かもしれません。それを手放すことができれば心は成長しより多くを抱きしめられます。ですから自分が上手くいかない人がサンガにいてくれることに感謝したらいいのです。私たちのプラクティスにとって良い条件があるということです。

          Q&Aセッション:意識・関係性・コミュニティ作り

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          2020年5月31日 グリーフのための方法 byシスターダンニェム

          以下は2020年5月31日にシスターダンニェムがブルークリフ僧院でお話された法話です。 息を吸って、息を吸っていることに気がつく、息を吐いて、息を吐いていることに気がつく。私は微笑みと吐く息を大事にする。息を吸って、微笑んでいる。息を吐いて大事にしている。息を吸って、すべての苦しんでいる人のため、呼吸を心地よくできない人のため、そしてもうこれ以上呼吸できない人のために息を吸う。息を吐いてそれらの人々を抱きしめる。家族、友人、愛する人たちを。家族、友人、愛する人たち、親しかった人たち、人類の一員として側にいた人たちのために呼吸をして、抱きしめます。 息を吸って、強い感情があることに気がつきます。悲しみ、混乱、絶望、怒りなど私の中に波のように湧き上がって私を圧倒する気持ち。息を吐いて、それらの感情をなだめます。強い感情の波に気がついて、呼吸と揺るぎない姿勢によってそれらをただ抱きしめます。 親愛なる先生、親愛なる兄弟、家族、友人の皆さん、ここに招いてくれてありがとうございます。シスタートップニェムが私のセカンドボディとしてここ愛するブラザーたちのソリデティ・ハムレットに来てくれました。私たちの2つのハムレットは今もプラクティスを別々にやっています。それはサンガを守るためでもありますし、世界の人々を守るためでもあります。私たちは場所を守るためにベストを尽くしています。 ここに来るまでの道で私はこの植物を見てとても幸せでした。その道は1週間ぐらい歩いていませんでしたのでこれまで見たことがありませんでした。これはお花が咲いていますね。ちょうど2か月前ぐらいに雨が沢山降っていてこの植物はそんなに大きくありませんでした。私の鼻ぐらいの高さでした。今はご覧のように、大変美しいお花をつけました。 去年は私はこのお花を本の間に挟んでカードを作ろうとしました。今年は雨がすごく降って枝が折れました。大きな枝でしたので私はそれを持ってきましたが落ちてしまいました。残っていた枝は1本だけでした。そしてその枝はもっと小さいものでした。私の手首の3分の2ぐらいの大きさしかありません。あるいは半分ぐらいだったかもしれません。 そしてその枝も倒れてしまいました。それを見た時、それはもう救うことができなそうでした。でも次の日に2本のスティック・エクササイズで使う棒を手にして戻って来てみました。その枝と2本の棒を使い三角錐の形にしました。私は金属のワイヤーを見つけて一緒に縛りました。 そして私は植物に向かって話しかけていました。私は「私があなたを救えるのかどうか、私には分かりません。でもこれはあなたへの感謝を示すための行為です。去年あなたはとても美しく咲きましたから、沢山の美しいお花を在家の友人たちに切り分けました。だから私はあなたを大切にしていることを示したいんです。あなたの命に感謝しているとあなたに知らせるために。」と文字通り話しかけていました。毎回、歩く瞑想をして戻ってくる度に。 そして座る瞑想の後、この植物を見てふれていました。そのように毎日注意を払っていました。今、見て下さい。最初の何枚かの葉っぱは黄色くなりましたが、その後は黄色くなりませんでした。もしかしたら生き残るかもしれないと思いました。そして今ご覧のようになっています。植物は生き残ってその根の部分には樹皮が立っているで開かれている核の部分を見ることができると思います。その樹皮の周りの部分はそれを保つためにワイヤーで覆われています。この植物は深刻なダメージを受けていました。でもケアされて十分な条件が揃えばそれは癒されてまた花を咲かせることができます。 今日お話ししたいのは今世界で起こっているパンデミックと関係しています。それによる喪失と暴力について。みなさんにお話ししたいのはグリーフ(喪失を悲しむこと)の方法です。 私の人生で私はたくさん喪失を嘆いてきました。子どもの時から多くの死を経験してきました。私が12歳の時、母はいなくなりました。彼女の遺体は見ることはありませんでした。1980年から37年がすでに経ちました今まで彼女が死んだと確信することはありませんでした。1985年弟と一緒にアメリカに来ましたが、1986年に私の祖母は亡くなりました。私を育ててくれたのは彼女でした。母が亡くなる前からお世話をしてくれていましたしそして私の母が亡くなった後もお世話をしてくれていました。祖母が継続的な私の安定の基礎でした。彼女は私たちがヴェトナムを去って1年後に亡くなりました。ですから彼女にも会っていません。 そして成長する中で学校に通って私がパートナーを失った時私は医学生でした。私はその時30歳で彼は33歳でした。彼はサンフランシスコにあるハーフムーンベイに行って亡くなりました。ヨガと水泳をしていて、そして潮の流れに飲まれてしまいました。彼の遺体は見つかりませんでした。 彼の死は、私を本当に目覚めさせてくれました。すぐに自分の人生を見つめました。自分自身に尋ねました。私のパートナーにすぐに死ぬことがあるとしたら、私は言えるだろうか、私の人生を生きたと。私は言えるだろうか、平和が私にあったと、そして手放して良いのだと。 そして、答えは明らかなノーでした。それは私に十分な強さをくれました。医学の道を手放すこと。スピリチュアルな道を追求するために今まで一生懸命やってきたすべてを手放すこと。そしてこの僧侶の道で、グリーフの方法を学びました。私は私と私の周りのあなたの命からそれを学びました。 ブッダは四聖諦を教えました。彼が悟りを開いた時に最初に教えたのは四聖諦についてでした。その後45、46年の教えの中でも彼は四聖諦について教えました。彼が教えた四聖諦のうちの最初の一つは苦しみがあるということです。今日は喪失の嘆き悲しみの存在を認めましょう。それは私たちの一人一人の心の中にあります。この世界中のすべての人の中に。私たちはグリーフを経験しています。 おそらく皆さんがコブラー・ロスによって唱えられましたグリーフの5つのステージについて学んでいると思います。最初のステージは拒否です。適応するメカニズムとして私たちは拒否します、自分にそれは起こっていない心を麻痺させて何も感じず遠くにいるように感じます。それはまるで身体はここにあるけれど心はどこかにさまよっているようなものです。 仏教では認識をします。それを私たちはシンプルな認識と呼んでいます。苦しみがそこにあるグリーフがそこにあると言います。絶望がある、希望を感じられず、無力感がある、それを認識する、それだけのことが私たちを助けてくれます。そこにあるもののためにそこにいることそれは深いプラクティスです。そこにグリーフがある、それを認識する。 ブッダが教えてくれた2つ目の四聖諦はグリーフには原因があるということです。苦しみには原因があります。このパンデミックが始まってから多くの原因を見るようになりました。私たちが学んだのは、人生における最大のストレスは、愛する人を失うことです。病気になること、自分があるいは自分の愛する人が病気だと診断されること人生に大きなストレスを与えます。ストレスの最大の要因の3つ目は仕事を失うことです。自分の仕事を失い失業すること。そのことが今世界中で起こっています。 急な死がたくさんあり、病気がある。どこにいても安全だと感じられず、脆い存在だと実感する。老人や慢性疾患のある人は特にですが、でも、若い人も私たちはみんな脆くて儚い存在なのです。失業率は非常に高くてブルーカラーの労働者もホワイトカラーの労働者も仕事を失っている人達が何百万人といます。そしてストレスになっているのが離婚です。もしくは上手くいっていない関係。 多くの人が決まった仕事をしてた時には時間があれば愛する人と色んなことをやれるのにと思っていても、でも今は自分の場所にこもらねばならず多くの人が自分自身と向き合うことや愛する人と毎日顔を合わせることが難しいと感じています。お互いに、どのように関わりあったら良いのかが分かりません。それがすごくストレスになることもあります。ですから私たちはみんなそのような問題に直面しています。 それらはグリーフの原因です。失ったものを嘆き悲しむこと。もう一つの要因は私たちの信念です。パンデミックが起こった時に、最初私は自信を持っていました。アメリカは大丈夫だと。上手く対処できると。我々から遠いところでその波は始まったので一番遠いところにいると思っていました。でもさらに重要なのは私たちは力があって強くて私は医学のトレーニングを受けてましたし、私には、大きな信念があったのです。でも、マスクが不足している、防護服が不足している、今アメリカでは死亡率が高くなっていると知って、さらに世界でもっと人が死んでいると知って私の考えは吹き飛ばされてしまいました。私の心は圧倒されてしまいました。 何かが自分の中でぶつかっていました。私のあまりにもナイーブなヘルスケアシステムへの信頼。自分達は負けることがないのだという私のナイーブな信念。それもまたグリーフなのです。私たちは様々な形で失った悲しみを嘆いています。 これが私たちが経験しているグリーフの原因です。思い出すのはシスターたちのミーティングの時のことです。私たちはプラクティスのための道を探してきました。コミュニティを守るために。 一人のシスターが言いました。「私が読んできたことや見てきたことから分かったのは、できることは結局手を洗うことだけだ」と。私たちは笑いました。そしてその部屋の緊張が和らぎました。でもわたしが願うのは、私たちが手を洗う以上のことを学ぶことです。多くの本物の痛みを伴うけれど私たちに気づかせてくれるレッスンがそこにはあります。 最近ジョージ・フロイドの死によって深い深いグリーフが起きています。深い悲しみの波が私を襲いました。なんて無分別な死なのでしょう。私がジョージの写真を見た時彼はフットボール選手のように大きな人でした。命があり、たくましさがありました。生命力にあふれています。でもわずか10分で彼の命は奪い去られてしまいました。それは私たちの多くを傷つけました。 昨日10代の子たちとオンラインの活動がありました。その死は彼らを不穏な気持ちにさせました。そして抗議も彼らをまた不穏な気持ちにさせています。私はある子が牢屋にいると分かった時に動揺しました。落ち着くまでに何日かかかってしまいました。でも私は立ち止まり考えました。 一人の命が奪われた。そして今若い警察官であるデレックに彼の人生に何が起こっているか。彼に何をしようとしているのだろうか我々は。終身刑でしょうか。人生をそこで浪費することでしょうか。死んだ方がましだと思うぐらい。彼を更生させる方法はあるでしょうか。彼のような人を癒すための更生です。もしくは私たちはただ憎しみと分断を生むのでしょうか。社会の中での不調和。それらはすべてグリーフの原因です。 共に呼吸しましょう。呼吸をします。愛する人のために。友人のためそして見知らぬ人のために。私たちが知っている人と、私たちが顔や名前を知らない人々のために。私たちは同じ時に苦しんでいるのです。(鐘の音) ブッダが教えた四聖諦のうちの3つめは苦しみをなくすことは可能だということです。グリーフからの癒しは可能なのです。もしどのようにグリーフを抱きしめるか知らなければその経験はトラウマになります。それはPTSDになりえます。トラウマ後のストレス障害ということです。それは私たちの人生全般に及びます。その後の人生に関わります。それは兵士たちが戦争から帰ってきた後彼らの多くはずっと回復しません彼らの多くがもはや完全に生きるということができません。グリーフでも同じようなことが起こります。 どうやって抱きしめるかということを知らなければ、残りの人生で、ケアや愛のために心を開くことができなくなります。若い僧侶としてプラムヴィレッジにいた時、ある女性に会いました。彼女も30代で、彼女が17歳の時に彼女の恋人が死にました。そして17、18年後になって彼女が私に話していた時彼女はまだそれがまるで昨日起こったことかのように泣いていました。その後付き合った人も何人もいました。でも、彼女は誰も愛することができないのだと言いました。彼らはただ通り過ぎていくだけだと。 その後自分自身に問いかけました。私は年を取ってこの女性のようになりたいだろうかと。ただ喪失の嘆いているだけの人生、悲しんでいる人生です。私はプラクティスをしようと心に決めました。ブッダの教えは非常にポジティブです。苦しみを消すことは、グリーフを消すことは可能なんです。そしてプラクティスのための具体的な道があります。 それが4つ目の四聖諦です。外へと抜け出る道がある。私たちを養っているもの、私たちを治めているもの、グリーフの癒しをもたらしてくれます。それが癒しと回復力を与えてくれます。より深い愛を、より深い強さをくれます。 ブッダが教えてくれたのは八正道を通してグリーフから抜け出す方法です。それは正しい見方(正見)から始まります。心というのが基礎になります。心というのは画家のようなものです。見たものをすべて絵に描きます。それが心です。 中国語ではこのような言葉になります。この「想」は、「認識」と翻訳されます。ご覧のように上の字はこの部分は木を表わしています。こちらが意味しているのは目です。そしてこれは意識または心です。認識の上の部分は木と目が一緒になっていて私が木を見ているというようになります。印ということを表わしています。目で木を見てそれは木だと分かる。人を見て、それは人だと分かる。それが木である印であり木である印です。でも、でもそこに意識と心を持ってくると認識になります。意識がそこにあって、はっきりしていて偏見がなく息を吸って息を吐く時木は木で、ある人はある人です。 でもこれまで経験したことありませんか。ある人を見て、その人を見ているはずなのに、でも意識の働きでその人が色づけられてしまう。その人が信用できない人になる。その人を見ているけれど過去の経験が友好に感じたり敵意を感じたりさせてしまう。なぜなら私たちには認識があるからですポジティブなものであれば相手に惹かれて、でもネガティブなものだったら嫌悪感を持ちます。 そういう経験ありますよね。この心が決めているのです。私たちの認識を。あるものをどう見るのか。それが同じ木でも、この1対の目がその木を見た時、幼少期を思い出してそれは安全で美しい時代だった素晴らしいと思うかもしれません。別の目がそれを見た時、苦悩を感じます。あるいは絶望を。何かがその木に関連して起こっていて、あるいはその人に関連していて。ですからこの心が自分の見方を決めるのです。世界をどう見るかということを。この心、心の質がそれが決めます。グリーフから癒されるか、もしくはトラウマを育むのか。そしてトラウマの後のストレス障害が起きるかどうか。私たちの人生を完全に生きることができるのか。質の高い人生を送れるのかどうか。それはこの心によっています。 ブッダが最初に教えてくれたことは、四聖諦がその基礎に置いているのは正しい見方なのです。正見です。正見は全ての基礎になります。ですから今私たちはパンデミックに学びます。手を洗ってきれいにすることだけでなく私たちが学んでいるのはどうお互いに親密に関わっているのかということです。 今この瞬間に非常に貧しくて水を得ることができない人々がいます。電気を得ることができない人々がいます。この国で今苦しんている人たちがいます。そして世界中にいます。紛争が起きている国からの難民がいます。彼らは尋ねます。どうやったら我々が4つの家族が1つのテントにいてソーシャルディスタンスを保てるというのでしょう?そしてそのテントはこの瞑想ホールの半分の大きさなのです。どうやったら距離を保てるのでしょうこんなに混雑したところにいたら。同じところ、こんな狭い場所にいたらどうやってソーシャルディスタンスを保てるのでしょう。 頻繁に手を洗うということをどうやってプラクティスできるんでしょう?お風呂に入ったり飲み水が足りないような中で。どうやって自分たちのケアをできるんでしょう?普段から十分な医療へのアクセスがなかったら。 我々の日々の中で、こういった人たちのことを考えませんよね。我々にとって存在しない人たちなんです。こういった人たちが世界中にいます。彼らが苦しんでいる時、彼らのヘルスケアができない時、その時病気は広がり続けます。 特権を持っている人達は良いですよね、ソーシャルディスタンスを保つこともできるし、手を頻繁に洗うこともできますし、治療を受けることもできるでしょう。でもそれでも私たちも安全ではないのです。 インタービーイング(相互存在)について学びます。これはモデルになったもので、すでに見たことがある人も多いかと思いますが、こちらが豆です、陰陽豆。そして豆の半分は白で半分は黒くなっています。白い側に黒い点があり、黒い側には白い点があります。インタービーン(豆)と私は呼んでいます。白の中に黒があり、黒の中に白があります。 インタービーンが表しているのはブッダの深い教えです。相互存在であるということ。私たちが学ぶのは有色人種の人々の中に白人の人たちがいて、白人の人たちの中に有色人種の人たちがいます。私たちはお互いの中にいます。 昨日10代の子どもたちと話していて彼らはとても不安に駆られていました。ジョージについてのニュースを聞いて不穏になっていました。そして私たちは差別について語りました。私が育っていく中で私と弟はアメラジアンのアメリカ人で父はヴェトナムにいたGIでした。私たちはたくさんの差別に直面してきました。子どもたちは私たちの悪口を言いました。特に弟はもっと白人みたいに見えましたので彼は毎日殴られていました。いつ遊ぶ時にも彼はアメリカ人の役をしなければなりませんでした。そして負けさせられるんです。 でも成長する中で、アフリカ系アメリカ人の人々に対する差別も見ました。ベトナム人の子どもたちはそういった子たちをもっとひどい目に合わせました。人生の早い段階から分かっていましたアジア系アメリカ人にならなければいけないとしたら白人とのハーフである方が黒人とのハーフであるよりましだと思っていました。 アメリカに来てまた学んだことがあります。アフリカ系アメリカ人とは距離を置くこと。彼らと一緒にいたら差別されるという恐れがあったからです。私の中で一匹狼的な行動がありましたし人と切り離して考えていましたが、でもそのように学びました。 ですから正しい見方について言うと、見方は両親から学びます。社会から学びます。何が大事にされることなのか、何がそうでないのか。それらは全部相対的なものです。 でもこのインタービーイングの教えは永遠に深い真実としてあります。我々はお互いの中にいます。また私がプラクティスから学んだことは私のお母さんは私の中にいるということです。 私の人生の20年間。1980年から2000年まで私が尼僧として出家するまで毎年、何回かはお母さんの夢を見ていました。夢の中でお母さんは私を見ないのです。私たちはすれ違うのだけれど彼女は決して私を見ませんでした。私に話しかけることもありませんでした。そして私は目を覚まして心は乱れて、とても悲しい気持ちになっていました。私の中の鬱の引き金になっていました。20年間ずっとです。私のお母さんが私を見てくれない事。 そして私のパートナーが亡くなりました。1999年のそして私は出家しました9月のことです。3か月後私はプラムヴィレッジに行きました。2000年の5月のことです。1年もしないうちに彼の夢を見ました。彼は木のベッドに座っていて、窓の外を見ていて、窓の外を見ていました。私は部屋に入っていくところで彼の背中だけが見えました。彼は静かに瞑想をしていました。でもやっぱり目が覚めた時には悲しい気持ちでした。なぜなら彼は私に背中を向けていたからです。 その後まもなく別の夢を見ました。私はジョンを呼んで言ったんです。「私の誕生日なの、誕生日なのよ。私のところに来る?」と。彼は「愛しい人よ行けないよ」と言いました。私は泣いていました。私は夢の中でひどく泣いていました。その時私の中にある考えが浮かび上がりました。彼は死んでいたんだと。彼が私の誕生日にお祝いできないなんて、来れないのはその理由しかないと。 お分かりになりますか?20年間の間私の心は私は母が死んだと知りませんでした。彼女の死を受け入れていなかったんです。でもプラクティスをして私が経験してきた痛みやグリーフを日々認識し、そして悲しみと共に呼吸することを学びました。ジョン、あなたはここにいるのを知っているよ。あなたは私の中にいる。私はあなたのためにプラクティスしているよ。あなたのために歩き、呼吸をしている。私はあなたのためにこの人生を生きている。そう言って四聖諦の1つ目のプラクティスを私はできました。 それはグリーフがあると認める事。そして原因と条件を見る事。それを抱きしめる事。私の深くにある蔵識は認めることができました。彼は亡くなったのだと認識して受け入れることができました。グリーフをどう抱きしめたら良いか分からないこととグリーフを抱きしめることを学んだことは大きな違いでした。私は同じ人間でしたが同じ自分ではありませんでした。 一緒に呼吸をしましょう。(鐘の音)私はあなたのために呼吸する。私はあなたのために自分のケアをする。私はあなたのためにここにいます。あなたが見えます私の心の中に。あなたの声が今も聞こえます。あなたの思い出がいっぱいあります。あなたの笑い声。あなたの話し方、歩き方、あなたの微笑み。あなたの叫び方、あなたの怒り方、私の中で今も生きています。 私たちは湧き上がってくるもののためにそこにいることを学びます。シンプルな認識をしてありのままを抱きしめる。それらの思考や感情を押さえつける代わりに、またはそれを避けようとする代わりに。 時として深いグリーフの中で、あるいは大きなストレスの中で私たちはトラウマを経験することがあります。何かが起こってすぐ後には手が震えて何も持てなかったり全身が震えたりします。そのようなことが起こった時自分の身体が震えていつもの声が出せなくなって何もできなくなってしまう。それにマスクをしようとしないでください。 私は自分がマスクをつけた時を想像します。マスクは微笑んでいるかもしれませんが、でもそのマスクの下にいる人は泣いています。それは私たちのトラウマを深めます。それがもたらすのは多くの精神的、肉体的な病気です。震えている時には自分の手を抱きしめて下さい。大丈夫、大丈夫だよ、と言って呼吸します。呼吸して、私はここにいるよと話しかけて、私が癒されますようにと願います。 名前を思い浮かべます。愛する人のイメージを。私たちが大切にする人を。お願い癒すことを助けて、と言います。あなたのために癒すことを助けて、と。私の中のあなたを抱きしめることを助けて、と。 そうしたら私たちの痛み、グリーフ、喪失にマスクをつける必要がなくなります。私たちはそこに本当にいることができます。それが私たちの身体をリラックスさせてくれます。もっとアドレナリンを作り出さないようにします。感情ホルモンをそれ以上出さないようにします。それはさらなる緊張と病気を身体に引き起こすからです。 今、そして時が来たら時間を取ってください。トイレに行って便器に座って、そこがどこでも静かに座ってください。大地に近づくほどに穏やかさが大きくなります。何日か前私は短いビデオを見ました小さな6歳の女の子のビデオです。お母さんはその子をビデオ撮影していました。彼女は両親が喧嘩しているのを見た後でスピーチをしました。お母さんはたまたまその瞬間を捉えました。誰か見たことある人いますか?とても可愛らしいんですよ。 6歳の小さな子が彼女が両親に言ったのは「お互いに優しくしなきゃダメなの!微笑んで!意地悪しちゃダメ!意地悪しちゃダメなの!お父さんはこのあたりにいる、お母さんはこんなところにいる、下に降りて大地に降りてきて!穏やかになって、微笑んで、優しくして!お互いに意地悪をしていたら将来はモンスターになっちゃう。私は意地悪したいんじゃないの、いじめてるんじゃないよ。ただお互いに優しくしてほしいの。」ということでした。 何てことでしょう。6歳の子どもです。なんて知恵を持っているんでしょう。ブッダは私たちの中にいます。でも年月がたって私たちはただ自分の仏性を忘れてしまうのです。私たちの神聖さを。私たちは痛みやグリーフや無力さに囚われてそして忘れてしまうのです。愛することができるということを。喪失の絶望と悲しみに直面しながらも愛があり、スペースがあります。愛だけが癒すことができます。暴力や絶望、拒否や否認によってではありません。 インタービーイングが正しい見方です。インタービーイングが全てのものの真実の姿です。ここに戻ってくる必要があります。これによって私たちは理解します。 ヘルスケアはそれを受ける特権を持った人だけのものではありません。ヘルスケアは全ての人のためにあります。私たちが安全であるためには母なる大地が守られる必要があることも学びました。なぜかというと母なる大地がダメージを受けた時彼女が作り出したものたちも消えてしまいます。 人間が野生の生き物の住処を壊した時、人間は森を破壊し水を汚し、ウィルスやバクテリアは環境に適応するために毒性のあるものになりました。そしてそれらと我々は接触するようになりました。これか我々はこれからもこのような感染症に出会うでしょうらもまた出会うでしょう。 コロナウィルスの原因について読んでいた時、明らかな原因についてで根本原因ではありませんが、それを運んできたのはコウモリからだということでした。彼らは何千種類ものコロナウィルスを持っていて人々は何百種類もをすでに発見しています。もしかしたらこう言うかもしれません。それは脅威だから我々を救い感染症にこれ以上直面しないように、それらを絶滅させてしまえば良いじゃないかと。それは仏教徒的な考えではありませんが、私の頭をよぎりました。 でも、コウモリ自体は問題じゃないんです。それは人間が接触した時に起こる問題なんです。野生動物を取引することによって。そして近くに住んでいる人達によって。彼らが感染してそして伝播します。ご存じのように人々は世界中どこでも旅行しますから。中国のどこか分からない場所から一人の人に起こった感染が世界中に今では広がりました。それはなぜかというとこのインタービーイングという現実です。 私たちはお互いに深く関わりあっています。一人の人間は全ての中にいて、一人の人間がすべてに影響します。私たちがこれを学べばグリーフを通して私たちは命を大切にすることができます。私たちは全ての人の苦しみを認識します。一人だけでなくたくさんの人たちが苦しんでいます。すべての人がこの苦しみはある時に終ることはありません。それは続いていくでしょう。自分のケアをすることができずお互いと母なる地球のケアができなければ。より良いケアがなければ苦しみは続いていくでしょう。鐘の音を共に楽しみましょう。(鐘の音) 日本で津波があった時多くの人が亡くなりました。法話の一つでタイが話していました。愛する人が亡くなった時、私たちの一部は死にます。でも私たちはまだ生きていますからその人には生き続けるチャンスがあります。ルーミーという詩人がいます彼は「人は人の心の中で生き続ける」と書きました。 私のパートナーは亡くなって20年がたちました。私の母がいなくなって40年です。でも彼らは私の中にいます。私は学びました。もし私たちがグリーフの経験から自分の人生を生きることができたら、意味のある人生を深く送ることができたら、私たちの人生を完全に生きることができたら、他の人を助けることができます。そうすれば愛する人が失われることはありません。 私は彼らを道の脇にある紫色の花に見ます。私はパートナーを朝焼けと夕焼けに見ます。彼は自然を愛していましたから。私の微笑みの中に母を見ます。彼女は上手に話しましたから。でも、彼女の怒りも私の中にはっきりと見ることができます。私は愛する人の美しい面を育てることを学びました。彼らが私の中で咲き続けられるように。彼らが私を通して表れて私となるように。 私の祖母は非常にスピリチュアルな人でした。ですから私がこの道に入ったのは祖母のお陰です。なので祖母は私の中に生きています。お分かりになりますか。 でももしどうやって認めるのかを知らず、グリーフを抱きしめることを知らなければ。もし怒りと絶望と憎しみにそして心を閉ざすと人生を無駄にしてしまいます。 愛する人について考える時、彼らについて過去のものとして考えます。彼らは過ぎ去ってしまったと。彼らについて考える時に悲しみや暗さと結び付けて考えていたら、それは私たちができる限り彼らを死んだままにしておこうということを確実にしているようなものです。彼らは過去にいて彼らは暗闇と苦しみに属している。私たちの人生は暗闇と苦しみの中にある。 でももし私たちが癒すことができれば、私たちはまだ生きている人の助けになれます。覚えていて下さい。一人の人が亡くなったら、生きている人達を大切にする事を学ぶ必要があります。もしお祖母さんが亡くなったら、もしくはお母さんがなくなったら、あなたのお母さんやお祖母さんをあなたの兄弟姉妹の中に見て下さい。あなたの子どもの中に。あなた自身の中に。彼らがどのように生きているかを見て下さい。彼らを生かしてあげて下さい。彼らを死なせないでください。 このように命を育むことができます。ある人が亡くなった時、私たちは一人の人を失いますが、その人はすべてを失うのです。それがもしお祖母さんだったら、その子どもたちを失います。孫たちを失います。配偶者、友人、人生のすべて。その人はすべてを失います。 もし私たちの一人一人が、この経験から成長して、心を開いてその人を生かすことができたら、生き生きとすることができたら彼らはまた行きます。リメンバーミーという映画を見ましたか?彼は生きたいと思っていました。この地球上で誰かが彼を覚えていることを通して。なぜかというと彼の娘はすでに80代90代で彼女が彼を覚えている最後の人でした。彼女が彼の記憶を失うと彼は永遠にいなくなってしまう。私たちは愛する人の心の中で生き続ける。あるいは友人の心の中で。 ブッダは2600年後も生き続けています。私たちを見て下さい。僧、尼僧、在家のプラクティショナーたち、私たちはブッダを生きています。私たちはブッダの子どもです。私たちがブッダなのです。私たちが気づいている時、注意している時ブッダがいます。愛する人を生かしています。 呼吸しましょうお互いと一緒に。この微笑み。心臓の温かさ。癒すという決意。愛する人のために生きること。今となっては呼吸できない人のために。牢獄にいる人たちのために。狭い一角にいる人たちのために。(鐘の音) グリーフは避けることができません。先生が苦しみは避けることができないと教えたように。先生が苦しみは避けることができないと教えたように、グリーフもまた避けることができません。 でもタイはこうも言いました。苦しむかどうかは選択することができるのだと。痛みを避けることはできないが、苦しむかどうかは選ぶことができる。ですからグリーフは、同じように避けることはできませんが、でもトラウマやPTSD、孤立や絶望、それは選択可能なのです。気づきがあれば我々はその内側に深く入って、私たちは助けに辿り着きます。癒しは可能なのです。 ブッダが教えてくれた3つ目の聖絶望や不正義をなくすこと。なる真実です。グリーフや苦しみをなくすこと。それは可能なのです。もし私たちがお互いを助け合えば。癒すために分断ではなく力を合わせることができたら可能なのです。 このパンデミックの間、看護師や医者は最前線にいました。彼らの多くが命を危険にさらして、患者の治療をしていました。彼らも多くのグリーフを経験しました。 ご覧になったと思いますがある若い医者が彼女もコロナウィルスに感染して、彼女はそこから回復して彼女は仕事に戻り、そして自殺しました。孤立というのは非常に困難なものです。人々はこの期間シェルターの中に入って孤立と直面しました。老人ホームにいる老人たち、愛する人は彼らに会いに行けません。私はある写真を見ました。お祖母さんが孫をハグしているのですが、薄いプラスチックで覆われていて、その薄いフィルムを通してハグをしていました。または息子が白髪のお母さんに向かって歌っている。母の日に「あなたは私の太陽だ」と窓越しに歌ってました。 孤立について言うと、医療従事者は大きなストレスを抱えています。家に帰った時には、愛する人と関わることをしません。病気を広めることを怖れるからです。彼らは深刻な孤立に苦しんでいます。仕事でのストレス、家での孤立。ある人たちは愛する人を守るためにホテルや別の場所に滞在している人もいます。毎日ストレスを経験していますから彼らは怖れも抱えています病気に感染するのではないかと、そして自分が病気を広めてしまうのではないかと。 そして彼らは知らせなくてはなりません。人々に愛する人の死を。あるお医者さんはある女性を呼んで言いました。「お伝えしたいことがあります。あなたのお姉さんは亡くなりました」と。するとその女性が言ったのは「私は夫の葬儀に向かうところなのです。兄弟姉妹も最近コロナウィルスのため亡くなりました」ということでした。それは一人の人間が耐えるにはものすごく大きなグリーフです。お医者さんが、患者さんに伝え、ある家族、次の家族と伝えるのは辛いことです。私はある看護師がTシャツを着ているのを見ました。その背中には「一人の人を救えばあなたは英雄だ。100人の人を救えばあなたは看護師だ」書かれていました。 私たちは多くのことを当たり前だと思います。我々のケアをして、この世界をケアするために外にいる人たちが何をしているのか。そして私たちは物事が普通に戻った時には忘れてしまうでしょう。それらの医療従事者たちの多くはトラウマとPTSDを経験しているのです。この先も長く、それらこれらのすべての苦しみはのケアがされなければ、今私たちそして未来へと深くに影響しています。 ベトナムに戻ってきた帰還兵が、忘れられ、責められ、信頼されず、最後の一息まで彼らは苦しみました。これが私たちの高めようとしている気づきです。きちんと気がつくことの必要があるのだと。きちんと気がつくこと、抱きしめる事、それが現実のものだからです。 この苦しみは個人的なものではありません。この苦しみは集合的なものなのです。一人一人がこのグリーフを抱きしめることによって、これを認めて共に呼吸することによって、身体をリラックスさせることができ、戻ってくることができます。インタービーイングという本当の現実に。 そうしたら私たちは孤立に苦しむことはなくなります。物理的に自分を切り離しても、全ての人とつながっていると感じることができます。彼らがそこにいることを知っているからです。一人の人のケアをすることは、たくさんの人のケアをするということです。そうですよね。一緒に呼吸をしましょう。(鐘の音) ブッダが論じたことの一つに、5つの確認というのがあります。人生についての5つの事実です。私たちはみんな、振り返る必要があります。日々深く考えるのです。そして、5つの確認とはこのようなものです。最初は私は年を取る性質を持っている。年をとることを避けることはできない。2つ目、私は病になる性質を持っている。病気になることを避けることはできない。3つ目、私は死ぬ性質を持っている。死を逃れる方法はない。 でも病気になるために、死ぬために年を取る必要はありません。そうですよね?ある日私は坐るために瞑想ホールに歩いていました。朝の坐る瞑想に向かうためです。私はキョウチクトウを見ました。一つの花の蕾が落ちました。枝から落ちたのです。私は多くの花が落ちるのを見ますが、でも私が平和に歩いていたその時、落ち着いていて気づいた状態でした。 その落ちてゆく蕾は、私の心の深くに何かを残していきました。花は満開になってしおれなくても花の蕾は落ちていくことがある。ほとんど咲いていない花も強い風が吹くなどの条件が重なれば落ちることがあるのです。花は異なるステージで落ちることがあるのです。それはシンプルな事実ですが、でもその時、深い気づきがあったので、深い静けさと共にあったので、それに目を開かれました。命の見方が変わりました。そして自分自身について。それはあなたの反応を変化させます。その瞬間に、私ははっきりと見ました。それが私をこれまでの喪失から癒してくれました。 もちろんその瞬間からプラクティスしました。マインドフルネスと集中を。愛を持って語るプラクティスをしました。八正道を。癒しを可能にするためのプラクティスのための8つの道です。正しい見方(正見)と、正しい考え(正思)が私を助けてくれました。 私たちは年齢に関わらず病となる性質を持っています。肌の色に関わらず、経済的なステータスによらず、私たちは年を取る性質です。何者で何をやっているかに関係ありません。私たちはみんな年を取っていきます。私たちはみな死ぬ性質にあります。 ダライ・ラマは人間について一番驚いたのは何かと聞かれました。彼はこう答えました。人々が自分の健康を犠牲にしてお金を得ることです。そしてお金を使って、健康を回復します。未来について非常に心配して、そして今を楽しむことをしません。その結果として今も未来も生きることができないのです。彼らはまるでずっと死なないかのように生きています。そして彼らは本当の意味で生きることをしないまま死にます。生きることがないまま死ぬのです。これがダライ・ラマが言ったことです。 5つの確認は私たちの日々の中で歩く時に思い出せます。私たちは戻ってくることを思い出します。一歩一歩に。これは左足だと気がつきます。これは右足だと気がつきます。これは入ってくる息だと気がつく。これは出ていく息だと気がつく。その気づきが私たちに気がつかせてくれます。今も生きているのだと。 私達は歩けない人のために歩きます。あるいは呼吸できない人のために呼吸します。そしてまた私たち自身の脆さ儚さにもふれます。この5つの確認のプラクティスをする時、これは悲観的になるためのものではありませんし、神経質になるためのものでもありません。それは実際に私たちが今まだ持っているものに対して鋭く気づいて感謝するための助けとなってくれるのです。癒すため、そして他の人々とのつながりを深めるためです。 私は年を取る性質を持っている。でも私は今まだ若い。私の若さとエネルギーを大切にする。だから建設的なんです。私は病気になる性質を持っている。でも私は今まだ健康だ。ご飯をちゃんと食べて運動をします。愛する人のために時間を作ります。笑って、遊んで、良い仕事をする。 もし病気があったら、私にはありますが、自分の身体をケアすることを学びます。もっと頻繁に休むようにして、自分のリミットを知って、自分が限度を超えるまで分からない時は、その手前で止めるようにする。そのように良いケアをできるように学びます。私は死ぬ性質である。歩く瞑想を日々の中で行う時に、私たち実際、母なる地球に優しくしています。母なる地球に一瞬一瞬戻っています。あなたが坐って安定と平和、軽やかさにふれる時、あなたは母なる地球に戻っています。そして脅威とはなっていません。 座る時、歩く時、横になる時、母なる地球があなたを抱きしめているのだと、あなたを育んでくれているのだと気づきがあれば、母なる地球に戻っていくことができます。母なる地球に戻るのは、愛情のこもったことです。安心安全です。 日々の中でこれをプラクティスします。私たちは戻ってくるプラクティスをします。それは、この身体を手放す時に、怖れなくて良いようにです。亡くなった人たちがいて、最近では10万人以上の人が亡くなりました。それに加えてジョージがいます。まだ健康だったにも関わらず、命を失わなければならなかった人々がいます。でもいつか、あなたも私も死にます。遅かれ早かれ。 どのように生きたらいいでしょうか。私たちにあるこの場で。私たちの生は美しいです。でも、私たちの死もまた今ここで美しいのです。私たちがどうやって生きるかということが、人々をインスパイアします。でも私たちがどうやって死ぬかということも、人々をインスパイアするのです。もっと美しく生きるために。慈悲深く愛をもって生きるように。どうやって生きるかということは非常に大事なのです。そしてどう死ぬかということも。一瞬一瞬。そして最後の時に、それは影響します、全ての人に。 4つ目の確認は、私の愛する人はすべて変化する性質にあるということです。私は彼らと別れることを逃れることはできません。私たちは席を空けます。まだ生きている人たちのことを忘れないでください。私たちの子どもたちのことを。私たちの友人たち。世界中の人々のことを。彼らのことを忘れないでください。彼らを忘れないでください、私たちはまだ生きています。私たちが自分のケアをすることができれば他の人々の呼吸が楽になるチャンスがあります。 私たちの怒りや絶望などの自分の心の形成物のケアの仕方を知らないと、私たちは復讐をします。もっと暴力と絶望をこの世界にもたらします。それが私が10代の子どもたちに言ったことです。この世界の暴力と差別を目にした時、どう自分自身のケアをすることができるでしょうか。なぜならいつか、あなたが政策を作る人になるからです。あなたが意思決定をする立場の人間になります。何かいい方法はあるでしょうか。人々を守れるでしょうか。 もしくは同じことをするのでしょうか。同じ場所で同じ過ちを繰り返すのでしょうか。今あなたは何をしているでしょうか。何人かの若者は有色人種の友達に電話して彼らを「大丈夫だよ、私が助けになるからね」と言って慰めていると言いました。または誰か一人で座っている人を見たらその人に近づいていって言うと言いました。私たちのグループに参加したらいいよ、私と友達になったらいいよ、と。 それが若い人、そして全ての年代の人が日々の中でできることです。命を育み、命を大切にするということ。そして愛と癒しです。 私たちは外にいる人を責めることもできます。このウィルスを広めたのは中国人だと責め、白人を責めて、黒人を責める。でもそれらの人たちはみんな私たちの中にいます。自分自身のケアをすることができない人。怒りと憎しみのケアをできない人。嫉妬のケアをできない人。そうすると私たちはみんな集合的に責任があります。この世界の苦しみに貢献しているのです。 四聖諦を知っていることによって、苦しみやグリーフがあること、その原因があること、そのことが私たちの日常を深く見させてくれます。そして深い信念を持ちます。そこから抜け出る道はあるのだと。そして明確なプラクティスがあります。マインドフルな呼吸、歩く瞑想。坐る瞑想、愛を持って話すこと、深く聴くこと。それらのプラクティスで私たちは学ぶことができます。それを自分自身に適用することができます。そして周りの人のために使うことができます。近くにいる人にも遠くにいる人にも。 ですからグリーフからの癒しは可能なのです。そして命は可能なのです。親愛なるブラザーたち、ありがとうございます。友人のみなさんありがとうございます。みなさんのプラクティスに感謝します。今日ここにいてくれる選択に感謝します。共に私たちはベストを尽くします。教えを広めること、そして愛と癒しのエネルギーを送ることを。 では、共に呼吸をしましょう。美しく座ってください。まだ座れることができる身体に気がついて、それを楽しむことができることに気がついて下さい。 5つ目の確認は、我々の行為が私たちが本当に残せるものだということです。我々の行為が、私たちの立ち位置の根拠となるものだということです。私たちは自分の思考、言葉、そして身体的な振る舞いによって生まれます。そして私たちは私たちの思考、言葉、振る舞いによって続いていきます。子どもがいてもいなくても、親戚がいてもいなくても、私たちの行動が、私たちを継続します。 ブッダの選択と行動が私たちの人生に影響しました。今ここに影響しています。我々の思考を私たちは選ぶことができます。この瞬間に我々の思考を導きましょう。まず自分の身体に対するいくつしみです。私の身体が癒されますように。私がこのグリーフを癒すことを選択できますように。 そしていつくしみの思いを他の人へ導いていきます。あなたが美しく継続されますように。暴力と怒りと復讐がこの世界にこれ以上起こりませんように。お互いを守る道を見つけられますように。母なる地球とその創造物をもっと守れますように。私たちはいつくしみの思いを私たちの言葉で送ります。とてもシンプルな愛の振る舞いと行動で自分自身に届け、近くと遠くの周りの人に届けます。 それが私の継続です。そのようにして愛する人を継続します。彼らが私たちの内側で私たちを通して育ち、共に癒すための助けとなります。私たちのグリーフからその癒しを選択しましょう。癒しは可能なのです。そしてそれは、私たちのプラクティスを通してです。私たちの意図によってです。そして私たちの一瞬一瞬の行動によってです。(鐘の音)

          2020年5月31日 グリーフのための方法 byシスターダンニェム

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          2020年6月7日 ブラザーファップフーによる法話「私たちの根にあるもの」

          2020年6月7日にアッパーハムレットで行われたブラザーファップフーによる法話「私たちの根っこにあるもの(our roots)」です。英語の法話を日本語にして文章にしました。(日本語字幕は動画にはついていません。) おはようございます、敬愛するタイ(先生)、コミュニティのみなさん。今日は2020年6月7日です。今プラムビレッジで春のリトリートを開催しています。すでに一年は半分を過ぎようとしています、これが雨安吾だったら本当は全てのハムレットが世界中の友人たちと一緒になってダルマトークを楽しんでいるはずでした。一緒になってプラクティスをおこない、自分自身そして社会の気づきの種のエネルギーを育て育んでいるはずでした。 今週は世界中にとって重い週でした。社会が落ち着かない状態でした。プラムビレッジにずっといる人たちの中には外で何が起こっているのか知らない人もいるかもしれません。なので、簡単に今の状況をシェアしたいと思います。コミュニティとしての気づきを持つことができるように。 アメリカで何週間か前に、黒人の男性が警察官によって殺されました。それは録画されていて、多くの人がそれを目にしました。多くの人がそれを目にした時、不正義を感じました。人種差別が今も社会の中に間違いなくあることを感じました。 私たちは一つの庭の花として共に生きることができます。人類の庭です。私たちはお互いを尊重することを学びます。それでも、差別の種は人類の庭の奥深くに存在しています。この出来事を通して、人類の一人一人が目覚めることができます。そして「これは正しいことではない」と言います。私たちは苦しみに光を当てる必要があります。人種差別に光を当てる必要があります。 私たちは声をあげなくてはいけません。これを起こさないためのシステムが必要です。私たちはこの運動へ目を閉じることを止めます。ここ何週間かは抗議活動が各地で起こっています。最初はアメリカのいくつもの州で起こり、その後世界中に広がりました。そして差別の意識、行動としての差別、差別による暴力に光を当てました。 平和的な抗議もありました。パリやロンドンなど多くのヨーロッパの国での抗議は多くが平和的なものでした。誰かが苦しむ時、誰かが亡くなる時、私たちもまた亡くなります。そして苦しみが私たちの内側にあります。誰かが苦しんで暴力がそこにある時、それは私達みんなに影響します。それは、怖れにつながります。安全ではなくなることへの怖れです。 そして私自身もコミュニティの一員として、そして僧侶として自分自身の感情のケアをしています。自分自身の中の差別の種にふれないようにしています。そして今起こっていることを抱きしめるようにしています。起こったことは間違った行為だと思います。でも、そこにある知恵にも光を当てることができます。ブッダが教えてくれた知恵です。それは無差別の知恵です。 私達はとても国際的なコミュニティです。色々な国籍の人がいます。自分の周りの命に目を開けば様々な美しさ、文化、伝統にふれることができます。私たちはそれに対して差別をしません。なぜならどの伝統にも、どの文化にも、その中に美しさがあるからです。愛の美しさ、慈悲の美しさ、音楽、物語、それらは全て私たちの先生です。 でも私たちの心が狭くなった時、そして分離した自己を超えて物事を見るために自分を助けてくれる環境がなかった時、ある考えに囚われてしまいます。その代わりに「自分たちの人種がすぐれている」という優越感のコンプレックスを育ててしまいます。そして自分達の方がより才能があって、自分達の方が権利があると考えます。 そしてそのコンプレックスによって苦しみが作り出されます。なぜなら他の人たちは自分達より劣っていると考えるからです。あるいは他の人たちが自分達と同等になろうとしていると考え、相手を罰したい、自分達の権利を自分達だけのものとして守ろうとします。 なので差別の根にあるものを見てみると、3つのコンプレックスにふれることができます。私たちは瞑想をして日々の中のそのコンプレックスを見つめる必要があります。私達のコミュニティの中でもそうです。それを認識し、本当の名前で呼ばなければなりません。そしてそれに向かって微笑みかけます。そして私たちの考え、言葉、行動を通して変容させます。物事をどのように見るかということもまた行動です。 オープンさと包み込む気持ちで見た時、私たちの瞳は愛で輝き、慈悲や包み込み気持ちで輝きます。でも、私たちが差別や無知で覆われている時、私たちの瞳は憎しみと分離を表わします。 だからプラクティショナーとしては、どのように物事を見るかということ、ブラザーシスターや友人たちをどのように見るかということが、すでに行動なのです。私は見るときに平静さを育んでいるだろうか?あなたを見る時そこに思いやりはあるだろうか? 私たちはプラクティショナーとしてそれらが自分が育むことができる種だと知っています。それは瞑想でだけでなく、行動として現実の世界に応用される必要があるものです。私たちの生き方の中で育んでいくものです。 我々の根となる先生、ブッダもまた差別の種を変容させる必要がありました。ブッダはインドに生まれて、カーストによって分けられる差別的なシステムの中に生きていました。5つのカーストがあって、ブラフマンという聖職者の階級があって、戦士・王族・政治家の階級、商人と地主の階級、そして庶民や貧しい農民たちの階級がありました。そして一番下には「不可触民」と言われる階級の人々がいました。 差別と分断のシステムの中に生まれて、時として動物の方が不可触民の人間よりも権利を持っていることがありました。ブッダは若い王族だった時、世界の中にたくさんの苦しみがあることに気がつきました。それは王宮の中にもありましたし、通りにも溢れていました。 ブッダがスピリチュアルな旅路に足を踏み出した時、彼は自分自身を解放する方法を探したいと思っていました。でももっと大事なことですが、ブッダはもし自分自身を解放することができたら、他の人々を自由にすることができると知っていました。だからそれは自分勝手な旅ではありませんでした。 彼は自分が成功すれば多くの人がその利益を得ることができると知っていました。僧侶として、彼が目覚めた時、彼は無差別の智慧に触れることができました。私たちは自分達だけでは存在することができません。個人として存在することはできません。自分達自身を見た時に、自分の内側に自分のお父さんとお母さんがいることを認識することができます。その2つは私たちが現れてくるために欠かすことができない条件です。そしてそれが出現した後も私たちは生きて存在するために他の資源に頼る必要があります。 私たちには食べ物が必要で、環境が必要で、教育が必要です。愛があると私たちは成長することができます。そして理解できるようになります。だから、自分自身を深く見つめて瞑想すると、無差別の種にふれることができます。それらの条件を一つでも取り除いたら、私たちは私たちではなくなってしまうことは明らかです。私たちは存在することができません。 根源的な真実としては、私たちは自分の存在を認めてもらうためにパスポートに頼る必要はありません。ならなら私たちはある国を超えた存在だからです。一つの人種以上の存在だからです。一人の個人を超えた存在です。 自分自身を見てみると、ファップフーについて瞑想してみると、私の中に沢山の命の流れがあることが分かります。私はベトナムで生まれたので、ベトナムの遺産があります。でも、その後私の家族はカナダに移民として移っていったので、2つ目の流れもあります。西洋の教育と、西洋の文化の流れです。だから、カナダの西洋の遺産も私の中にあります。学校で教育を受けて、また同時に苦しみも経験しました。 私の両親は戦争を経験して、貧困に苦しまなければなりませんでした。西洋に来た時には、新しい生き方に耐えなければなりませんでしたし、時として差別されることもありました。だから私はその種が自分の中にあることを知っています。その傷も私の中にあります。 そして、成長した時、特にアジアの文化を受け継ぐものとして、自分がどこに属しているのか分からなくなりました。私はベトナム人なんだろうか、それともカナダ人なのだろうか?そして、コンプレックスを抱えていました。どこにも属していない、他の人と対等な存在ではないというコンプレックスです。 そのような考えのために時として自分自身を自分のルーツから切り離していました。今でもよく覚えているのは、学校にベトナム料理を持っていくのが恥ずかしいと思っていました。私は西洋人のようになりたいと思っていました。それが何を意味していたのかはよくわかりません。多分ピーナツバターとジェリーのサンドイッチを持っていくということだったのかもしれません。 今振り返ってみると微笑ましいですし、笑えます。今ではベトナムのサンドイッチの方を好んでいますし、たくさんの味がして素材も多いし豊かだと思っています。でも、それが現実なのです。自分自身の島に帰る方法を教わることがなかったために、自分達の美しい文化を認識することができず、違っていることの美しさにも気づくことができませんでした。 ブッダは自分のサンガを作った時に、この鎖を壊しました。とても強い革命でした。最初には男性だけがコミュニティに入れました。どんなカーストの人でも、どんな背景を持った人でも関係なくコミュニティに入れました。もし苦しみにふれて、自分自身の愛と理解を育て、マインドフルネスと慈悲を日々の中で培っていきたいと思うなら、誰でも参加することができました。 どのような背景を持った人であるかの検査は設けていませんでした。王家に生まれても、給仕だったとしても、先生だったとしても、関係なく受け入れられました。それはとても力強い声明でした。誰もが愛の種を持っていて、誰もが憎しみの種を持っている。誰もが暴力の種も持っている。でも、自分自身の島、土地に帰って、自分の意識の土壌をケアすることができたら、私たちの内側にある目覚めの種に触れることができます。それはあなたが王子様でも不可触民でも関係ありません。ステータスというのは単なる幻想なのです。ブッダがサンガを作った時にはその鎖を壊しました。 後には、ブッダはまた新しい革命をしました。コミュニティの中に女性を入れたのです。それはその時代一般的ではありませんでした。ブッダはまた、私たちが命の真の価値を見ることを助け、私たちを自由にしてくれます。無差別の智慧の種に触れることができた時、私たちは自由になるからです。 一日一日さらに自由になり、もっと受け入れることができるようになります。私たちの望みや理想はその種に触れて、実現することです。最初は小さいかもしれません。でも、思いやりや慈悲、喜びや寛容さは心の中で育ちます。私たちはもっと受け入れられるようになります。まず、自分自身が祖先から受け継いだものを受け入れられるようになり、その豊かさにふれます。今この瞬間を見る目る頃ができた時に、自分達のコミュニティの豊かさにも気がつきます。 違いにふれれればふれるほど、私たちは豊かになります。今では世界はとても国際的になっています。特に食べ物はそうです。どこにパスタだけに自分達を限定する必要があるでしょうか。そうしたら飽きてしまいます。私たちはアッパーハムレットで、パスタを楽しんでいますが同時に苦しむこともあります。時には何週間も毎日スパゲッティばかりということがあるので、急にブラザーかシスターが別のもっと味のある食べ物を用意してくれると、時にはそれが何なのか分からないこともありますが、それをオープンな心で試してみて「わお」と感じることもあります。それもまた世界の一部です。素晴らしい食べ物があって、それによって私たちはさらに豊かになります。自分の境界を超えて物事を楽しむことができます。 人間というものを見た時に思うことは、私はタイが子どもたちに小石の瞑想を教えているのが好きなのですが、最初の小石はお花の爽やかさで、タイがいつも言っていたのは「あなたがお花の爽やかさをプラクティスする時、あなたは自分自身が花だと分るでしょう。そして他のブラザーやシスターや他の人もまたお花だと分るでしょう」と言って人間を「人類の庭に咲く花」と表現しました。私はその言葉が好きです。 それは実際にそうだろうと思います。私たちのコミュニティが何年もかけて作り上げた自然の庭を見てみると、プラムビレッジは初期にはあまり整備されていませんでした。年上の初期からいるブラザーシスターに聞くと、誰もが庭師になれたと言います。誰でも自分の好きな木を植えることができました。だから、アッパーハムレットの庭を見てみると、そこには構造というものがありません。一つの庭に一つの種類の木があるというようにはなっていません。そこには松の木があって、柳の木があって、サボテンがあって、ヤシの木があり、薔薇があり、紅葉があります。 最初見た時になんて混沌としているんだろうと思います。構造的なマインドはどこにあるんだろう、これを考えた人は誰なんだろう、と思いました。私自身はすごく計画やきちんと進めることが好きなのです。カレンダーはどこにあるか、構造はどうなっているのか、これはここにあるべきもの、あれはあっちにあるべきもの、という風に。 でも今、38年たってアッパーハムレットを見てみると、全ての木が成長して木陰や様々な色を提供してくれています。その美しさを見ることができます。1種類だけでなく様々な木があるということがどれだけ素晴らしいことかを見ることができます。それがどれだけ豊かなことかを。 私たち人類は木から学ぶ必要があります。木々は土地を共有して、根を育んでいきます。そして、根っこ同士がお互いを助けています。栄養をめぐって争うことはしません。彼らは分かち合いの智慧を持っています。栄養を分け合います。 私たちは春に庭の整備をしていました。特に今年はプラムビレッジでは大きなリトリートがなかったのでその時間がありました。他のブラザーシスターたちとアッパーハムレットとミドルハムレットの竹林に行って刈り込むのを手伝ったことがありました。竹の根を見たことがあるとしたら、根っこが絡み合っていることが分かると思います。その竹について迷走した時に見えてきたのは、竹ですら無差別の智慧を持っているということです。竹はお互いを助け合って、結びついています。だから竹はあんなにフキシブルでかつ強いのです。 たとえ強い風が来て、嵐にあったとしても竹が根こそぎ倒れることはありません。でも松の木や楓のようなそれぞれ分かれている木が倒れることはあります。もし何も保護するものがなくて、大きなあらしが来ると、そのような木は根こそぎ倒れてしまいます。でも、竹林ではそのような光景は見たことがありません。竹はどのように動いたらいいのか知っているのです。もし風が左側に押したら竹は一緒になって左側にダンスします。もし右側に風が吹いたら竹は一緒になって左に流れます。なぜかといえば土の中で竹の基礎にある根っこはお互いを結びつけていて、そのため竹は安定しているからです。自分一人のことを考えたりしません。 人間として、ここから学べることは、自然は毎日命がどのようなものか教えてくれているということです。人類の庭で、私たちがこの智慧にふれることができた時、私たちはもっと自由になります。そしてお互いにオープンになることを学びます。そして違うということの美しさを知ります。 今は多くの国で、他の人種の人、他の国の文化を取り除こうとしたら空っぽになってしまうでしょう。それはまるでその国が存在しないようなものです。それぞれの中にある違い、肌の色の違いというのは境界を作るためのものではありません。無差別の智慧に触れることができれば、私たちを豊かにしてくれます。 だから今世界中で人々が抗議して、声を上げているのだと思います。それは差別、人種差別です。それが私たちが呼ぶべき本当の名前です。そして警察官による残虐行為です。 平和的な抗議も多くありました。ディアパークにいる私たちのブラザーやシスターたちもエスコンディドでの抗議に数日前に加わりました。それは黒人コミュニティの人々への連帯を示すためです。鐘の音を1つ聞きましょう。そして、あなたの中にある、あなたではない要素に触れましょう。酸素のことだけ考えても、それはあなたではないものです。そしてそれがなくてはあなたは生きることができません。 (鐘の音) 私たちの身体の中にもまた、無差別・非二元性の教えがあります。自分の身体の一部が傷ついた時に、身体の他の部分はそのことにすぐに気がついて、何をしていてもすぐにやってきて痛みを減らそうとします。 何年も前に楽しくブラザーたちとサッカーをやっている中で足首を怪我したことがありました。今でもその時のことをよく覚えています。その痛みの感覚は私の中に刻み込まれています。それについて思い出すたびに、自分の身体がどのような反応をしたか、そして私の身体がケアしてくれたかを思い出します。 左の膝を怪我した瞬間、身体全体がショックを受けました。膝を抱えてしゃがみこんだ時に、自分は怪我をして苦しんでいて何をしていても止める必要があるのだと分かりました。そして、そこへ来てやさしく抱きしめてケアをする必要があるのだと。その時には私の身体の中には「自我」というものはありませんでした。左脚が怪我をしている時、身体全体がケアします。右脚が自分をより誇って、自分の方が健康で優れていると考えたりすることはありません。右脚は適切に癒されるようにどのようにしたら左脚をサポートできるのかその方法を探していました。 このように私たちの身体ですらこの無差別の智慧を持っています。相手を包み込む智慧です。だからある人種の人たちが差別されていたとしたら、痛みや苦しみがそこにはあって、 それは私たちの身体の一部だということは明らかです。私たちはそれを保護し、抱きしめ、ケアするためにできる全てのことをする必要があります。これ以上傷つかないように、これ以上の暴力が起こらないようにします。 左脚だけではそれを刷るための十分な強さがない時には、左脚は傷ついてそれだけで立つことができないとしたら、集合的な目覚めが必要なのです。だから今、各地で人々が集まり抗議が起こっているのです。 人類の庭の一部が傷ついていることが分かった時、破壊されているのを見た時、どうやって幸せになれるでしょうか?それらに気づかないということがどうやってできるでしょうか?全ての注意を向けて、無差別の智慧の光を当てます。 私たちはブッダの継続で、ブッダの生徒たちです。その智慧を継続して生かしていく必要があります。私たちの先生は戦争の最中にそのプラクティスをしていました。アメリカとのベトナム戦争の際に、彼はどちら側にもつくことをしませんでした。右にも左にも、北にも南にも。 彼は苦しみがあるところに光を当てました。そして罪のない人が日々殺されていることに。だからタイの弟子として、そしてブッダの弟子として、私たちのDNAの中にはその智慧があります。それを個人としてそして集団として目覚めさせて、続けていく必要があります。私たちの中にある愛や理解、慈悲の種に水をやるのです。 そして排除しないことに関しては、私達は自分達の生き方を見直す必要があります。最初は大きな規模でなく小さな規模からです。このサンガのコミュニティでは一人で生きることができません。一人で成功することはできないのです。それは「愛しのコミュニティ」のあり方です。それがこのコミュニティの基礎にあり、タイの友人で会った、キング牧師と共通していた願いでもありました。 個人としての影響力はとても制限されたものかもしれません。でも、それが集合的なものとなれば、その波は大きくなり、強くなります。私たちはこのコミュニティに来た時にはお互いを受け入れることを学びます。自分の内側にある違いであり、自分の周りにある違いです。私たちは気がつくことができます。右にいるブラザー、左にいるシスター、目の前にいる友人、後ろにいる同僚が苦しみを抱えていること、そして彼らにそれぞれ違いがあること。私たちは闘う必要はありません。彼らをただそのまま見つめるのです。 そして彼らの内側をよく見てみると、良い種もそこにあることが分かります。変容されることが必要な種がそこにあることも分かります。でも、一人では変容できません。集合的に変容させるのです。 私はプラムヴィレッジのおかげで自分のコンプレックスから自由になることができました。自分がベトナム人なのか西洋人なのかというコンプレックスです。私が最初にプラムヴィレッジに来た1996年、お祭りがありました。ご存じのようにここにはたくさんのお祭りがあります。ローズフェスティバルがあって、それはお父さんお母さん、そして祖先に感謝するお祭りです。私たちは自分のルーツにもう一度つながります。そして夏にはムーンフェスティバルもあります。一番喜びに満ちたお祭りかもしれません。 それらのお祭りの中では私たちは自分の出身の伝統的な服を来ます。今も覚えているのはプラムヴィレッジでは、伝統的なベトナムの服が少年と少女のために保管されていて、私に一つ渡されました。私の名前はその時はニィムと言いました。「責任」という意味です。 そして彼らは「小さなニィムよ。今日はこれを着なさい。自分のルーツとつながるために。あなたの国の多くの人はこれを着ているんですよ。それはあなたの源になっているものの一つでしょ。祖先から受け継がれたものです。」それを着た時に、自分はそのシンプルな美しさとつながることができました。周りを見ていると他の子たちは別の服を来ていて、違った見た目をしていて、歴史の豊かさを感じることができました。それを通して私が祖先から引き継いだものの中にどれぐらいの美しさがあるかを知りました。それは私の内側に刻まれていて、触れることができるものです。 でもそれと同時に、西洋から学んだ知恵にも触れることができます。それを差別することはしません。その知恵や美しさは私を毎日成長させ理解することを助けてくれているからです。だから私は自分のコミュニティや家族の架け橋となることができます。両親に私が学んだ美しさについてシェアすることができます。彼らにはそのチャンスや容量がなかったかもしれません。 スピリチュアルなことについて話すと、このアッパーハムレットの瞑想ホールにいる人の7割は仏教的な背景で生まれた人ではないと思います。様々な先祖のスピリチュアルな伝統から私たちはやってきました。でも、みなさんのオープンさとすべての教えを抱きしめることができるキャパシティのおかげで、みなさんは新しいものを受け入れることができました。遥か遠く、インドからそしてベトナムからやってきた教えです。 だから私たちは差別をしません。私たちは「これはベトナムのものだろうか、これは西洋のものだろうか」と分ける必要はありません。「これはスピリチュアルだろうか、それとも違うだろうか」と分ける必要もありません。なぜなら私たちのところにやってきた全ての教えと豊かさがあるから今私たちはここにいることができるからです。 それを取り除くことはできません。それを取り除こうとすれば自分自身を理解できなくなってしまいます。自分の中から愛を取り除く行為です。包み込み、排除しないという自分の力を取り除いてしまいます。 コミュニティとして4週間サマーリトリートをやっていますが、3種類の異なるお祝いをしています。ローズフェスティバルがあり、ピースフェスティバルがあります。平和はとても大事です。平和がやってくるのに戦争を待つ必要はありません。戦争がなくても気がつくことができます。戦争が始まらないように平和のプラクティスを続ける必要があるのです。だから平和をお祝いする必要があります。平和に光を当てるのです。そして子どもに彼ら自身の内側と周りに平和を育むことの大切さを教えます。友人たちとの輪や、家族の中、コミュニティなどで行う必要があります。 そして3つ目がムーンフェスティバルです。以前は祖先のお祭りもあったのですが、あまりにも異国的で、あまりにも異なっていたためつながりを感じることが難しかったので、今もうやらなくなりました。なので何か夏にできる他のお祝いを探しているところです。 文化の違いを祝うのが良いのではないでしょうか。自分の文化の美しさを持ち寄るのです。タイランドでは1年に一回私たちのブラザーシスター達がこれをやっています。新年リトリートの中で色んな国から参加者が来て、様々な国のブースを出しています。在家の参加者たちが参加して、伝統的な服を着ます。そのブースでは自分の伝統の美しさをシェアします。でも、私たちを一番結び付けてくれるものはなんだと思いますか?私たちが文化を楽しむことを助けてくれるのは? 食べ物ですね!そのビデオを見ました。日本のサンガの人たちは日本の着物を着ていて、韓国の人たちは伝統的な服を着て、ベトナムの人たちも…などなど。それを見てとても嬉しい気持ちになりましたし、お祭り気分になりました。次にサマーリトリートを開く時には、それがお祝いの一つになるでしょう。人類の中にある違いをお祝いするお祭りです。 イタリア人のブラザーは美しいイタリア料理を作ってくれるでしょう。フランス人のブラザーはクレープとクロワッサン、バケット…きっと楽しいでしょうね!私たちはもう経験しているのは、フランス人ブラザーのおかげなのですがディキーンは料理を作るために8時間もそこに座ってかき混ぜてくれていました。それを見た時本当に嬉しくなりました。彼は深く彼の文化にある何かをシェアしてくれようとしてくれていたからです。 そしてブラザーバオダンというインドネシア人のブラザーが麺を使った料理作ると、彼だけでなくみんながそれを楽しむことができます。今この瞑想ホールにいるだけでも10か国以上の国籍の人がいます。それはなんと素晴らしい事でしょうか。違いを持った人たちと一緒にいるということはなんて素晴らしいことなんでしょうか。そしてその違いを楽しめるということが。 私たちはこのプラクティスを生きています。でもプラクティスをし続ける必要があります。なぜなら自分自身を見つめた時に、自分の中にも差別の種があることを見て取ることができるからです。自分の思想の中に、言葉の中にさえあります。ここ最近の世界で鳴らされている気づきの鐘は自分自身へと帰り見ることを助けてくれています。そして時として自分が選ぶ言葉が人を分断させるような言葉だと気がつきます。 あるいは思考の中で。たとえば「それはシスターがやることだよ。ブラザーじゃない」など。それは差別です。それを認識しなければなりません。時として「それは西洋的なものだ」と言うこともありますし、何かに賛成できない時には「それはアジア的なものだから」と言います。自分の中にそのような種があるのを知っています。そしてその私の中の差別の種を変容させる必要があります。 日々の行動をケアする必要があります。自分の考え、言葉、どのようにあるかその振る舞いです。もちろん私たちにはそれぞれ好みがあります。でも、何かを他のものより好むということは、「受け入れない」ということではありません。ある人たちはそれが好きだけれど自分はそうでもないというものがあります。それが自分を豊かにしてくれないと思うものです。でも、それを差別する必要はありません。 例えば大根です。大根が身体に良いことは知っています。ハッピーファームに素晴らしい大根が育っています。でも私は大根が好きじゃないんです。味を楽しむことができません。あの食感も好きじゃないんです。あなたが食べているのを楽しむことはできます。 そこから分かるように、可能なんです。今は食べ物のことを見ましたが、次のレベルに行くと、自分自身、そしてコミュニティについて見えてきます。そして自分が大根が好きじゃないからといって、劣等感を感じる必要はありません。 ある時、タイのアテンドをしていて、タイは食べ物を楽しんでいました。タイの好きな野菜の内の一つにゴーヤがありました。それは身体に良いんです。東洋医学では苦いものは身体に良いものです。特に肝臓に良いんです。タイにアテンドしている時には、タイは私たちに排除しない事のプラクティスの機会をくれます。 伝統的なお寺では、師匠のアテンドをしていたらその先生と一緒に食べることはできません。後ろに立ってただ観察します。何か足りないものがあったら足したり、あるいは片づけをしたりします。でも、タイはコミュニティを発展させていく中で、ご自身を生徒に近いところに持ってきました。食事を弟子たちと共にしたのです。それが見習いでも尊敬される立場の人でも関係ありません。もしあなたがそこにいれば、タイはあなたを招いて一緒に食事をしてくれます。そして食べ物を分けてくれます。 ある時タイは私にゴーヤをくれました。タイに「私はゴーヤが好きじゃないんです」と言いました。でもタイは「身体に良いから、食べることを学びなさい。だんだんと味が分かるよ」と言いました。私は食べました。でも楽しめませんでした。新しいことを挑戦すること、そして自分がそれを楽しめるかどうかを試すことができることを学びました。 私たちはいつも変化していますから、味の好みも、何が食べられるかも変化していきます。だからあなたがオープンであれば、いつかそれを受け入れることができるようになるかもしれません。タイと一緒にいると、いつも食べ物を分かち合ってくれます。そして自分勝手にならない姿が私の心を動かしてくれました。 タイのような禅の先生が、愛と理解のキャパシティを持っていて、まだ未熟な若者に対しても差別をしないのです。それは彼が若者の中にも成長して目覚めるかもしれないという可能性を見ているからです。もっと愛することができる人間になるかもしれないと。そして差別をしないでコミュニティを作る人間になるかもしれないと。タイはダルマティーチャーになるまで待ちなさい、ダルマトークができるようになったら私と一緒にご飯を食べて良い、とは言いませんでした。 この時に、私は自分自身について振り返ると、いろんなことをよく分かっておらず「私は無差別の教えを知っている。だから差別をしない。私は僧侶だ。僧侶は差別をしない。」と思っていました。でも、もっと深く見てみると、その根はまだ変容する必要があることが分かります。私達みんなが、差別の遺産を受け継いでいます。望むと望まないとに関わらず、私たちに手渡されています。 私たちは、僧侶として、プラクティショナーとして、尼僧として、その種を変容させる必要があります。もし、私たちがそれを変容させなければ、次の世代に受け渡してしまいます。それは終わることのない輪です。差別の層の中には、怒りと憎しみ、暴力が入っているからです。 そして暴力はさらなる暴力と差別をもたらします。だから立ち止まることを学ぶ必要があるのです。認識して止まることを学ぶ必要があります。まずは自分の内側のそのサイクルを止める必要があります。もし自分の内側を止めることができれば、未来の世代がそこから学ぶことができるからです。そしてそれを受け渡さずにすみます。私たちは理解と慈悲と、知恵が受け渡されるようにする必要があります。教育が必要です。 だからプラムヴィレッジのリトリートがとても大事なのです。そうなっている理由も分かるんですが、この時にリトリートをできなくてとても残念です。何人かの若い見習い僧が時々シェアしてくれるのですが、彼らは自分がなぜ僧侶なのか分からないと言います。そして何をしなければならないのか分からないと。 それはとても明らかです。種を変容させることです。自らを育み、教育する必要があります。愛と慈悲と理解の種と共に。まずはそれを身につける必要があります。そうしてから人に教えたり受け渡したりすることができます。 ベトナム語では比丘のことを「タイ」と呼びます。比丘になった時にあなたは「先生」と呼ばれるようになるのです。私たちの仕事、役割は、教えること、シェアすることです。でも、まずは自分自身に対して働きかける必要があります。庭に出て、どんな雑草が育っているのか、どの花に水をやる必要があるのかを見ます。そして、ゆっくりとフェンスを取り払います。我々を分け隔てるフェンスです。 だから私たちは毎年何百人もの子どもたちを迎え入れています。プラムヴィレッジがどういう場所か知らないでサマーリトリートに来たら、最初苦しむかもしれません。静かなリトリートに来たつもりだったのに、子どもたちが走っていて、叫んでて、夜9時半までサッカーをしていて、マインドフル検査官がやってきて鐘を20回鳴らして「沈黙のプラクティスをしましょう」と言わなければならないような状況だからです。 でも、そのリトリートで、彼らはここでの愛と平和のエネルギーを教わって、身につけて、抱きしめられます。彼らはそれを私たちと一緒にいるだけで教わっているのです。だから、私たちはホストをして、種を蒔くのです。あとで成長して人類の庭の花となるように。 私はプラムヴィレッジの子どもでした。私が最初に参加したのはサマーリトリートでした。ダルマについてはほとんど知らないでリトリートを去りました。でも、あの場所がどれぐらい平和だったかという感覚とともに去りました。私の周りの人たちがどれぐらい思いやりに満ちていたか。怖れなくても良い場所にいられるということは、素晴らしい条件です。 周りにいる人たちが愛と思いやりについて学んでいる人たちだと知っている時、そのエネルギーは9歳の少年に染みわたっていきました。2つ目に感じたのはスピリチュアリティというのがどれぐらい興味深いかということです。プラクティスのコミュニティがどれぐらい素晴らしいか。 だから子どもが来ると、ブラザーやシスターたちが彼らの面倒を見ます。マインドフルネスについて教えるのは、種に水やりする上で、小さな一角にすぎません。全体の集合的な環境が彼らに影響します。彼らと遊ぶ時が彼らに教えを伝える時なのです。プラムヴィレッジに入って初期のころ、私たちはいくつもの小さなプロジェクトがありました。私たちはいつもファンドレイジングを必要としていました。リトリートから入ってくる収入ではある程度しか賄えなかったので、ファンドレイジングで僧と尼僧と在家のコミュニティを支えていました。だからホールを拡張するためなどでファンドレイジングを行う必要がありました。 一つの方法は、食べ物を作って提供することでした。春巻きやバナナケーキを作って、とてもお祭り的な雰囲気がありました。特にタイの法話の後には彼らはダルマレインを浴びて、ダルマに満たされていましたが、お腹は空いていたので、フードマーケットは大盛況でした。2年か3年やった後でタイが言ったのは、「タイはフードマーケットが多くの喜びをもたらしてくれているのは知っているけれど、誰も歩く瞑想に行ってくれない。なぜならみんなが食べ物を食べているから。」ということでした。だから、私たちは別の方法を探さなくてはいけませんでした。 その時、食べ物を売っていた時には多くの子どもたちが助けてくれました。多くの子どもたちが僧や尼僧と一緒になって料理を売ったり、手渡したりすることを助けてくれました。ある子どもがいて、その子が2ユーロか3ユーロを盗むのを見ました。彼は自分のポケットにお金を入れたのです。私は彼に向って叫びそうになりました。でも、自分に「ちょっと待って」と言って、それがどうなるのかもうちょっと見守ることにしました。 彼が数ユーロを盗んだ時、その子の中でその時に何かが起こっていたのだと思います。彼はどこかに行って、戻って来て「あ!誰かが2ユーロを落として行ったみたいだ。見つけたよ。これはコミュニティにあげるね。」と言いました。 彼は自分が間違ったことをしていると知っていたのです。自分の行為が間違っているとどこかで分かっていました。この環境、この自分に属さないものを盗んではいけないということを教えているコミュニティにいる中で、その子は僧侶からそのことを教わったかどうかは分かりませんが、その環境にいただけで、コミュニティのマインドフルネスのエネルギーの中で、それは間違ったことなのだと分かりました。彼は理解して、戻ってきたのです。そして上手くやらなくてはいけませんでした。おそらく「自分がこれを盗んだ」と言うのは恥ずかしかったのでしょう。だから、自分で物語を作らねばなりませんでした。そのストーリーは「2ユーロ見つけたよ!誰かが落としていったに違いない。これをサンガにあげるよ」というものでした。 だから、私たちがエネルギーを作り出す環境というのはとても大切です。それが他の人を自由にしてくれて、正しさや彼らの中にある倫理にふれることができます。鐘の音を一つ聞きましょう。 (鐘の音) もう一つのブッダの目覚めの花は、インタービーイング(相互存在)の智慧です。誰かを傷つけた時、自分自身を傷つけています。誰かが苦しんでいる時、私たちも苦しみます。誰かが大事にされていて愛されている時、私たちも大事にされていて愛されています。 これは宗教的な背景をもたない教えです。それははっきりと分かります。だからここ何年か私たちの先生とこのコミュニティはウェイクアップスクールの運動を始めました。それはまず、先生たちに自分をケアしてもらうためです。そして子どもたちを教える際の願いを再び思い描いてもらうためです。知っているように、彼らは未来です。私たちはだから彼らにこの知恵を受け渡す必要があります。インタービーイングの知恵です。 他の人が自分の中で苦しんでいることが分かった時、私たちはもっと理解することができますし、バリアを取り除くことができます。地球はこの智慧を持っています。地球にどんなものを注いでも、地球はそれを受け取り、抱きしめて、変容させてくれます。 私たちが地球とつながり、深く見つめた時に、私たちにも責任があるのだと分かります。私たちが地球をサポートしなければなりません。私たちは地球に無差別を教わるべきです。香りの良いものでも、毒でも、地球はすべて受け入れて抱きしめてくれます。これは二酸化炭素を減らし、地球を変容しサポートするために私たちが必要としている集合的な智慧です。 このことをシェアできて、気持ちが軽くなりました。何週間か今起こっているこの苦しみ、痛み、傷に関してプラクティスしてきて、これについて声を上げなければ、これは起こり続けると思うからです。だからプラクティショナーには洞察があって、その無差別の智慧と教えを他の人にも伝える必要があるんです。無差別の教えの中に、愛の教えがあります。 愛の教えの中には4つの教えがあって、それは慈愛、慈悲、喜び、平静さ・排除しない事です。私たちの愛にはこの4つの要素があります。私たちは差別の差別の種を変容させようとします。私たちの分断されたものの見方や概念を変容させます。この智慧に明かりを灯すことを続けましょう。個人としてとして集団として、私たちはこの智慧の種に水をやり、種を植えることができます。自分や自分のコミュニティ、今の世代の人々のためだけでなく、未来の世代のために。 それはとても重要です。その智慧がなければ苦しみ続け、差別を続け、暴力を続け、不正義が続き、はびこります。それが僧侶としてやらなくてはいけないこと、プラクティショナーとしてやらなくてはいけないことです。それが私たちが運ばなくてはいけない、智慧のともし火です。 法灯を授かりダルマティーチャーとなったら自分自身の内側の智慧の明かりをつける必要があります。そしてその明かりを受け渡す責任があります。その明かりを受け渡す方法はいくつもあります。それは何もここに座ってダルマトークをするというだけではありません。それはあなたのあり方です。そして食べ物を分けるということです。誰かが苦しんでいる時に、そこにいるということです。それが無差別なんです。その人の苦しみは、あなたの苦しみ。だからあなたはそこにいるんです。 そして、ダルマティーチャーになるまでその智慧を受け渡すことを待つ必要がありません。ブラザー、シスター、友人のみなさん。その明かりや火はあなたの中にあります。それはあなたにすでに受け渡されています。それを守り、その火を生かし続けるためにプラクティスを続ける必要があります。 このようにして、あなたの火は続き、火のないところ、あるいは火が弱くてまだ明るくなっていないところに火を灯すことができます。コミュニティとして、一緒にやる必要があります。一人でやるには、この荷物を運ぶのは重すぎます。一人では圧倒されてしまうし、耐えられなくなってしまいます。 だからタイの智慧としてあったのは「コミュニティが必要だ」ということでした。愛のあるコミュニティが必要です。私たちは愛しのコミュニティを育み続ける必要があります。私たちの考え、言葉、行動を通して。 ブラザー、シスター、友人のみなさん、聴いてくれて、そしてプラクティスをしてくれてありがとうございます。そのことが私に強さをくれました。そのことが、私が真実の自分であることを許してくれました。サンガのおかげで、本当の我が家に帰ってくることができました。多くの異なる遺産が私の中にあること、そして様々な教えが私に受け渡されていることを見つめることができました。そして、変容が必要な多くの種があることを見ることができました。暴力の種はまた、私の中にもあります。 サンガでは、「私ではない要素」に触れることができます。そのことが私にスペースと自由を与えてくれます。もっと愛することができます。もっと受け入れることができます。そして自分自身、自分の苦しみ、自分の疑いを受け入れることができます。「私は十分に良い人間だろうか?」「私は十分な価値のある人間だろうか?」そのような考えがあることを受け入れ、かつ流されないことを助けてくれます。 そしてそれもまた「私ではない」要素なのです。だからそれを怖れる必要はありません。それを明かりと共にみつめて、変容させることができます。なぜなら、他の種に水やりをすることができますし、異なる知恵が自分の中にあることを見ることができるからです。 今、私は全てです。みなさんと共にいて、私の中にあるその知恵を育んでいきたいと思っています。この智慧があれば、もっと自由になることを学んでいけると知っています。もっと自分を自由にするために解放することができます。そうすれば、私の考えや、言葉、行動はその無差別の知恵を運んでくれるでしょう。 それが私達みんながここでスピリチュアルファミリーとしてしているプラクティスです。そして在家のサンガのメンバーはここの外でプラクティスをしています。抗議に参加し、愛のあるコミュニティを作り上げようとしています。愛しのサンガ、愛しの家族です。 私たちにとって教育して受け渡すということはとても大事なことです。愛と共に理解できるように受け渡します。それはジャッジをしたり、批判をしたりするためではありません。ありがとうございます。 (鐘の音) (翻訳・書き起こし:Kumiko Jin) ーーーーーーーーーーーーー ティク・ナット・ハン「マインドフルネスの教え」 HP: https://www.tnhjapan.org/ Facebook: https://www.facebook.com/tnhjapan/

          2020年6月7日 ブラザーファップフーによる法話「私たちの根にあるもの」

          再生

          2020年6月7日アン・フーンさん法話

          6月7日 アン・フーンさんによる全国のサンガメンバーに向けてのダルマトーク (鐘の音) この鐘の音が宇宙へと染み渡っていきますように。 最も暗いところに住んでいる生物にもこの音がはっきり聞こえますように。 理解と慈悲が彼らに届きますように。 困難から解き放たれて、恐れや悲しみの輪から抜け出すことができますように。 (鐘の音) 皆さんも今アメリカに起こっている非常に大きな苦しみについてお聞きになっているかもしれません。パンデミックが世界中に広がりました。そしてここ数週間で

          2018年富士山リトリート 歩く瞑想ガイド

          富士山リトリートでブラザーファップヒェンが語ってくれた「歩く瞑想」のガイドです。 歩く瞑想はプラムビレッジの一番基本的でシンプルな教えの1つです。 歩く時に呼吸に合わせながら一歩一歩を楽しみます。 タイ(ティック・ナット・ハン師)の言葉で「I have arrived. I am home.(私は辿り着いた。本当の我が家に。)」という言葉があり、歌にもなっていますが、歩く瞑想をする時は、その一歩一歩にたどり着き、その一歩一歩が我が家となります。 自分自身が自分の身体と

          2018年富士山リトリート 歩く瞑想ガイド

          2018年富士山リトリート ブラザーファップトゥによるビギングアニュー

          Beginning Anew (新しく始める)byブラザー・ファップトゥー コミュニティのなかでの調和、ということがとても大事になります。外側に対してとても素敵に見えて、良いことをしているように見えても、実際には中にいる人たちは仲が悪くてケンカをしているようでは意味がありません。 でも人が集まれば争いが起こります。コミュニティでもパートナーでも家族でも。 3人の人が集まれば、誤解が生まれ、誰かと誰かが裏で悪口を言う。三角形の人間関係です。韓国ドラマのテーマはほとんどこれ

          2018年富士山リトリート ブラザーファップトゥによるビギングアニュー

          なぜブッダは瞑想を続けていたのか?(雑誌の特集よりタイの言葉)

          【なぜブッダは瞑想を続けていたのか?】 私が若い僧侶だった頃、なぜブッダはブッダ(目覚めた人)となった後もマインドフルのプラクティスや瞑想を続けていたのだろう、と不思議に思っていた。今はその理由がはっきりわかる。幸せというのもまた他のものと同じように無常なものだからだ。幸せが広がり新たなものとなるためには、自分の幸せの種にどうやって栄養を与えるかということを学ばなくてはいけない。食べ物なしではどんなものも生きられない。幸せもまた同じだ。もしどうやって養っていくかを知らなけれ

          なぜブッダは瞑想を続けていたのか?(雑誌の特集よりタイの言葉)

          「自分の内側の傷ついた子どもを癒す」(タイを特集した雑誌でのタイの言葉より)

          【自分の内側の傷ついた子どもを癒す】 1.自分の内側の傷ついた子ども(インナーチャイルド) 私たち一人一人の内側には苦しみを抱えた小さな子どもがいます。私たちの誰もが子どもの時に困難を経験し、そしてトラウマを経験している人も多くいます。自分を未来の苦しみから守るために、それらの苦難の時について忘れようとします。苦しみの経験に出会うと、それに耐えることはできないと思い込み、自分の感情や記憶を無意識の奥にしまいこみます。何十年もその思いに向き合わないままのこともあります。 し

          「自分の内側の傷ついた子どもを癒す」(タイを特集した雑誌でのタイの言葉より)

          2017年5月富士山リトリートブラザーシスターの印象的な言葉

          プラムビレッジのブラザー・シスターたちの印象的な言葉(どの言葉がどなたかメモが残っておらず、すみません…。この写真に写ってらっしゃるのは、シスターハーモニー、ブラザーファプリュー、シスターインサイト、ブラザーポテトの4名) 「愛とはまずなによりも、そこに本当に存在するということ。隣にいても、別のことを考えていたら、そこには本当に存在しない。 自分を愛する、ということはどういうことか。それは自分自身のためにそこに存在していること。自分のことを愛し、受け入れることがなければ、

          2017年5月富士山リトリートブラザーシスターの印象的な言葉