Kuni
旅の写真とコトバで、本を作りたいと思っています。
とりあえず、何かを書き出してみる。 とりあえず、動いてみる。 それが大切な時が、あると思う。 だから、今この一つ一つの文字が、ここに打ち込まれてきている。 ああしたらこうなる、と 先のことを頭のなかで巡らせるのも 大切な時がある。 ただ、それが済んだら すぐに目の前の現実に戻ること。 その目の前にある選択を 意識して、進みたい方向へ自分で舵を切ること。 先に島は見えなくとも 進んだ先の景色が、また次の方向を教えてくれる。 さて、そろそろ船出の時がきたようです。
後先のことなど考えず どこへ向かっているのかも考えず ただこうして指を動かし、文字を表す。 そこに行ってみて そこからしか見えないものが見える。 そしたら、またその少し先が見え 気づけば後ろには あなたの歩んで来た道ができる。 後ろを振り返って見るのも まだない先のことを勝手に想像するのもいいけれど 気が済んだら、ここに戻り 目の前のことから目をそらさず 手を動かす。 それで、いいのだ と思う、雨の夕暮れ
先のことなんて、わからない。 わからないのが、いいんじゃない。 だって どうなるかわかっちゃったら、 シラけちゃうでしょ。 だから、先のことなんて、わからなくていい。 先のことなんて、いま決めることもない。 だってその時にはその時にしか感じられないものがあるから。 自分を縛ってしまうこともないし 可能性の扉を閉じることもない。 その時その瞬間に感じるままに あなたがあなたでいてくれたら
トランプで、大貧民というゲームがあった。 勝者は大富豪となり、2番手が富豪。 大富豪は、ビリの大貧民から強いカードを2枚もらえ、代わりにいらないカードを2枚渡す。 富豪はビリから2番目の人から、一番強いカードを1枚もらい、代わりにいらないカードを一枚あげる。 そんなルールのゲームだった。 それだから、一度大富豪になると、たいていの場合、勝ち続けることになる。同様に、一度大貧民になると、強いカードを2枚も持っていかれるため、なかなか勝ち上がっていくことが難しくなる。 た
巡りの中に 身を委ねる。 それが怖かった。 自分を失うのではないか。 自分は損をするのではないか。 「自分」がそれを怖がった。 そこに「自分」が生まれた。 そんな「自分」を成り立たせるため 自分と他のあいだに境界線がひかれ、 全体の一部だった自分が、切り離される。 望み通り「自分」が生まれる。 なのに何故だか、安心できない。 他人の幸せを喜ぶことができない。 幸せの総数が決まっていて 僕が幸せだと誰かが不幸せで 誰かが幸せだと僕の幸せが減ってしまう。 世界が
何はともあれ 投稿してみる。 何を書くかなんて 書いてる今もまだ、わかってなんかない。 書けるとか書けないとか 何かを書こうとか うまく書こうとか そんなことはどうでもよくて ただ書いてみる。 空っぽになって、書いてみる。 そんなところに、何かが生まれる。
世界平和。 いつもどこかしらで争いが続く世の中にあって、それを実現することは無理だという人も多いかもしれません。 そもそも、世界というのは、概念です。 世界を持ってきて、と言っても持ってこれないし、これが世界だ、と指をさせるものもありません。 だから、そんな見えないものの平和なんて、ますます難しく思えてきます。 だから、僕は、身の回りの平和を心がけようと思って生きています。 僕にとっての触れられる世界。それは、親だったり友達だったりご近所さんだったり、スーパーの店員さん
いつの頃からかは覚えてないが ずっと探し物をしてきた。そんな氣がする。 何を探しているのかさえ分からないまま 探していることさえ時に忘れ ずっと何かを探してきた。 それは「ここではないどこか」にあると思い込み 遠くばかりを探してきた。 あてもなく、直感だけを頼りにさまよい続けた。 そうやって辿り着いたインドの山の上で、方向転換が起こった。 特に劇的な何かが起こったわけではなかった。 ただ、立ち止まってみただけのことだった。 探し回るのをやめ、何かをやろう
物事には、優先順位がある。 いつからか、そんなことを意識するようになった。 ぼくには、自分のことをないがしろにして 他人の手助けをする癖があった。 それを優しいねと言う人もいたが、それは余計なお世話とも言えた。 あるいは、人のことを心配するフリをして 自分のことから逃げる巧妙な手だとも言えた。 自分の靴紐がほどけていて今にも転びそうなのに 他人の心配し、手伝っている滑稽さ。 まずは自分のことをやりなよ、という話だ。 要するに、優先順位がごちゃごちゃになっていたの
死について思いを巡らすことが多くなった。 可愛がってくれた祖父母たちは、あの世に行ってしまったし 同じ年代、あるいは年下でさえ、さっさと旅立ってしまった奴らがいる。 歳を重ねることで、死が身近になり 死を身近に感じるようになって、歳を重ねてきたことを実感する。 世の中「絶対」というものはそうそう無い、と思っているが 誰にとっても死がやってくるというのは、どうやら絶対のようだ。 生きている限り、死ぬ。 死ぬということは、生きることと切っても切れない関係のようだ。 当
ぼくが誰かを愛するのは、愛さなければならないからではない。 ぼくが誰かに優しくするのは、優しくしなければならないからではない。 ぼくが仕事をするのは、仕事をしなければならないからではない。 ぼくがカメラのシャッターを切るのは、写真を撮らなければならないからではない。 僕が生きているのは、生きなければならないからではない。 やりたいからやる。ただそれだけのこと。 やりたくないから、やらない。ただそれだけのこと。 そして、その選択の結果を、受け入れるまでだ。 つま
昔働いていた職場に、ひとまわりくらい年下の 若くて活きのいい若い男の子がいた。 その子は、生意気だった。 そして、若さゆえの甘さも隙もあった。 そんなことも含めて、僕は彼が嫌いではなかった。 ある時、僕がやったことに対して、彼が文句を言ってきた。 相変わらず生意気な言い草だったが、彼の言ったことには一理あった。 相手が年上だろうがなんだろうが 間違っていることを間違ってると言ってくれることは、ありがたかった。 ただ、そんな風に思えたのは後になってから。 その時はカ
その昔、インドネシアのギリ・アイルという島で仲良くなった子が家に招待してくれて、ご飯をご馳走になったことがあった。 その時、ご飯を作っていた奥さんがふと僕に 「ねえ、豚肉って、美味しいんでしょ?」 と恥ずかしそうに、それでも意を決めたように聞いてきた。 イスラム教では豚肉を食べることは戒律で禁止されている。 「豚肉も美味しいよ」と答えると 「やっぱり美味しいんだ!」と目を輝かせて遠くを見たので、思わず僕は笑ってしまった。 それで彼女が豚肉を食べるかというと、そんなこと
焚き火が好きだ。 今の日本では気軽に焚き火できる場所は珍しくなってしまっているが、世界を見渡すと、生活の中に火がある所はまだまだ多い。 動物と人間を分ける大きな違いの一つは、火を扱えるかどうか。 暖をとったり、料理をしたり、友と火を囲んだり、暗闇を照らしたり。火無くして、今の人間社会は成り立たなかっただろう。 モンゴルの田舎を旅した時、日暮れまでにやらなければいけないことといえば、テントを張り、火を起こしておくことだった。火が起きてようやく安心したのを今でも覚えている
なんとか一歩目を踏み出すことができた。よしよし。 一歩目は大切。だけど、それと同じくらい2歩目も大切。 そんなわけで、テンポよく2歩目を踏み出して勢いをつけたいところ。 さて、何を書くか。 今のところ、まだ何も決めていない。。。 よし。 今日は『決めないこと』について書いてみるとする。 昨日少し書いたけれど、僕は世界一周バックパッキングの旅をするために、会社を辞めた。 そういう旅は学生時代に済ませておくものなんだろうけど 僕がそんな旅に出会ったのは、会社員になって
何かを始めるとき はじめの一歩が難しい。 やったことがないから、どうなるかわからない。 だから、失敗するかもしれない。 せっかくの真っ白なキャンパス、できれば失敗で汚したくない。 そんなわけで、あれこれシュミレーションして時間ばかりが経ち 時間をかけるほど尚更に、一歩目が踏み出しにくくなる。 実を言うとこのnote、下書きを書いてはこねくり回し 数ヶ月経った今でもまだ一つも投稿することができていない。。。 「初めてあるある」だ。 そんなことを書いていて、 ある時踏み