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トッド・フィリップス「ジョーカー」

誰もが心のどこかで密かに燃え上がる炎を抱えているところに憎しみのガソリンを撒くものは悪だろうか。あるいは偶然の産物たる撃鉄が起こした火花が皆が心の奥で燻らせていた松明に着火したのだとしたらそれは悪だろうか。
他人を焼く炎は自らも焼くのかもしれない。無関心と無責任は対象にすらされないその対象を誰も見ないまま生きながらに焼く火だ。しかしその火は誰にも見えないゆえに(誰も見ないゆえに)、火を放った張本人たちへと帰ってきて、彼らをこそ焼くのだ。
誰もがあらゆる誰かを見ることなど不可能なのに。善意の影には悪意が巣食う。善意は施す者から施される者へ直線的なのに、悪意はその対象にされなかった(と感じる)者たちの間で平面的に通じていくからだ。善意とは銃である。対象を意識して向けられた銃弾は時に悪をくじき被害者を助けるかもしれないが、対象を意識せず放たれた無造作な銃撃は撃たれたと感じる犠牲者を無作為に生み出す。今や誰もがどこかで何かの痛みを抱えて生きているからだ。たとえ実際に弾が当たっていなかったとしても、痛みを既に覚えているものの心には穴が空いていて、涙という血はもういつでも流れている。
笑えるだろうか。これは因果応報という冗談だ。でもその因果は、とてもそれを起こした人たちには理解できない、がんじがらめで完璧に破綻している、応報だ。
偶発的に最初の犠牲者となるウェイン・コーポレーションのエリートサラリーマン三人たちの死に様こそ、まさしくそうなのだろう。彼らにとっては遊びでも、疲れているだろう仕事の帰り道に大の男三人にからかわれる女性にとっては深刻な現実だし、疾患のために笑いの発作を抑えられないアーサーにとっては笑いたくもないことで笑わざるを得ない苦痛に満ちた状況だ。
あらゆる場面で誰もがそれと意識せずに善意の、あるいは悪意の銃弾を乱射しているのに、それを意識するものはいない。悪戯な遊び心を誰彼かまわずぶちまけた男たちはもちろん、そんな彼らを実際に知っていれば下劣な社員を「家族」などと言うはずのない、殺人という悪を正そうと発言したトーマス・ウェインの善意もまた、貧困や不自由な人生のなかで生きる人々の現実を、それと意識することなく愚弄してしまうものだ。
誰かのなんてことのない悪意に人は狂い、誰かの何気ない善意にもまた人は憤るのかもしれない。アーサーがしたこととは少なくともその前半においては、ガソリンがいっぱいの部屋で不意に訪れた突然の暗闇に目を凝らそうと、それと知らずにマッチを擦ったようなものだ。極寒の中で裸で佇むものに体を震わすなと誰が言えるだろうかという例え話がいつかどこかであったはずだ。
しかしその結果、火は瞬く間にあらゆるところへ燃え広がる。決して誰も意図せぬことでも、ガソリンまみれの部屋を炎が包むのは不可避なことである。もちろんその部屋には、まだ見えないだけでマッチを擦ったもの以外にも富める者、病める者、貧しき者、あらゆる者たちが詰めているが、お互いの存在はキスするほどの近さでなければ認識できない。暗闇の中で彼らの間にいるかもしれない誰かを想像する余裕はなく、目の前の人に割くだけの愛はない。隣人でも他人は他人だ。
しかしそれだけならばこの物語は悲しい偶然が生んだだけのいつもどこかでよくある話だったのかもしれない。誰かの悪意で意図せず火を放ってしまったことで狂気に陥る男は、燻らせた火をまた誰かの善意で静かに燃え上がらせ、やがてその炎を意識して誰かに向けようとしたとき、悪は完遂されるのだ。
始まりは偶然かもしれないが、終わりは必然だ。アーサーと呼ばれた男は、自らジョーカーと呼ばれるように仕向ける。憎しみのコントロール不可能な偶発的連鎖性のなかでウェイン夫妻は命を落とすが、自らの笑いの神に銃口を向けて撃鉄を下ろすのは彼自身の必然なのである。
それはあらかじめ選択を奪われた人間に残された唯一の存在証明となる可能性という蟷螂の斧だったように思う。どこにも行けない、何もなれない者ができることは、自らに銃を向けるか、誰かに銃を向けるか、だけなのだろうか。
もしこの作品に出てこないバットマンのことを意識するのなら、誰かのために自らを生贄に捧げるものは善となり、自らのために誰かを犠牲にするものは悪となると言えるのだろう。成長したブルースは仮面を被りバットマンになることで自らを犠牲にして他人を救うが、狂ったアーサーは化粧をしてジョーカーとなり他人を殺すことで自らを生かすのだ。
では何が彼らを分かつのだろうか。この複雑な映画を簡単にまとめてしまうことはそれこそアーサーのような状況に置かれている人たちへの冒涜だと理解しつつ一言で述べれば、やはりそれは愛の欠如である。
愛は生まれるものではなく、与えられてこそ、与えられるものなのだ。ブルースにはきっと血の繋がらないアルフレッドが与える無償の愛がこの後に待っていたことだろう。母親思いのアーサーには初めから妄想にまみれた偽りの愛しかなかったのである。
すなわちこの映画こそ完全なる孤独の映画だと言える気がする。それは、彼らはそこにいるけれど、彼らは誰でもなく、誰に気を許すことも許されることもないまま、誰もが誰の知り合いでもないというスタンドアローンな世界なのである。
アーサーの孤独が起こした火は、辺り一帯を燃やすことでまわりにはまだ他の誰かもいるのだということを照らし出したが、伝染する怒りと憎しみの炎だけが繋げた彼らは、仲間であって仲間ではないし、まして友達でも身内でもなく家族などではない。
警官に追われて逃げ込んだ電車内でアーサーに仮面を取られた男が辺り構わず殴りかかり関係のない別の仮面の男との取っ組み合いが始まる。それは警官たちすら巻き込んで、予期せぬ弾丸はさらに他人たちの血を寄越す。
地位も名誉も立場も階級も関係ない。無秩序な混乱と暴力的な混沌の中でこそあらゆるものが平等で公平だ。そのとき、秩序ある社会で暮らしていくために化粧をして泣いていた男は、誰もが簡単に被ることだけはできるピエロの仮面をゴミ箱に投げ捨てて、自分だけの化粧という仮面を本性にすることで無秩序な世界に初めて君臨する。
まさしく血塗られた化粧。この世は舞台、人はみな役者だというのなら、誰よりも役になりきった者こそが真の人間となるのだろう。いつも誰か他人の都合で振り回されていた男は、台本のない無秩序な舞台で、血まみれになるほどにみなを振り回すことで主役に躍り出る。
しかしアーサーはアーサーの人生を生きようとしただけだ。だからこれは喜劇。近視眼的喜劇。自分のことしか見えてない者による喜劇。遠視的には悲劇。失われる命や破壊される秩序の外縁から見渡せば悲劇。チャップリン「モダンタイムス」の引用こそおもしろい。チャップリンの命危うい悲劇を遠くから見ている富裕層たちにとってチャップリンの九死に一生は喜劇だった。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」というチャップリンの名言をトッド・フィリップスは華麗に反転させてみせる。それは独善的で自意識過剰で自己中心的な個人たちによる現代世界の反転だ。俺が笑っていれば俺の人生は喜劇。ということはお前が泣いていればお前の人生は悲劇であると俺が決めるのだ。
アーサーはジョーカーとなってそれを他人に決められる側から自分で決める側になろうとしたにすぎない。なにせ現代の文明的社会では誰もが人間的権利を持った自由な一個人であり、人は人種、信条、性別、社会的身分、又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されないのだから。
誰も見向きもしないくせに、自分とは違う境遇の者たちを下に見るのなら、力ずくで振り向かせるまでなのである。たとえ振り向かせようとした結果、そいつらの首がねじ切れて脳漿がぶちまけられたとしても。
愛を持たない孤独な他人が愛を求めていたとしても誰も愛を与えようとはしない。得体が知れないから赤の他人なのであり、知らないものは怖いのが人情というものだ。自らが希望した関係は日常に壊れた脳みそが見せた幻だと知れば絶望し、愛と思っていたものが偽りと分かれば憎しみとなり、盲目な憧れは露悪的な現実の前では容易く怒りへと変わる。
全て人生をなんとか生きていくためのポジティブな明るさは、惨憺たる結末を這いずり回るしかないネガティブな暗がりと表裏一体だ。人が行き交う街中でも側溝にはドブネズミが徘徊する。孤独な者たちは孤独ではない者たちのために人知れず孤独を深めていく。だからこれは孤独なアーサーが照らした光が孤独なものたちの怒りと憎しみを浮かび上がらせる劇薬的な映画である。
何を間違えてきたのかもわからずに頭を抱え、あるいは何も間違えてなどいないと胸を張り、自分の人生の悲劇だけに囚われる孤独な魂たちは、この映画を通じて今、現在に生きる自らの孤独は自らだけのものではないのだということを知り、拭えぬ孤独のままに怒りと憎しみで連帯する。
きっとこの映画を見れば、今、生きることに苦しみ誰にも手を差し伸べられずに抱え込んで辛い思いをしている人ほど、孤独なのは私だけではない、誰もに愛されていないのは私だけではないと、孤独を孤独のままに共有できるのかもしれない。
しかし化粧で素顔を隠して化粧こそを本性にしてしまったアーサー=ジョーカーの作った無秩序で平等な世界では孤独な魂たちは誰もが匿名の道化師に過ぎない。怒り狂う孤独な人々は隣に立つ同じマスクをした人間がどこの誰かもわからずに未だ孤独なまま憎しみの狂乱へと共に身をやつす。
これは孤独な人たちが孤独な人たちに出会う物語ではない。孤独な人たちの隣には必ず誰かがいるし、何なら言葉を交わせば同じ目的意識や同じ感情を持ってるかもしれないのに、お互いに怒りと憎しみで燃え盛る炎のなかで一体となって、互いを知らぬままに互いのままでいるということの完全なる孤独の物語なのだ。
アーサーの、そしてゴッサムシティの人々の、そしてこの時代にこの作品を見る我々の、完全なる孤独の物語だ。それは紛れもなくSNS時代の象徴的傑作である。互いが互いを知らぬまま互いに関わろうとせずに知りたい情報だけを探し出して拡散して共有し、憎しみと怒りの流れのなかに身を任せて、やがて誰の責任もないままあまりに大きな破壊的渦だけを生み出していく。
それは大きなイデオロギーを互いに持ち得た時代に革命へと流れた思想的連帯には程遠く、誰もが大きな物語を持ち得ない時代に生まれた有象無象の小さな物語が集積しただけの感情的共同体に過ぎない。
自分だけを見て、自分と同じ考えのものだけを見ていて、誰でもなく、誰であろうともせず、誰も知ろうとしない。それはあまりに孤独な世界の暴力的実相のように思える。
アーサーの笑いは誰も笑わせない。アーサーが笑わせているのは自分自身だからだ。なのに他の人たちを笑わせようとしている。アーサーは他人に愛されない。アーサーは他人を知ろうとしないからだ。他人が他人のままならば他人が他人を愛することはない。
孤独な心に他人からの関心は薬であり毒である。職場では愛想笑いをして、家庭では愛想を尽くさないといけない人にとって、仕事でもプライベートでもない時間で声をかけてくれる他人との出会いは貴重なのだ。
でもアーサーは彼に声をかけてくれた幼い娘と住む母親に彼自身のことを知ってもらおうと努力しただろうか。きっとアーサーは同じ階に住む彼女の名前すら知らない。唯一優しくしてくれたという小人症の男にアーサーは優しくしていただろうか。たとえ空気を読んだフリだとしても悪辣な冗談に一緒に笑っていたじゃないか。
ジョーカーは無関心と無責任が生んだ因果応報をその大元たちへともたらす悪魔だ。しかしアーサー自身もまた自分の境遇に涙するだけで他人の状況には関わろとしない無関心と無責任さのなかで生きている人間であり、あるいは自分を守るだけで精一杯で関心や責任を持つための余裕が失われた人間であるということは留意されねばならない。
ジョーカーを生んだのは関心なき他人たちの社会なのかもしれないが、ジョーカーになったのはアーサー自身の選択なのである。だからトッド・フィリップスは自己中心的で無関心かつ無責任な人たちでまわる不寛容な社会というものを批評しながら、アーサー=ジョーカーをその社会や他人たちによる犠牲者とはしていない。
犠牲者として描いていくことで、そこからアーサーによって選び取られてきた加害性を汲み取っている。だから見るものはこの映画を通じて孤独を養分に悪徳が花開く美しくグロテスクな瞬間を断続的に目撃するけれど、それは意図なき他人たちに虐げられてきた人間による意志ある暴虐を肯定するものではないのだ。
しかしそんな個人、社会を大真面目に考えて生きてみせるということが、もはや誰にも理解できない冗談みたいなことなのかもしれない。それは今生きてる自分とは誰か、今生きている社会とは何かと考える壮大で長ったらしいだけでパンチラインのない冗談だ。
オチをつけるのは「死」のみである。すなわち「Life is a Only Big Joke」ということなのである。

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