岡潔『春宵十話』 ➡ 井上靖『敦煌』 ➡レイ・ブラッドベリ『華氏451度』
※※ヘッド画像は ハザカイユウ さまより。
書物のシルクロードを歩く。
岡潔に薦められて、井上靖の『敦煌』を再読。新発見があった。『敦煌』はレイ・ブラッドベリ『華氏451度』と対になっている。この記事では、そんな発見について語っていきたい。
『敦煌』を褒める岡潔
角川ソフィア文庫『春宵十話』の「好きな芸術家」というエッセイにて、現代文学では井上靖の『敦煌』を褒めている。
現代文学も時代のサンプルとしてときどき読むことがある。近ごろ、井上靖の「敦煌」を読んだ。非常におもしろく、すばらしいが、またテンポの早いのにもびっくりした。非常にスケールの大きいものをものすごく短い時間に読ませてしまう。
だれかが批評して、ゲーテを黒光りする磨いた机にたとえれば「風と共に去りぬ」は張り光沢だとうまいことをいったが、この「敦煌」も張り光沢のように正面からぴっ、ぴっとはねるのが目立っている。しかも「風と共に去りぬ」のように単におもしろいというのではなく、テンポは早いがそれでいてちゃんと詩情がある。たしかに井上靖の文学は擬音ではない。少々ほめておいてもよいと思う。
――岡潔『春宵十話』「好きな芸術家」角川ソフィア文庫 p.157
振り返れば『敦煌』も「そうか!」となる。敦煌が西夏に滅ぼされ、年月が経ち、莫高窟が発掘され、数多の遊牧民族に関する膨大な文献や仏典が発見される。時間としても空間としても、スケールの大きな話だ。
だが壮大なスケールの物語も、程々の厚さの文庫本一冊で済んでしまう。『西遊記』や『水滸伝』といった古典、吉川英治の『宮本武蔵』『新・平家物語』と比べれば、物語の展開は格段に早い。
ともあれ、岡潔が褒めている小説は読みたくなってしまう。『敦煌』も一度読んだ小説であるが、もう一度読み返してみた。読み返してみたら、大きな発見があった。次はその発見の話をしてみたい。
井上靖『敦煌』の再読と新しい発見
『敦煌』は書物を生み、守り抜く話であった。【様々な書物が戦火を逃れたお陰で、何百年の時を経て、敦煌から昔のアジアの姿を透かして見られる】という話だから、当然そう解釈するべきなのだ。だが、この当たり前のことを見逃していた。
この当然の解釈を見逃していたために、この小説がブラッドベリ『華氏451度』と対となっていることに気づかなかった。『敦煌』が【書物が厄災を免れる話】であれば、『華氏451度』は【書物が容赦なく燃やされる話】である。今月の『100分de名著』でも取り上げられていたために、この本を読んだという方も多いだろう。
『敦煌』と『華氏451度』から得る教訓と勇気
我々は『1984年』や『華氏451度』のようなディストピア小説ばかりに目を向けてしまう。作中に描かれるディストピアに現代社会を重ね、憂うばかりだ。しかし憂うばかりでは未来を変えられない。『敦煌』の主人公の趙行徳から勇気を貰う必要がある。『華氏451度』を読んだのであれば、併せて『敦煌』も読んでおくべきだろう。
……岡潔が『敦煌』を褒めた理由は、今の話とは異なるに違いない。
しかし、再読で得た発見の歓びは鋭い。
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