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【小説de俳句】『死者の書』折口信夫
鴨鳴きておもかげひとつ残りけり
其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の聲だった。今思ふと──待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする。──をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。俄かに、樂な廣々とした世間に、出たやうな感じが來た。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去つた──おれ自分すら、おれが何だか、ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。
(中公文庫)
謀反の疑いで命召され、二上山に埋葬された滋賀津彦は、死の直前に見た耳面刀自の魂を、50年後の世に生きる藤原南家郎女の中に見出す。
魂の道のひらける中日や
なも 阿彌陀ほとけ。あなたふと 阿彌陀ほとけ。
この美しく聡明な姫は、唐からもたらされた新訳の阿弥陀経の写経をし始めてから、春分と秋分の彼岸中日、二上山の男嶽と女嶽の間に、神々しい阿弥陀仏の姿を見る。次の春分の日、千部目の最後の文字を写し終わり、窓を見ると、雨。仏の姿を見ることの叶わなかった姫は、その夜、神隠しに会ったように、ひとりでひたすら西へ西へと歩き、二上山の麓の女人禁制の寺へ着く。
伝へたき思ひに宿るいのちかな
この中(注:この前)申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別でもおざりました。天若日子でもおざりました。天の日に矢を射かける──。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。
女人結界を犯した罪を贖うため、寺の近くの廬に籠っている姫のもとに、夜な夜なつたつたと訪れる足音。姫は滋賀津彦と仏の姿を重ねる。姫に昔語りをする土地の 媼は、天に弓を引いた天若日子、隼別皇子、滋賀津彦を同一視する。姫と切り離された媼の魂は、二上山に現れる尊い裸身に纏わせるための布を織る姫の夢の中に、織り方のコツを教える尼となって現れる。
*滋賀津彦のモデルのひとりは大津皇子。
「もゝつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集 巻3 416)
*藤原南家郎女のモデルのひとりは中将姫。奈良の當麻寺に伝わる『当麻曼荼羅』を織ったとされる、日本の伝説上の人物(wikipediaより)。
*写真は以下のサイトよりお借りしました。
(川本喜八郎監督の人形アニメーション『死者の書』より)