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宮澤賢治『青森挽歌』を読む ~妹は蛙になったのか~
青森挽歌は難解だ。イメージの飛躍、視座の転換、突然のように挿入される独白に、読み手の思考が追い付かない。
冒頭の数行はあまりにも美しい情景描写だ。銀河鉄道のイメージは、このころ既に賢治の中にあった。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
(乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷つてゐるらしい
きしやは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
妹の死を消化しようとする賢治
冒頭の美しい情景描写を離れ、中盤からは、としの死を言葉の洪水のように語る。死を悼む挽歌をはるかに超えて、もはや絶唱である。
賢治が妹の死について語り始めたとき、突然のように「ぼく」が「ギルちゃん」について語るシーンが挿入される。「ぼく」とは誰か。「ギルちゃん」とは何者か。赤い目をしたナーガラの正体は何か。
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(草や沼やです
一本の木もです)
《ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ》
《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
《ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
だんだん環をちいさくしたよ こんなに》
《し、環をお切り そら 手を出して》
《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
《鳥がね、たくさんたねまきのときのやうに
ばあつと空を通つたの
でもギルちやんだまつてゐたよ》
《お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ》
《ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
ぼくほんたうにつらかつた》
《さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ》
《どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする
「あいつ」とは妹としのことだ。銀河鉄道の停車場を降り、としは一人でどこの世界かわからない場所へ行ってしまう。賢治の視線は、その行き先を追いかけようとする。
妹の死の描写から連なる不可思議な会話は、どうしても死を想起させる。オモダカのところではしゃいでいたギルちゃんは、全てを忘れてしまったかのように視線を合わせない。それは、赤い目のナーガラが輪を小さくしたからだ。蛇が蛙を締め上げ、徐々に飲み込んでいくように。
≪し 輪をお切り そら 手を出して≫
これは死の穢れを払う儀式だ。蛙のギルちゃんは蛇に飲まれてしまった。
蛙に転生する妹
「ぼく」が賢治であり、「ギルちゃん」が妹としであるというイメージが浮かぶ。しかし、なぜ妹は蛙にならなければならないのか。
蛇は一般的には性欲の象徴だろう。一方、蛙は生命力を象徴している。信仰を共にする最愛の妹を生々しい生命力を湛える蛙とし、おまけに性欲の邪神に食わせる。このような賢治の想像力は理解に苦しむ。ただ、確かにわかることは、としは賢治の知らないところへ行ってしまったということだ。生きている者には、その世界を想像するどころか感じることさえできないのだ。
死を消化しようとする賢治
としは、亡くなった時24歳だった。それまでまっすぐに信仰に生きただろう。生まれ変わった次の人生では、24歳の女性らしく、生きることを謳歌するかもしれない。いや、畜生道に落ちれば、蛙となり、本能のままに繁殖のためだけに生きるのかもしれない。それは、誰にも選ぶことのできない業であり、輪廻の修羅なのである。その苦しみから逃れられない賢治は、あふれる思いを言葉に変え挽歌とした。
賢治は、青森挽歌を詠むことによって妹の死を消化しようとした。しかし、その体内での作用は、蛙が蛇に喰い殺され、消化されることに等しい苦しみを必要とした。
青森挽歌は長編の詩であり、今回取り上げたのはほんの一部に過ぎない。残りの部分は、機会があれば、いずれチャレンジしてみたい。
草野心平『青イ花』
宮澤賢治の詩を絶賛した草野心平は、後年になって蛙を描いた詩集を発刊した。その中に『青イ花』という一編の詩がある。この詩は、賢治の青森挽歌へのオマージュだろう。
青イ花 草野心平
トテモキレイナ花。
イッパイデス。
イイニホヒ。イッパイ。
オモイクラヰ。
オ母サン。
ボク。
カヘリマセン。
沼ノ水口ノ。
アスコノオモダカノネモトカラ。
ボク。トンダラ。
ヘビノ眼ヒカッタ。
ボクソレカラ。
忘レチャッタ。
オ母サン。
サヨナラ。
大キナ青イ花モエテマス
米津玄師『カムパネルラ』
もう一人、青森挽歌に影響を受けた人物を紹介しよう。米津玄師である。『カムパネルラ』という曲がある。カムパネルラという名からわかる通り、『銀河鉄道の夜』と重ねる人は多いだろう。しかし、この歌詞は青森挽歌への米津玄師の挑戦ではないだろうか。『カムパネルラ』も挽歌である。目まぐるしく変わっていく情景の描写、唐突に入り込む鎮魂の言葉は、青森挽歌を思わせる。米津玄師、ただモノではないな。
あの人の言う通り
いつになれど癒えない傷があるでしょう
黄昏を振り返り
その度 過ちを知るでしょう
終わる日まで寄り添うように
君を憶えていたい
カムパネルラ
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