本雑綱目 66 サンディリャーナ ガリレオ裁判
今回はサンディリャーナ著『ガリレオ裁判』です。一瀬幸雄訳。
岩波書店、ASIN : B000J9ZYDU。
NDC分類では440、自然科学>天文学. 宇宙科学に分類しています。
これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。
★図書分類順索引
1.読前印象
最近チ。がアニメ化したと聞きました。チ。はこの地球ではない話(にして全方位から安全をえた著者は凄いと思う)だけれど、天が動くか地が動くかという問題はこの世界の構造の根幹に関わることで、そして世界を造り給うた神概念と直接対決するすごいテーマである。ガリレオは天動説を認めるみような文書に署名したがそれが偽造だとか偽造でないとかいう話になったんだっけ。ガリレオ裁判周りでは署名のない文章が飛び交ってた記憶。
中世ヨーロッパでは、天体の動きがどうのという以前に聖書が全てで、それを否定することは神の否定に繋がる。そうするとキリスト教世界では死後は地獄一直線だ。魔女を火葬(火あぶり)にするのは最後の審判で復活する肉体を失い天国にいけないことを示すと書いてあった記憶があるチ。はやっぱり面白い。
とりあえず開いてみよう~。
2.目次と前書きチェック
まえがきとはじめにを読む。
ガリレオがやった行為は思想を宗教から分けたことだ。科学の発見が価値という対立をもたらす場合、例えばこの本ではオッペンハイマー事件との類似性を上げているが、その真実性とは別に大きな文化的な波紋をもたらす。現代ではクローン人間や高度AIなどが当てはまるかもしれないけれど、科学者とは、もっといえば科学とはなにかという問い掛けが社会として浮かび上がった現象のうちの1つがこのガリレオ事件と言える。その中でガリレオは科学として地動説をただ発見したにすぎないにもかかわらず、その発見は不安と驚きの目で見られた。それが価値の変転をもたらしたことは、問題とされた彼の様々な書簡の扱いや、発見した事実自体については問題視されていないことからも明らかである。
これまでガリレオ事件の語られ方は、文書の偽造をはじめとした様々な陰謀論、カトリック教会側に対する単純な非難又は貶めであり、この裁判で何が争われていたのかを直視していない。よって改めてガリレオ裁判とそれによって生じた周囲の状況について論ずる。
すでに面白い。こういう価値概念の対立の話は大好物。
目次は『発見の日々』、『ドミニ・カネス(正統信仰の番犬ども)』、『哲学的間奏曲』、『聖ロベルト・ベラルミーノ』、『禁書令』、『ベラルミーノの接見』、『沈黙の歳月』、『法皇ウルバヌス八世』、『(天文対話)』、『出頭命令』、『異端審問官の嘆き』、『裁判』、『偽造の特別禁止命令の問題』、『針路変更』、『判決』、『事後の波紋』になる。
中身がよくわからん。平たくてどれを読むべきか困る悩むけど、『ドミニ・カネス(正統信仰の番犬ども)』、『ベラルミーノの接見』、『(天文対話)』、『異端審問官の嘆き』を読む。全部読めと思うけど、この本存外分厚いんだよね。
3.中身
『ドミニ・カネス(正統信仰の番犬ども)』について。
味方を選定する作業の難しさ。当時、全ての認定はその真実性や確からしさではなく、人間関係に基づき適切な人物の後ろ盾を得られるかどうか、つまり発言のお墨付きの有無にあった。何故ならコペルニクスの地動説はアリストテレス派の天動説と同様に理論が複雑であったため美しい数式としてアリストテレスを上回るものではなかったし、そもそも宇宙というのは人の手が届かないところで物理を持ち出す以前の問題も大きい。ガリレオは最終的な論拠をその説得のために聖書を引用して論を組み立てたが、反対勢力はガリレオ自身の醜聞を捏造した。
正確な情報伝達が難しい時代ではやはりデマゴーグは強い力を持つと思うわけで、その生理的拒否反応を差し引いても科学的真実は完全に否定しきれなかったところに良心が見える。というか聖書自体ももとより矛盾が多く、矛盾への解決、回答は求められていたところだろう。聖書は正しいため、『矛盾』はいずれ解決されるはずなのだ。だから当時は実際に地球と太陽のどっちが動いているかより、聖書の記載にいかに矛盾なく表現するかに重きが置かれていた、今からは想像し難い時代。
『ベラルミーノの接見』について。
聖省令にまつわる記述のうさんくささと欠落があからさますぎるという疑惑。
僕が仮に当時の書簡が直接読めたとしても、修辞や婉曲が多すぎてきっと読解は難しいだろうと思うのだが、特筆すべき点は『数学的仮説』としてであれば地動説を論じるのに当時でも何ら問題がなかったことだ。数学という学問の地位の低さもあるだろうけれど、きっとこの『観測結果自体』は全く問題にされていないというところが興味深い。それもまた仮定的事実として。
攻防は地球が太陽の周りを回っているかとは無関係に、神学(哲学)の問題として扱われる。ガリレオ自身は科学という事実(科学)上の問題を扱おうとしているのに敵対勢力がわざわざ神学問題に持ち上げてその思想自体を排斥しようとしたのに対し、味方勢力は神学問題から外そうと苦慮するという、今から見れば奇妙な捻れが生じている。
『(天文対話)』について。
集大成といえる天文対話は完成度は低かった(というか問答集)が、ガリレオのすべてを表すものであった。様々な議題をとりあげ、個別的にではなく総合的にな考察を求める議論の端緒である。
という内容はさておき、担当するリッカルディ神父の七転八倒ぷりは想像に余りある。後々問題が起きることが間違いない、しかも不幸なことにそれ自体を修す所も容易に見当たらない書籍に出版許可を自分の名前で出してしまえば、彼は将来大いなる騒乱に巻き込まれることは火を見るより明らかだからだ。
ここに至ってすでに問題は天文学(科学)とは全く別の次元の話になってしまったわけですね。
『異端審問官の嘆き』について。
現在の法概念と異なり、キリスト教では人間はそもそも罪を背負っている(原罪)。カトリック教会は異端を排除するがそれ以外は懺悔によって許され、その懺悔として自ら修道士となった者と同じ暮しをする。そして罪の軽重は神(の代理としての教会)以外判断し得ない。そして肝心のガリレオは模範的なカトリック教徒の態度に終始していたものだから、懺悔という面において異端と認定することは極めて困難だった。つまり客観的に異端にはできず、主観という人の心の奥を異端と断定するにはガリレオは巧妙に言葉を選びすぎているし、その客観からも主観が異端と認定しがたい。なぜなら自由な科学考察は教会によって許されているからだ。この辺は現在の故意過失の認定なんかと似ていて、異端審問官たちという裁判官が絶対普遍の聖書という名の法律をいかに解釈して現実社会に相当する科学的事実に適合するようにみせるかという試みに似ている。最高裁判例による法令解釈の指定が教皇の宣言なんだなって考えると、わりと構造としては理解しやすいかもしれない。こりゃ胃が痛いぜ。
全体的に、とても興味深い本だった。ガリレオ裁判において争われていた争点は読む前に認識していたものと全く違った。読みやすいかと言うと悩ましい。文章は読みやすいのだが、そもそも当時の神学世界について思想文化が全く異なるのでわりと読むのは大変だったかも。前提としている物事がよくわからないの。
小説に使えるかというと、チ。がアニメになったしタイミング的にガリレオ書くなら絶対読めとは思うんだけど、この世界観を結構しんどい本だとは思う。当時の神学論争とかを書くなら読んでもいいかもしれないが、それを書くことの難しさをめっちゃ実感したやつ。
4.結び
この当時の世界を支配する原理は現在と全く異なるので、まさに今から考えると何を言っているんだという部分も多いだろう。たとえば全ての科学的事実の真実性より聖書の文言が当然に優先され、事実は仮定、つまり思考ゲームとして扱われる。
それはそれとして、僕は常々科学は宗教だと思っている。「自然の事物や事象を対象に、観察や実験などの手法によって原理や法則を発見する学問の領域またはその成果として体系化された知識」というのが一般的な科学の定義で、つまり誰がやっても適切な手段ならば同じ結果がでるであろう物事を真実であると扱う、ということだ。けれどもこの大前提には物理定数(物質の状態に関係なく常に一定の値を持つ物理量や、物理法則中に現れる定数・法則)が普遍であると信じることがスタート地点となる。日によって沸騰温度や光の速度が変化する世界であれば、そもそも現在の科学は成り立たない。僕も物理定数が変化することはないと信じているから科学信者だし、科学を否定するつもりはさらさらないのだけど、結局この物理定数が一定であることを信じることが科学理論の基礎となる。当時はその基礎たる神概念が、現在の物理定数以上に強固で大前提であったのだから(そして様々な物理定数は未だ発見されていない)、すべてを聖書に合わせる行為はある意味当然の発想だろう。
現在は科学が神(宗教)を圧倒しているけれど、それでも二者択一の関係には立たない。科学において地球は隕石が寄り集まってできたものだと信じることと宗教においてある日神が世界を造り給うたと信じることは両立する。当時も両立していて、当時においては宗教>科学であり、神が定めた法則によって太陽が動くが仮定的に観測において地球が動くようにみえても神は複雑な上位存在なので、将来的にその矛盾を解決する科学的論証が生まれる期待していた。その考えは今から見れば奇妙に見えても、現在はただ、観測による価値が宗教的価値を上回っている、つまり原理の多少の逆転現象が生じているだけだと考えれば、科学を絶対として天動説を完全に否定することは聖書を絶対として地動説を否定する当時の教会のムーブと似通っているようにも思える。あ、僕は普通に地球も太陽も動いていると認識しているのでご安心ください。
次回は『Books Esoterica 8 修験道の本』です。
と思うのだけど、読書ストックが減ってきたので別のエッセイを投げ込むかもしれませんが、あしからず。
ではまた明日! 多分!
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