【読書】わからないことを、もっと大切にしたい──『弱さの思想』『「雑」の思想』『「あいだ」の思想』(高橋源一郎・辻信一) [後編]
高橋源一郎と辻信一が10年に及ぶ共同研究を通じて培ってきた思想をまとめた三部作。三冊全てが対談形式となっており、一冊あたり200ページ強のボリュームのため読みやすい。私個人としても、これまで社会に対して抱いてきた違和感や問いが言語化されており、とても多くの学びと含蓄に満ちた本だった。私にとって、恐らくこの本からの学びは今後の人生を送る「あいだ」のよすがのようなものになるように感じた。
具体的な中身はぜひ実際に読んでいただきたいが、このエントリでは各本からの気づきや感想、抱いた思いや問いを書いていきたい。
(長くなりそうなので、前編・中編・後編に分けて書いています。今回は【後編】)
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『「あいだ」の思想』
『弱さの思想』では、一見すると快適で効率的に感じる現代社会の「弱さ」が語られ、「強さ・弱さの二項対立を超えること」が新しい社会への希望として提起された。続編にあたる『「雑」の思想』では、そのオルタナティブとしての「雑」が検討された。物事を安易に何かに分類したり、シンプルな対立構造へと「還元」したりするのではなく、この複雑な世界をありのままに受け止めるにはどうすればよいのか。三部作の完結編にあたる本書では、これらの問いを受けて「あいだ」の概念を考えていく。過去の著作と同様に、いくつかの具体例をもとに議論が進んでいった。今回も、特に印象的だったものをピックアップしておきたい。
自分の中の「あいだ」─ 江戸文化に見る自己の複雑性
法政大学名誉教授で江戸文化研究者の田中優子氏からの論考に、江戸時代の歌人や戯作者が自分の才能ごとに複数の名前を使い分けていた例が紹介されていた。そこには、「酒上不埒」(さけのうえのふらち)や「門限面倒」(もんげんのめんどう)など、思わずクスッとしてしまうものも多い。江戸文化では、自分の複数性をオープンにすることが、まるで自分の才能を他者と分有するようにして周囲を豊かにし、それが社会全体を豊かにしていた。
複数のコミュニティで、様々な名前を使い分けることが当たり前の江戸時代。現代社会も、複数の一人称やアバターやハンドルネームなど、そうした名残りは健在だ。自分の中にいくつもの「分人」がいることが自然状態なのだとすれば、生活の中で一つの名前・一つの顔しか使えなかった場合、きっと苦しいのだろうなと思う。自己の複雑性や複数性を矛盾とか葛藤・分裂として感じて苦しむのではなく、それぞれの自分を大切にしたい。
国と国の「あいだ」─イスラエルとパレスチナ
「国」には「あいだ」を見えなくしてしまう性質がある。国境を引くことで、自国と他国の境界を明確にする。ここではシオニズム自体には触れないが、本書中では、迫害されながらディアスポラ(移民)として生きてきたユダヤ人が、自分たちの国を作った途端に他者を迫害し、難民化させる側へと変質していく例が挙げられている。壁で相手を追い詰めている側には、その壁の向こう側は見えない。そして、壁の向こう側を想像する力が次第に失われ、無知、無気力、無関心が生み出されていく。
主体と客体の「あいだ」─加害者と被害者
水俣病を引き起こしたメチル水銀とチッソ。公害の加害者と被害者。本書では、かつて水俣病患者の認定申請運動を主導していた緒方正人氏の葛藤が記されている。告発され責任を問われているのは国、一方で、病気を認定して補償の有無を決めるのも国──。
チッソが製造していたプラスチック製品を必要としていたのは、自分たちだったのではないか?
被害者と言うカテゴリーの中にいる限り、自分が加害者であるということに気が付かないのではないか?
──葛藤の末、彼は患者認定申請を取り下げることを決め、加害者と被害者という二項対立の争い自体から降りることを選択する。
原因物質である水銀に対してすら、勝手に悪者にしていた自分を詫びる緒方氏。私たちはどこかで、人間以外のものには、感情も記憶も霊性もないと勝手に思い込んでいるが、それは危険な思い込みなのではないか、と。
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人間と機械の違いは「あいだ」にあるのかもしれない
きちんと考えるには、「あいだ」が必要
私たちは、物事を性急に定義したり、分類したり、還元したりし過ぎている。思い返せば、小さな頃から「正解」を導き出すことを諭され、これに邁進してきた。社会人になってからも、どこかにある課題を解決したり、課題がなければそれを見つけることに励んだり、それが見つからなければ時に新たな課題をつくり出したりすらする。そして、再びその課題を解決する──。
いつの間にか、必ずどこかに「答え」があるはずだと思い込んでしまっている。コロナ禍を経て、統計学的な言語が支配的になる中で、「わからないことへの忍耐力」が縮小していった。人気があるのは、きっぱりと言い切る人だ。それが「正解」だと断言してくれれば、確かに安心できるかもしれない。
「言葉」というものも同様だ。私たちは何でも性急に定義しようとする。辞書を引けば、一つの言葉に対して様々な言い回しで定義が試みられているにも関わらず。それは本来、暫定的な定義のはずなのに、名前をつけられた瞬間から「そういうものだ」と思われてしまう。
「わかる」という感覚は、とても爽快だ。だけど、それは「暫定的なわかる」なのだと、仮固定しておく態度が大事なのだと思う。
安心と信頼
本書中では、美学者の伊藤亜紗氏の言葉も紹介されていた。
「安心」というのは、相手との間に不確定要素がないこと
「信頼」というのは、相手がどう動くか不確定で自分に生じ得るリスクを分かった上で 「多分、大丈夫。」と委ねること
これは、頭では理解できる。
けれども、どうしても「信頼」よりも「安心」を追い求めてしまう。
例えば「保険」。生命保険や自動車保険だけでなく、現在はありとあらゆる種類の保険が存在している。保険は「いざというとき」の安心をもたらしてくれる。一方で、保険には人と人との間のつながりを断ち切る性質もある。かつては、コミュニティと顔の見える相互扶助が「安心」をもたらしていたのだろう。そして、それは「信頼」によって成り立っていた──。
このことを考えながら本書を読み進める中で、ハンナ・アーレントの『人間の条件』における「公的領域」と「私的領域」に関する議論が印象に残った。
なるほど、どっちつかずの「あいだ」を持つことが個人にとっても社会にとっても、とても重要なのかもしれない。物事の効率化を進めれば進めるほどに、「あいだ」は失われていく。寧ろ「あいだ」を無くすことが効率化であるとも言えるのかもしれない。
けれど、それによって歪みも生じる。他者とのつながりからではなく、効率化された仕組みに依存して生きていると、「公的領域」の存在は次第に忘れ去られていく。そして、「私的領域」がどんどん膨張してこれに支配されると、私的な価値観同士が、ただただぶつかりあうことになる。
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わからないことを、もっと大切にしたい
世界は分けてもわからない。まずは、そんな謙虚さが必要だと思った。常に、わからないということ自体が自然状態なのだと考えたい。
でも、それは問うこと、そして、考えることの価値を否定するものではない。寧ろ、いつまでも分けないでいることや、分けたままにしておくことが無知や無気力や無関心へとつながっていくのかもしれない。
「分ける」ことは「わかる」ことへの扉を開く。けれど、世界は「わからない」ことで溢れかえっている。国と国、社会と社会、組織と組織、人と人──。そこには、多種多様な価値観やスタンダードが存在するのだろう。それらを受け入れ、分けたものそれぞれの「あいだ」や「つながり」を考えることが大切だと思う。本書でも登場した「エマージェント・プロパティ」という言葉の通り、「部分の内にはいくら探してもない新しい特性が、全体になると現れる」。
わからないこと、迷うことを、もっと大切にしたい。