教育の機会は多様にある(その1)
【教育機会確保法とはなにか】
教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律)平成28年(2016年)12月公布、翌、2017年(平成29年)2月に施行されています。
学校教育法の特例法であり、理念法と位置づけされているこの法律は、➀不登校対策 ②多様な教育の機会の確保 ③夜間中学校の就学機会の提供の3つで成り立っていましたが、報道ではその印象の通り「不登校対策法」と紹介されました。
それより前に文科省から通知が出されています。平成28年9月14日『不登校児童生徒への支援の在り方について』は教育機会確保法の実質的なガイドラインだと受け止められ、すでに現場ではこの通知にもとづいた動きは見られています。法律の成立は慣例通り、既成事実としてある実態をもって承認されたのでした。
法律の施行を受け2017年3月31日に基本指針が出されています。通知は4月4日です。
「フリースクール法案」から出発したこの法律は、前記のみっつの検討委員会が学校という共通した場での内容であることから合同委員会となるなど、あらゆる局面を通過しながら、結果としてフリースクール法案として目指した多様な教育の機会の確保の構想は実現しませんでした。
この法律が「不登校」に、そして「ホームスクール」や「オルタナティブ教育」を実践する家庭にどのように影響していくのか。それは今後も見守っていく重要な課題です。ですが学校や行政の出方を待つだけでは、その対応に振り回されてしまいかねません。たいせつなのは家庭が主体となって、みずからこれを知り、理解し、こどもと家庭の最善の益になるように利用していくことなのです。
【フリースクールとはなにか】
不登校つまり学校に行かないでいる子のいる場所としてフリースクールがあることはよく知られています。しかしフリースクールの定義は無く、さまざまなスタイルがあることはあまり知られていないようです。
大きく次の3つに分類することができます。
①適応教室(教育支援センター):原則的には学校復帰を目標としている公的な教育施設。
②不登校児童生徒の居場所(フリースペース):学校教育の学習サポートや、安心できる居場所として教科学習を強制せずに自主性のある活動が主となる。
③自由な学校:学校教育とは異なったカリキュラムやこども観を持ち、運営者の教育方針(教育方法や教育メソッド)がある。オルタナティブスクールのひとつと考えて良い。
適応教室や、行政に委託事業されている民間施設は「フリースクール」「教育支援センター」とも呼ばれます。その他の名称を持つところもあります。学習支援をしているところという印象を持ちます。「教育支援センター」という名称は、適応教室という呼び名がいかにも〔学校に適応させる〕〔矯正〕というような印象が強いために全国的に変更されたものですが、逆に「教育支援」という文字から学校復帰支援と結びつけづらい、わかりづらいという声があり、「適応教室」を通称として使う自治体は数多く残っています。適応教室であってもそのセンター長や職員の考えにより、学校復帰を前面に出し過ぎず、学校の勉強に置いていかれないようにするという学習をメインとしないなど違いがあるので、こどもの状況と意思に合う合わない、親の意向に合う合わないがあります。
学校や行政で不登校児童生徒の居場所の情報提供を求めると、このみっつのいずれかを紹介されるか、あるいは「フリースクールはありません」という返事をもらうことばしばしばあります。学校や行政がそれぞれの場所で生徒が活動中のトラブルに対応することができるのは、学校や行政と連携しているその範囲にしか及ばないからです。つまり、その責任において、それ以外の場所を紹介することはできないのです。また自治体を越えた場所にある公的機関も紹介することができません。基本的に住民が支援対象になっているからです。
「学校に教えてもらった」となると「なにかあったら学校に相談してよいのだ」とみなす人は少なくありません。子どものことは、学校の先生がなんとかしてくれると教育をすべて学校任せに依存している体質から抜け出さない限りは、自分で判断することや自分の行動に責任を持つ、決断するということが困難だからです。
民間が運営する教育施設の活動に関する責任は、運営主体とそれを選んだ家庭にあるのですから、行政や学校が関与する立場にはありません。ですから民間が運営する教育団体等は家庭で独自に探し当てなければなりません。それで情報の頼りになるのがインターネットであったり、くちこみであったりするのです。民間教育団体による宣伝広報しかそれを知るすべがないというわけです。しかし、そこに公的な支援はありません。
【こどもの居場所はなぜ必要になったのか】
初めは「オルタナティブ法案」とよばれていたはずのこの法案は、いつのまにかフリースクール法案だったのだとされています。「不登校の子はフリースクール等へ在籍しなければいけないのかもしれない」とうっかりおもってしまう印象を与えます。
不登校であること、学校に行かないことに、そんな理由や条件はありませんし、あらゆる事情でほとんどの子は家庭で過ごしているのだと考えられます。同年代集団よりも異年齢それも大きく幅のある多様な人々との間にいるほうがまなびの大きい子もいれば、複数人数のなかのひとりであるよりも、ひとりの時間を多く持つ方がまなびの大きい子もいますし、それ以前に動き出す気力が無い子もいます。
また家庭の経済的な理由や土地的理由もあります。
必ずしも通える範囲にフリースクールやフリースペース、こどもの居場所として運営している場所があるとは残念ながら限りません。
まちなかには社会教育施設が数多くあります。図書館や博物館、水族館、児童館、公民館、運動センターなどです。これらは平日昼間にこどもが通ってはいけないという規則も罰則もあるはずがありません。生涯学習にこどもが対象外であるはずはありません。むしろ学習のためにいつでも利用していいところばかりです。校外学習でも向かう先です。
ところが「学校を休んでいる子は家の外に出てはいけない」という問題視や「学校がある時間にこどもが外にいるはずがない」という偏見がそれを妨げています。
これは周囲の人すべてが必ずそのように見ているはずはないのですが、罪悪感を抱えた親子にとってはすべてのまなざしや声掛けがそのように聴こえてしまうことだってあるのです。そしてそのように考える人も事実いないというわけではないからです。身近な家族や親せきには特に。
警戒心で凝り固まった親と子の心を解きほぐそうと居場所やフリースペースは各地に拡がっているところですが、まだまだ足りていません。その場所があることの受け入れと理解も十分であるとは言い難い状況です。
すべての人のひとりひとりがこのようなことを知って、こどもを取り巻く環境はもっとやさしいものだと伝え続けていくことで、彼らは必要以上に自分を責めることなく、教育の機会を奪われることなく、まなびある自由と人権を持つことができます。
【多様なまなびとはなにか】
フリースクールを運営する彼らのところに訪れる子どもたちは、いわゆる「不登校」だということです。学校生活に合わなかったり、学校や家庭での居場所がないと感じてそこにたどり着いています。学校に行きたくても行けない、そんな状況にあったことでしょう。ですが自分を取り戻すなかで、彼らは教育の自由と人権にも気づいたはずです。「学校教育」より自由な方法でまなぶことができるのだということに気づいたのです。
2009年に採択された不登校の子どもの権利宣言はそれをよく物語っています。
現行の教育機会確保法は、学校に行けない事態に追い込まれた不登校という状況と、学校に行かないという自由なオルタナティブ教育の選択が、意図的に混ざり合わされて、どこか一部だけを切り取りとっているかのようです。残ったものはついでのように引っ付かせて隠しておきながら、あたかも要望通り実現しているのだと演出しているような、そんな印象を受けます。オルタナティブと不登校の重なる部分だけを強調することで、すべてが一致しているのだと思わせるような、そんな強引さを感じてしまうのです。
不登校というのは「学校に行かない・行けない」ことであるというのは、それは確かに目に見えてわかるその通りの状況です。その状況にだけ焦点をあてるならば、確かにオルタナティブ教育を実践するこどもたちも同じ状況にあるのだといえます。ですが、その多様な背景は取り合わなくてもいいのでしょうか。
やがて「学校に行かない・行けない」状況は、「不登校」という言葉にまとめられました。焦点は「不登校は悪いことじゃない」「不登校は権利」「不登校を選ぶ権利」というようなものに移行しました。いつしか不登校とオルタナティブ教育を実践することは区別なく、同義であるかのように広まっていったのでした。不登校であることの意義を、他者が認知していく土台が作られようとしていったのでした。そうなることで教育機会確保法は正当なのだ、と受けとめられるように。
【基本的人権のありか~こどもの権利~】
学校を選ぶことの自由があることは、長く、広く世間に知れ渡っていませんでした。今でもそうかもしれません。
ホームスクールという選択、サドベリースクールやシュタイナースクール、自然学校といったオルタナティブスクールという選択、それらは教育基本法第10条(家庭教育)に準じており、違法である点は微塵もありません。
ましてや憲法にある教育の自由、基本的人権にも準じています。
学校は学校教育法が適用する限られた教育機関です。日本では保護する子女に普通教育を受けさせる義務があるとされていますが、普通教育とは学校教育に限定されていないと解釈されていることは決して少数派の意見ではありません。むしろ大多数がそのような見解を見せることでしょう。
ただしそれは世間一般の視点から見ることができる場合です。学校という内側から、学校教育法というなかから眺めると、そうとは考えることができなくなります。そのように養成されてきたからです。そうでなければ指導者教育者としての使命を持ち続けることは困難なことでしょう。すべてのこどものしあわせが学校でおこなわれる教育つまり国の指導する学習指導要領が社会人になるまでの基礎学力であり、必要不可欠な要素であると教え込まれているのです。
それは学校へ通ったことがあるすべての人が息をするようにそれが当たり前であると考えていることでしょう。しかしこどもにとってどの時期にどのようなまなびが必要か、またどのようなまなびかたが最適であるかは、まさにひとりひとり違っています。学校で授業を受けるなどその他の学校教育スタイルは、こどもが持つ共通項を採用して提供しているだけにすぎません。その調整を教職員の個人の技量のみで補っています。
学校が合わない子に無理に学校に行かせることや不登校を問題であると差別と偏見を持つことは、基本的な人権の侵害であることも知られていません。子どもには子どもの権利があることも、それが仮に知識として知っていたとしても、それがどういうことなのかと実践的体験的には知られていないようです。わずかな会話のなかでそれは明らかだと感じる人は多いでしょう。
教育機会確保法は、それを知ってもらうきっかけになるとも言われていますが、「新しい法律のおかげで、新しくそうなりました」というような印象を与えている面は、なんだかスッキリしません。それもそのはずです。わたしたちもこどもたちも命があるというその瞬間から、基本的人権を与えられ、自由である権利をも持っているからです。それは世界がそうなっています。国際社会がそうであろうと約束しましょうとなっています。
ここでも私は「こども」という言葉を使うことに違和感を禁じ得ません。おとなもこどももおなじ人間だからです。どうしてどこででもおとなとこどもが分け隔てられなければならないのでしょうか。年齢で区別されること、見た目で区別されることがあまりに多すぎるからです。配慮であればいいのですが、規制であり、不自由であることのほうが多すぎます。
【教育機会確保法がもたらす希望と可能性】
そもそも学校教育法をよめば、少なくとも学校に子が登校する義務はなく、9年の就学義務は親が在籍の手続きをとっている時点で義務をまっとうしていることもわかります。学校教育法が教育基本法の下位法であるということを知っていれば、当然のように「学校教育を普通教育とすると決めた家庭だけに適応されること」であると理解するでしょう。そして学校教育法以外の普通教育を整備する法律が無いことにも気づくことでしょう。
ですが、そんなことも各家庭には知られされていないのです。知る機会も無いのです。よほど学校との対応に必要性を感じる機会が人生に起こらなければ。
なぜでしょうか?それはひとえに文科省が「普通教育は学校教育だけである」という独占状態を横行させているからです。この状態を現状維持することが最上使命にあるのです。なぜでしょうか?それが国の政策に適うからでしょう。
この現状維持の態勢にわずかに可能性ある未来の扉をつけたとされているのが、この教育機会確保法です。ドアノブをまわすのは、市民であるひとりひとりの行動にあるのです。ただし教育機会確保法だけを見つめていては叶うことのない願いです。逆に言えば、そこだけに注目するよう誘導される心配があるということです。
【不登校を選んだわけじゃない】
教育機会確保法が知られるようになり、フリースクールやフリースペース、こどもの居場所の存在や必要性も知られるようになりました。そして学校に行かない・行けないこどもたちに必要な支援があるのだということも少しずつ知られてきているのではと思います。学校以外の学習の機会もあるし、もっと増えるべきだという声もあがってきています。
法案成立の経緯はどうあれ「学校に無理にいかなくてもいいんだ」と安心できる環境になるのはとても好ましい状況ではあります。フリースクール等は教育機会確保法によって新たにつくられたと世間に印象づけていますが、そう思わせることは「知らなかった」「知らなかったせいで子につらい思いをさせてしまった。親のひどい仕打ちに甘んじてしまった」というつらい真実を知らなくてもすむ心優しさからくる配慮かもしれないと思うことにしましょう。
ですが、無かったことにはできません。不登校という言葉の中に、多様な背景を無視して「学校にいかない・いけない」こどもとその親のためにあるのだとひとくくりにしてはいけない理由がそこにあります。生きる気力をも奪われ、人間の尊厳を損なわれたことで、深く傷ついた心を癒すケアのためのあらゆる方策が損なわれてしまうからです。
「こどもに謝らなければならない」とおとなが腹をくくったとき。
親や教師もまたときに間違いをおかすひとりの人間であることがさらされ、こどもは親や教師のおとなからの支配から卒業し、互いに一個の人間として、対等に命を尊重しあう関係へと成長していけるでしょう。支配ではなく、保護であったはずのものが、どこかでボタンを掛け違ってしまったことに気づく瞬間になるはずです。
それは単に「学校に行けないなら、他の場所があるからいいだろう」と言われて解決も納得もできるものではないという純然たる事実です。壊れかけた心と壊れかけた身体を回復するためにもっとも丁寧に、もっとも大切に、もっとも時間をかけ、そしてそうしてもよいのだと安心できる時間の確保、その先の可能性があることの示唆、どれも欠けるわけにはいかないものです。
すべてが保障されることは今すぐに実現できるわけではないことだと誰もが知っているのでしょうが、実現できない未来をつくるわけにはいきません。
社会全体で実現しようとする心根と同時に、ひとつひとつを個人単位で実現していく試みの両方ともが必要です。ここでも「誰かがなんとかしてくれる」「整備さえされればそのときなんとかなる」まで待つ時間など無いのです。
社会全体で実現するまでの時間は何十年、百年とかかっても不思議な事ではありません。少なくとも学校教育体制は目的を果たすまでに数十年を要して達成したとみてよいのです。ある意味では日本の学校教育は成功しているのですから。それは必ずしも国を動かす人間の思惑だけによってとは言えません。それに呼応した人々の動きの結果でもあるのです。歴史そのものです。
2017/04/15 HP投稿 2017/11/26 最終更新
ホームスクーリング・センター kokage 解説コラム