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志賀直哉についての記事に注xxxviii [主観・自我・身体性〈柄谷行人・メルロ=ポンティ・志賀直哉〉]を追加。xiには加筆、一部は本文中へ。
以前書いた志賀直哉のエッセイ「国語問題」についての論考に、注(xxxviii) [主観・自我・身体性〈柄谷行人・メルロ=ポンティ・志賀直哉〉]を追加。また注xiに加筆し、もと注にあった文章から、柄谷行人の『日本精神分析』からの引用を含め、一部を本文中へ挿入しました。
先月、論考を書いてから2年の節目にこれでしばらくこの事からは離れと書いたばかりなのですが、これで2回目の追加・変更です。
本論の内容に大きく変更があったわけではありませんが、そろそろ終わりにせねば....。
注
xxxiii
xi
芥川龍之介について
[柄谷行人『日本精神分析』より]
柄谷行人は、拙論で取り上げた志賀直哉の「濁った頭」と「クローディアスの日記」を『日本近代文学の起源』で、芥川龍之介の「神神の微笑」を『日本精神分析』で取り上げていて、私の論の後半部は、その影響があるのですが、柄谷行人の論じていることと、私の論とに少なからず違いを感じたのと、柄谷の論以上に志賀と芥川の上記の作品を読んだ時の印象が強烈だった為に、引用・注でさりげなく柄谷の影響を示すに留めていたのですが、今回柄谷行人の上記の著書を読み直してみて、自分が思っていた以上に柄谷行人の影響が強かったことを認識し、また私が見落としていた重要な視点もあったことから、注xiの一部(『日本精神分析』からの引用も含む)を本文中に挿入しつつ、注xiに欠けていた視点を加筆。
また注 xxxiiiにて、『日本近代文学の起源』とそこで取り上げられているメルロ=ポンティの『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳)所収の「幼児と対人関係」を取り上げました。
メルロ=ポンティの著書からは、拙論で本源的心性と雑駁な形でしか述べられなかった心性について、大きな示唆を得られたように思います。
志賀直哉の国語問題についての論考
自己紹介の代わりに