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表メッセージ

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もう裏だなんて思わない。堂々と、幸せのニュースをお伝えします。日曜日の礼拝ごとに、一週間の生きる力を、人生を変える力を、神の言葉がもっていると確信していますから、それを指し示す取…
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#祈り

我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ (マタイ6:12, ルカ11:4)

我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ (マタイ6:12, ルカ11:4)

◆さばきとゆるし

 私たちの負い目をお赦しください
 私たちも自分に負い目のある人を
 赦しましたように。(マタイ6:12)
 
「さあ、主の祈りです」と礼拝のプログラムで司会者に促され、皆一斉に同じ祈りの言葉を口にします。もう言い慣れてしまって、何の感動も、何の思い入れもなく、唱えているだけかもしれません。
 
私もその「スタイル」は分かります。でも、やっぱり、引っかかってほしいと思います。と

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我らの日用の糧をきょうも与えたまえ (マタイ6:11, ルカ11:3)

我らの日用の糧をきょうも与えたまえ (マタイ6:11, ルカ11:3)

◆主の祈りの要

「主の祈り」と呼ばれるものは、ルカ伝にもありますが、教会ではおもに長いマタイ伝を軸に受け止めています。さらに、そこから教会で伝統的に整えられた形式の「主の祈り」があります。これを念頭に置きながら、私たちは「主の祈り」を少しずつ味わっています。
 
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)
 
これは、伝統的な「主の祈り」の中央部に当たると言えます。ユダヤの文学形

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みこころの天に成るごとく地にも成させたまえ (マタイ6:10)

みこころの天に成るごとく地にも成させたまえ (マタイ6:10)

◆マタイ伝を基準に

 御心が行われますように
 天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
 
祈りの内容としては三つ目となります。ここで初めて、マタイ独自の祈りが現れます。ルカには、該当する言葉が全くないのです。
 
福音書は、時間差を置いて書かれた、と研究者は見ています。主の祈りは、ルカよりもマタイのほうが明らかに長くなっています。普通、最初にルカの福音書ができて、その後にマタイができた

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み国を来たらせたまえ (マタイ6:10, ルカ11:2)

み国を来たらせたまえ (マタイ6:10, ルカ11:2)

◆国家ではなく

御国が来ますように。(マタイ6:10)
 
「国家」は幻想だ、と言う人がいます。「国家」というのは、どこにも存在していないのではないか、というのです。
 
古代ギリシアには、「都市国家」と呼ばれるものがありました。比較的小さな単位です。従って、アテネとスパルタがライバル同士であった、などという話も有名です。実にドイツでは、13世紀から19世紀まで、「ドイツ領邦国家」と呼ばれる、小

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願わくは,み名をあがめさせたまえ (マタイ6:9, ルカ11:2)

願わくは,み名をあがめさせたまえ (マタイ6:9, ルカ11:2)

◆有て在る者

死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。(マルコ12:26)
 
この「モーセの『柴』の箇所」とは、出エジプト記の3章の出来事を言います。イエスの時代、このようにして、聖書の特定の箇所については示すものだったわけですが、これで聖書を知る人に

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天にましますわれらの父よ (マタイ6:9, ルカ11:2)

天にましますわれらの父よ (マタイ6:9, ルカ11:2)

◆呼びかけ

「主の祈り」を、少しずつ受け止めてゆくことにしています。今日はその初めで、最初の行だけに注目します。
 
天におられる私たちの父よ(マタイ6:9)
 
父よ (ルカ11:2)
 
ルカ伝はとてもシンプルです。この一言に、マタイ伝の言いたかったことも凝縮されているのでしょうか。いまはマタイ伝のほうを検討することにします。
 
日本語だとこうなっていますが、原語は語の並ぶ順序が異なります

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主「の」祈り (マタイ6:5-9, ルカ11:1)

主「の」祈り (マタイ6:5-9, ルカ11:1)

◆主の祈り

イエスが直々に「祈り」について教えてくれたことがあります。これを教会では「主の祈り」と呼んでいます。来週から、その祈りの言葉の一つひとつを、ゆっくりと噛みしめて聴きたいと願います。今日は、「主の祈り」全般について、それを受け取るスタンスを確認してみようと考えています。
 
「主の祈り」は、マタイ伝6章とルカ伝11章にあります。イエスが教えた祈りであり、同じもののようにも見えますが、や

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祈りの道へ (マタイ6:5-8, 列王記上8:22-53)

祈りの道へ (マタイ6:5-8, 列王記上8:22-53)

◆無駄な祈りなのか

(これは架空の話です)旅客機が消息を絶った。どうやらあの人が、その便に乗っている。ああ、大変だ。そのとき、きっとひとは祈るでしょう。「どうか無事でありますように。」
 
続報が入る。飛行機は墜落したらしい。ああ、もう胸が引き裂かれそうだ。それでも、ひとは祈るでしょう。「どうか無事でありますように。」
 
1985年8月12日の日航機事故は、一機としては世界最大の航空機事故とな

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痛みを伴う叫び (エレミヤ17:5-18,ローマ1:9-10)

痛みを伴う叫び (エレミヤ17:5-18,ローマ1:9-10)

◆執り成しの祈り
 
ひとは、一人で完結することはありません。一人だけで立つことができるならば、それは「絶対者」です。神は本来、そういうお方です。ひとは、相手を必要とします。「他者」があってこそ、ひとであることができます。絶対者ではないのです。その「他者」のひとつとして、神がいるというとき、ひとは信仰者となります。その神をキリストとして知るとき、ひとはキリスト者となります。
 
キリスト者は、祈り

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私たちの祈り (ダニエル9:1-20, コロサイ1:13-14)

私たちの祈り (ダニエル9:1-20, コロサイ1:13-14)

◆ダニエルの祈り
 
ダニエル書についてご説明をしていると、それだけで終わってしまいそうな気がします。預言書としてキリスト教では大きな位置を示しますが、ユダヤ教サイドでは、預言書扱いではなく、この世の終わりの姿を描くものと見られているそうです。事実、かなりおどろおどろしい終末の描写も含まれており、新約聖書のヨハネの黙示録もそこから引用していると思しき表現が多々あります。
 
ダニエルと、共に三人の

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悪霊に取りつかれていた人 (マルコ5:1-20, 詩編69:17-19)

悪霊に取りつかれていた人 (マルコ5:1-20, 詩編69:17-19)

◆悪霊は悪霊
 
福音書には、イエスが病を癒やしたという記事がたくさん出てきます。すると、この症状は現在の医学的知識からすると、何々病ではないか、という声が、どこからか現れます。私たちの知る、何かの病気に結びつけると、安心するのでしょうか。私はそこに、抵抗を感じます。特に、かつて病が罪の故だとされていたことを思うと、現代の病名を推測だけで挙げることにより、その病気を負った方々に、失礼なことになるだ

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