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聖書と信

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聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつ…
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#救い

新しく生まれる

新しく生まれる

「生まれ変わったつもりで頑張ります」という言い回しがある。これまで悪いことをしてきた自分を反省し、人生をやり直す、という場面で使われることがある。清々しい響きがあるように聞こえる。「これから生まれ変わります」と、端的な表現を使うこともあるだろうが、まさかこれに対して、「どうやって生まれ変わるんですか。まさか、私がもう一度母親の胎内に戻るとでも言うのですか」などと質問したら、殆ど喜劇である。ギャグの

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その事柄にかかわらせられている者だけが

その事柄にかかわらせられている者だけが

ここのところ、立派な装丁の本を読み返している。要するにハードカバーというものだ。一日に触れる本は十冊以内くらいにしているが、そのうちの一冊を、この再読本にしているのだ。せっかく、かつてそれなりの金額を払って購入したものだ。一度読んでおしまい、ではもったいない気がしたのだ。もちろん、それだけ読む価値がある、と思うからである。
 
加藤常昭先生が訳した、ドイツの先生のハードカバーをずっと読み直していた

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説教の違いと救い

説教の違いと救い

この2月に、礼拝のレスポンスとして「要石なるキリスト」のことを綴った。そのときの説教は、「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった」は、ルカによる福音書と、その根拠となる詩編とが引かれていた。そのとき、「隅の親石」に関して私が聴いたことから、次のように記していた。
 
★エルサレムのような中東の町は、城壁で囲んで身を守ることが多いであろう。内外の出入りのためには門が必要であり、厳重に管理されてい

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『救いはここに』(加藤常昭・キリスト新聞社)

『救いはここに』(加藤常昭・キリスト新聞社)

ふと本棚で見つけて、宝物を見つけたような気持ちにさせられた。情けないことだが、この本をいつどのように手に入れたのか、全く記憶がない。次に読もう、と思って置いていたまま、すっかり忘れていたようなのだ。
 
加藤常昭先生の本はいろいろ読んでいる。これも、手に入れてきっと嬉しかったに違いない。だが、もったいないような思いで一瞬いたら、そのままになってしまっていたらしい。
 
なかなか厚い。450頁以上あ

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救いの体験

救いの体験

妻が、新しい教会で転入会の「証詞」をしたとき、何人かの人から珍しがられたのだという。「そんなはっきりとした救いの経験があるなんて……」のように。私もたぶんそう見られたのだろう。というのは、その教会で、自分はこんなところから救われたのだ、という話を聞く機会が、あまりないからだ。
 
例外はもちろんある。ある人は、自分の若いときの体験談をきちんと話す。いまでも若いうちだが、一人の牧師である。この人は、

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最後の提言

最後の提言

最近、私の中の常識ががたがたと揺さぶられ、崩されることがよくある。私だけがおかしくなったのだろうか、と暗い気持ちにもなる。以下、純粋に分からないこと、なんとかそれを理解しようとした末の、勝手な推測と意見を含めた内容を述べることとする。とはいえ、事実を踏まえたものであることは、当然である。
 
まずは私の偏見めいた感想から。取り上げた聖書箇所が全く言っていないようなことを結論とする「説教」。それは、

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罪の赦しによる救い

罪の赦しによる救い

幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。(ルカ1:76-77)
 
洗礼者ヨハネのことを父ザカリアが祝している言葉であるが、ともかくもキリスト者たちが、このヨハネのことをどう理解していたか、ということを示している。それは、私たちにも、そのように理解すべきだという指示にもなっている。
 
ここに「主に先立って行

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星になりうる

星になりうる

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(マタイ2:10)
 
クリスマスの名場面である。占星術と天文学とがいっしょになったような、当時の賢者が何人か、はるばるイエスの誕生を訪ねるという物語。いったいユダヤの王として生まれた方はどちらだろう。とりあえずエルサレムに来てみた。きっとヘロデ王の後継ぎだ。王宮を訪ねると、そんな子はいないという。ヘロデが、見つかったら教えてほしいと謙虚な言い方をするものだか

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罪と赦しと救い

罪と赦しと救い

なんでもひとのせいにする、という性格の人、身近にいないだろうか。それとも自分自身がそうであるといま気づいた方がいらしたら、きつい言い方に聞こえるかもしれず、ご勘弁戴きたい。
 
そこまでいかなくても、自分が他人から迷惑を受けたときには、他人が極悪非道なことをしたかのように表現する、そんな人もいる。その人は逆に、自分が他人に対して迷惑なことをした場合には、実に軽く見るものである。たとえ犯罪でも、やん

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