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新しく生まれる

「生まれ変わったつもりで頑張ります」という言い回しがある。これまで悪いことをしてきた自分を反省し、人生をやり直す、という場面で使われることがある。清々しい響きがあるように聞こえる。「これから生まれ変わります」と、端的な表現を使うこともあるだろうが、まさかこれに対して、「どうやって生まれ変わるんですか。まさか、私がもう一度母親の胎内に戻るとでも言うのですか」などと質問したら、殆ど喜劇である。ギャグのネタになるかもしれない。
 
聖書には、まさにこの質問をした現場が記録されている。
 
イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ3:3-4)
 
ニコデモという人物は、イエスが批判していた宗教エリート集団の一員であったが、実はイエスを尊敬してた。人目を避けて、夜になってイエスの許を訪ねたらしい。そこでの問答の一部である。
 
イエスの「新たに生まれる」ということを、正に「もう一度、母の胎に入って生まれること」だと解している。これに対して、イエスは「水と霊とから生まれ」るという意味だ、と分からせようとするのだが、さて、このニコデモ、すぐにその意味を呑み込んだわけではない。イエスに「こんなことが分からないのか」と叱責を受けている。
 
この対話は、どこで終わったと言えるのか、実は人により意見が異なる。古代の文書は、句読点もなく、当然引用符もない。私たちは文献を「解釈」して、ここが台詞だと言えるだろう、と見当をつけて、現代語として表している。そういう記号がなくても分かる、というのが古代人の読解能力だったのだろうが、だからこそまた、文字が読めるという人は、非常に限られていたのである。
 
ここでは、ニコデモに説き聞かせるようなイエスの言葉であるのか、あるいは記者ヨハネの解説であるのか、曖昧なままに話が進んでいっている。いまなお学者により意見が様々であるし、日本語訳聖書でも、カギ括弧の付け方が異なる場合がある。同じ流れの中での翻訳であっても、変更することもある。
 
この対話の先に、有名な言葉がある。「聖書の中の聖書」「小聖書」などとも呼ばれる言葉で、キリスト者ならば多分に暗誦しているであろう箇所である。ここに、聖書が伝えたい内容がコンパクトにまとめられている、と理解されている。
 
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
 
「独り子」は、イエスを指す。十字架につけて人間が殺した。しかし三日後に蘇り、いまも生きている。霊という形で神は私たちと共にいまもいるが、キリスト者は、神に祈るというとき、イエスの名を用いる。イエスを通して、神と出会う、というのが信仰の基本である。
 
この句が、果たしてイエスがニコデモに言った言葉であるのか、記者ヨハネの解説であるのか、意見が分かれるのである。だが、だからといってそのどちらの解釈をするかによって、聖書のもつ意味合いが変わってしまうようなことはない。どちらにしても、私たちへ同じメッセージを届ける。
 
「世を愛された」というその「世」は、この世界のこと、この世の中、社会のこと、と考えても差し支えないが、神を忘れて自分本位に生きている人間の姿を相手としている、と見ると適切であろう。本当はそれを「罪」と呼ぶべきであるが、いまはその「罪」というところを深く探ることはしないでおくことにする。
 
信仰者は、その「罪」を覚えている。つまり、この「世」が、正に自分自身であることを痛感した経験をもつはずである。これはあれやこれやの他人のことではない。この自分のことだ、この自分がこれまで神に逆らっていたのだ、と最低限のところまで落ちこんで苦しんだことがなければ、救いは分からないものであろう。
 
誤解を招かないために付け加えておくが、すべての信仰者がこの通りであるべきだ、と私は言いたいわけではない。教会に来る多くの人は、なにも劇的な回心を遂げて信じるようになったというわけではない。幼い頃から教会に来て、神のことも当たり前のような環境に育ったときに、信仰というものも自然なものとして受け容れている、ということはよくありそうである。
 
しかし、福音を語る役割の者にとっては、明確な信仰と救いがなければならない。そうしないと、人が救われるという福音を語ることはできないだろう。牧師や説教者が、救いとは何かをよく分からないで、神との出会いを経験してもいないで、人を神へと導くことができるとは思えないのである。
 
さて、「罪」を知り、自分が神に逆らっていたことをとことん思い知らされ、その上で神が自分を愛してくださっていることを、全身を貫くように実感したら、それがここでいう「御子を信じる者」であるためのスタートである。新しい人生が始まったことを信じて疑わない。その者は、「滅びないで、永遠の命を得る」、こうして救いがもたらされることになる。
 
それが、新しく生まれ変わる、ということである。新しい命を与えられるのであり、そこからこの地上でも、新しい人生を歩むのである。
 
生まれ変わるなど、そう簡単にできるはずがない。そう思われるかもしれない。歳をとった者が、人生をやり直すのは無理だ。――現実的な眼差しでは、確かにそうかもしれない。もしあなたが60歳であったら、恐らく大学に入り直すようなこともできないし、新たな恋愛が望めることもないだろう。就職をし直すことも難しい。だが、大学や恋愛や就職だけが、新しく生きることではない。
 
あなたは新しい61歳からの人生を生きることができるのだ。いままでの生き方では迎えることができなかったような61歳の人生を、新たな形で歩むことができるようになったのだったら、人生生まれ変わったことにならないだろうか。これまでの延長としての61歳ではなく、これまでの自分では思いもよらなかったような61歳が現実になったとしたら、新しく生まれた、と表現してはならないだろうか。
 
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
 
イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
 
この「新たに生まれる」という言葉には、よく注釈が付いている。「新たに」という意味の言葉は、「上から」という意味合いをもって使われることも多い語であるのだというのだ。「新しく生まれる」ということの中に、「上から生まれる」というニュアンスがこめられているかもしれない、というのである。「上から」というのは、「天から」つまり「神から」という形で、当時の人々は受け止めた可能性がある。現代の私たちからすれば、「自分の内からではなくて、自分の外から」という理解の仕方も可能であろう。
 
本当の自分を探して、自分を信じてやり直すのだ、というのとは違うのである。救いは、自分自身の中から得られるものではない。外からだ。それを、神から、という意味に知るとき、神との交わりが与えられることだろう。神との関係に気づくだろう。救いというものは、そこからくる。それがキリスト教の、ひとつのエッセンスである。

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