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Kei
2024年12月4日 07:06
実際のところ夏を越したらもう無理だろうと覚悟していました。主治医曰く「全く嚥下が出来ません。機能的には出来る筈なのですが、それが出来なくなっていますので、点滴のみに頼っている状態。胃ロウか、喉切開で栄養摂取するかという選択、或いは、このまま自然に任せるという選択、どちらかでしょう。手術は・・正直進められません、お母さんの体力がもたないでしょう」退院前、そう言われました。決断しな
2024年11月2日 07:50
くわっ!と、その目を見開き”お前は!”と、怒声を発せよ入道雲の如く大岩の如く圧倒的な畏怖をわたしに味あわせよ事の推移 わたし自身の風邪にて一週間訪れなかった間 父は隔離室に入れられ点滴を受け 頬削ぎ落ち目は窪み 久し振りに会う父は死に行く人の如く変貌遂げていた お父さん!と声を掛けても眠ったまま 「何も食べないからです。」介護士が憎憎しげに答える
2024年10月28日 06:17
それでも母は父を覚えているのだ。多くを忘れようと、母が口にする「一番大事な人を忘れるわけがなかろうもん」母の大手術ののち、車椅子で近付いた父が「おい、オレが誰かわかるか!?」の問いに即答した母であった。既に三年前・・認知症という病は、特効薬が無い。が、症状を遅らせることは出来るのだ。それを助ける薬もあるにはあるが、何といっても、周囲の言葉や働きかけ、母の表情を察知し喜んでいるとわ
2024年10月1日 07:02
あと二ヶ月で、父、奇跡の生還より丸三年経過する。脳出血で高次脳機能障害となった父は、リハビリを続けるも未だ歩けない。当初あった言語障害は回復。父の入院時より、母の認知症は悪化した。父母の三年は、私にとっても、新しい三年でありました。尊大で倣岸不遜が服着て歩いているような、巨躯の父はその肉体のみ半分になり。伊達男たる父は、全てのスーツ、ネクタイ、手を通すことも着ることも不
2024年5月30日 07:14
(父母生前の日記:覚え書き) いつものように朗らかに明るくわたしの名を忘れようと、迎えてくれる喜ぶ母の姿があるものと思って疑わず・・その日も少々わたし自身が辛かったが、顔を観たくて立ち寄った。骨折後、かなり回数減、申し訳なさが常に心にあり、自己満足かも知れない、がー母の笑顔を見れるものと信じていた。しかし三日前の母は・・ただベッドで呻き声をあげるばかり。苦しそう
2024年5月28日 06:48
(父母生前の日記より)「何をどう言ってもつまらんのぅ。」と、父がふっと笑う。その顔があまりに寂しくて帰宅後も脳裏から離れない。豪胆でまさに九州男児そのものだった父、やんちゃを重ねた十代そして、企業を興した二十代転身して、経済より誇りを望んだ三十代父の人生は(父が手記をとうの昔、現役の頃、わたしに預けたのだ)まさに波乱万丈、そして、輝かしい業績を残した人生で
2024年5月23日 06:05
主治医と面談後、初の外出訓練。痴呆は回復することは、現在は不可能。が、薬によって進行を遅らせることは可能。薬及び家族の声かけ、刺激、そうした力が、大きな作用を果たすであろうと医師は言う。外科的治療と内科的治療は、ほぼ終了。持病に対しての常備薬は必須だが、手術後の状態良し。父は脳、母は心臓。二人とも、いつ果てても可笑しくない大病を持っている。今年のお盆は何とか共に迎えることが
2024年3月17日 08:08
それでも母は父を覚えているのだ。多くを忘れようと、母が口にする「一番大事な人を忘れるわけがなかろうもん」母の大手術ののち、車椅子で近付いた父が「おい、オレが誰かわかるか!?」の問いに即答した母であった。既に三年前・・認知症という病は、特効薬が無い。が、症状を遅らせることは出来るのだ。それを助ける薬もあるにはあるが、何といっても、周囲の言葉や働きかけ、母の表情を察知し喜んでいるとわか
2024年3月13日 07:27