『二十四の瞳』:1954、日本
瀬戸内海小豆島。小学校の生徒は四年までが岬の分教場に通い、五年になって初めて片道五キロの本村の小学校へ通う。昭和三年四月四日、分教場の小林先生が退任し、新しい先生が来ることになった。
子供たちは小林先生に、新任の先生のことを「イモジョ(代用教員)か?」と訊く。小林先生が「ちがう、偉い先生よ」と言うと、子供たちは「でも新米じゃろ」と言う。
「また私の時みたいに、泣かすつもりでしょ」と、小林先生は笑った。新しい先生の名前が「大石先生」だと知った子供たちは「大きい先生じゃろ」と言うが、小林先生は「私は、小林でも大きいでしょ、私より小さいわ」と告げる。「じゃあ、小石先生じゃ」と、子供たちは口にした。「でも今度の先生は泣かんよ」と小林先生は言い、子供たちと一緒に笑った。
大石先生は洋服姿で自転車に乗り、村道を走った。家から遠いので、自転車で分教場へ通うのだ。少女は「ごっついモダンガールじゃな」と感想を漏らし、主婦たちは「おなご先生が自転車で洋服も着とる。お転婆と言われんかな」と口にした。
大石先生が学校に到着すると、子供たちは自転車に興味津々だ。大石先生が「乗せたろうか」と誘うと、みんな逃げ出した。分教場の男先生は、妻に「どうも困った。女学校の師範科を出た正教員のパリパリは。イモジョの半人前とは様子が違うわ。頭がいいらしい」と漏らした。
大石先生が受け持つのは、小学校1年生の12人の子供たちだ。始業式の後、大石先生は教室で点呼を取りながら、子供たちの顔と名前を覚えていく。
ソンキと呼ばれる岡田磯吉、竹下竹一、キッチンという仇名の徳田吉次、タンコが愛称の森岡正、体の大きいガキ大将の相沢仁太はニクタ、川本松江はマッちゃん、西口ミサ子はミーさん、香川マスノはマーちゃん、昔は実家が庄屋だった木下富士子、片桐コトエ、山石早苗、父が町や村に荷物を運ぶ“ちりりんや”をしている加部小ツルという12人だ。
よろずやの女将と近所の主婦は、「愛称で呼ぶのはヒイキしている」だの「庄屋さんだから偉いと言った」だのと陰口を叩いた。大石先生は子供たちと歌を歌いながら、汽車ゴッコをして駆け回ったり、丘を歩いたり、遊んだりした。
大石先生は、岬の人たちが気安く話してくれないので男先生に相談したことを母に話した。男先生は「洋服と自転車が邪魔している。それがまぶしくて気が置けるのだ」と笑った。受け入れてくれない村民への愚痴をこぼす大石先生に、母は「気に掛けない方がいい。仕方が無いさ、分かる時が来れば分かるさ。お前なんか1年もすれば本校に変われるんだし」と告げた。
母に「もうすぐ夏休みだし、3分の1は過ぎた、最初の元気をお出し」と言われても、大石先生の気は晴れない。だが、子供たちの習字を見ながら各人の顔を思い浮かべると、「あの二十四の瞳をにごしちゃいけない」と感じる。あれだけ小さくても、学校から帰って遊ぶ暇も無い。貧乏なので、家の手伝いをしなければいけないのだ。「何と思われてもいい、頑張ろう」と、先生は心に誓った。
九月一日。大波が防波堤に打ち付ける中、大石先生と子供たちは時化が去った後片付けをした。子供たちは「仁太の家は浸水してズブ濡れになって、仁太は押入れに入っていた」と話す。
先生が子供たちと笑っていると、近くにいたよろずやの女将が怒って「何が可笑しくて笑ったんですか。人が災難に遭ったのがそんなに可笑しいですか、うちのお父さんが屋根から落ちましたが、それも可笑しいでしょ」と詰め寄った。「すいません、そんなつもりじゃ」と先生は言うが、女将は収まらず、さらに罵声を浴びせた。
大石先生は子供たちを連れて砂浜へ行き、一緒に歌った。上級生が悪戯を仕掛け、大石先生は砂浜に掘られた落とし穴に落ちてしまう。大石先生は足を怪我して動けなくなり、子供たちが泣きながら男先生を呼びに行った。
大石先生は荷車に乗せられ、足の筋が切れたために入院した。男先生が代わりに授業をすることになり、る妻に付き合ってもらってオルガンを練習した。
男先生は授業に臨むが、ちっとも面白くない内容に、子供たちは歌をすぐやめてしまう。放課後、子供たちは「男先生の唱歌はホンスカン。やっぱり小石先生の歌の方が好きじゃ」「はよ小石先生が来るといいけんな」と言い出した。
既に大石先生は退院して家で養生しており、子供たちは会いに行こうと決めた。先生の村へ向かって長い道のりを歩き続けていた子供たちだが、お腹が減ったコトエが泣き出した。すると、みんなも次々に泣き出した。
全員が泣いているところへ、病院から戻る大石先生を乗せたバスが通り掛かった。気付いた子供たちが、「小石先生だ」と叫んでバスを追い掛けた。バスを降りてきた大石先生が「どうしたん?」と驚くと、子供たちは彼女を取り巻いて「先生の顔を見に来たん」と泣いた。大石先生も感涙した。
先生は子供たちをバスに乗せて実家に連れて行き、きつねうどんを食べさせた。砂浜へ移動した大石先生と生徒たちは、記念に集合写真を撮影した。
校長が大石先生の家を訪れ、後任が決まったことを告げる。まだ半年ほどは自転車にも乗れないことを考慮して、母の頼みもあって、父の幼馴染みである校長が配慮してくれたのだ。
「また岬に戻る」と子供たちに約束した大石先生は、困った顔をした。だが分教場に残りたいと望んでも、それは無理な話だった。ちろりんやは、生徒たちの父兄が謝礼として用意した食料を持って来た。
数日後、大石先生は船で分教場へ出向いた。気付いた子供たちが、嬉しそうに砂浜へ駆け寄ってきた。先生は子供を引き連れて、父兄に食料の礼を述べに回った。
学校に赴いた先生は、「しばらく自転車に乗れないけど、学校まで遠いでしょ。それで、本校に変わることになったの。みんなが大きくなって本校へ来るのを待ってるわ。今日はお別れを言いに来たの」と告げる。子供たちが泣いた。先生が船で発つのを見送りながら、子供たちは手を振り、「足が治ったらまたおいで、約束したぞ」と叫んだ。
五年の歳月が流れ去った。その間に満州事変や上海事件が勃発し、世の中は不況の波に押しまくられていた。だが、幼い子供たちは前途に何が待ち構えているかを知らず、彼ら自身の喜びや悲しみの中で伸びていった。
あと5日で学校が始まるという日、大石先生は結婚することになり、六年生になる生徒たちは婿の顔を見に出掛けた。夫は遊覧船の機関士だ。遊覧船が入ってきて、生徒たちは先生の夫と親族が歩く後を付いていった。そこへ、ちりりんやが現れ、松江に「おっかさん、急なお産で大騒ぎしとるぞ」と知らせた。
始業式の日、女の子を出産した松江の母は具合が悪く、床に伏せていた。松江が「約束していたアルマイトの弁当箱を買ってほしい」と口にすると、父が「買ってやる」と告げた。
母は「今日だけ休んでくれんかの」と頼むが、父は「この不景気に休んでいられん」と出掛けていく。母は松江に、父は仕事が減って困っているので、弁当箱のことは言ったらいかんと注意した。
松江は本校へ行き、大石先生に母の出産を報告した。だが、母は具合が悪化して亡くなった。松江は赤ん坊の世話をしなければならず、学校へ行けなくなった。大石先生は家庭訪問して松江に弁当箱を贈り、「学校へ来られるようになったら使いなさいね。お父さんのためにお手伝いするんよ。いつもまっちゃんのこと思ってたげるよ」と告げて泣き出した。
松江の父は「どうせ母親の乳がのうなったら赤ん坊も長くないでしょう。その方が幸せです。こんな貧乏家に育ったかて、なんでエエことがあるもんですか」と漏らした。やがて、赤ん坊は死んだ。子供たちは大石先生に、父親が「これでいいんだ」と酒を飲んで泣いていたことを伝えた。
ある日、職員室に入った大石先生は、同僚の片岡先生がアカだという疑いで警察に引っ張られたことを知った。師範学校で同期だった先生が、授業で反戦思想を吹き込んだという。「草の実」という教則本の文章を書かせたのが証拠品だというのだ。
大石先生は「草の実」の綴り方に感心して読み聞かせていたので、疑問を口にした。すると校長は「とんでもない。警察に引っ張られますよ」と血相を変えた。校長は大石先生に言って「草の実」を提出させ、それを燃やした。
大石先生は授業中、生徒に「新聞を読んでいる人?」「アカって何のことか知ってる人?」「じゃあ資本家は?」「労働者は?」と質問した。授業の後、校長は「アンタにもしものことがあったら」と心配し、気を付けるよう諌めた。「あんまり正直にやるとバカを見ることになる」と、校長は警告した。
大石先生は生徒に頼んで、松江を励ます手紙を届けてもらった。だが、松江は昨夜の船で親類の大阪へ行ったという。彼女は「行きたくない」と激しく拒否し、泣いていたらしい。それを聞いて、先生は泣き出した。
秋、大石先生と生徒たちは修学旅行で讃岐へ出掛けた。だが、富士子と早苗は家庭の事情で来ていない。一人娘のミサ子も、風邪をひくといけないということで両親が欠席させた。
生徒の中には、働いて貯めた金を下ろして旅行代にした者もいた。だが、富士子の家は借金が山のようにあって旅行どころではなく、家も借金のカタに取られるのだという。先生は一番歌の上手いマスノに「浜辺の歌」を歌ってもらう。夫の乗っている遊覧船と遭遇したので、大石先生と生徒たちは手を振った。
観光地を巡る途中、大石先生は疲れから具合が悪くなった。同僚の田村先生に誘われてうどん屋へ行こうとした大石先生は、堂で働く松江を目撃した。時間が無いので、「元気でね。手紙ちょうだいね」と言うが、松江は暗い顔で口をつぐんだままだった。
大石先生が後ろ髪を惹かれる思いで立ち去ると、松江は後を追った。だが、他の生徒たちが来るのを目にすると、身を隠して泣き出した。先生と生徒たちが乗った船を埠頭で見送りながら、また松江は涙を流した。
ある授業で、大石先生は「将来への希望」という文章を書かせた。ミサ子は、母親が一人娘なので県立高女へ入れたがっている。だが、本人は数字が苦手なので無試験の裁縫学校へ行きたいと願っている。富士子は何も書かず、急に泣き出した。大石先生は外に連れ出し、事情を尋ねた。
富士子は「将来の希望なんて、何も書けないんです。修学旅行だって行きたかったんです。いつまで住んでいられるか分からないんです」と吐露した。「アンタが苦しんでいるの、アンタのせいでも、お父さんやお母さんのせいでもないわ。だから自分だけはしっかりしていなきゃダメ」と、大石先生は泣いた。
コトエは学校が好きだったが、家の事情で進学できない。妹の進学に合わせて、自分が家の手伝いをしなければならないからだ。男の子は口を揃えて、いずれ兵隊に行くことを語る。漁師や米屋より軍人の方がいいという。
大石先生は、マスノの実家である料理屋を尋ねた。マスノが「東京の音楽学校へ行きたいから女学校へ進学したい」と言うので母親が怒り、先生に説得を頼んだのだ。
母親は「料理屋の娘が唱歌が上手くても何の役にも立たない」と告げて、大石先生に娘の説得を求めた。大石先生はマスノに向かって、「マスノさんが幸せになることばっかり願ってる。先生に言えることは、たったそれだけ。でも、男の生徒だと軍人になりたいと言う。可愛い生徒はたった一人でも死なれるのは嫌だから、とっても心配だわ。マスノさんは女だから、そういう心配が無いだけで、とっても嬉しい。元気ですくすくと育ってほしい。希望だって本当に叶ってほしい。でも、何とも言えません」と語った。
大石先生は校長に呼び出され、「あんた、アカだと、評判になっとりますぞ」と告げられた。「私が何をしたというんでしょう。生徒に間違ったことを言わないつもりです」と大石先生が言うと、校長は心配そうに「兵隊になっちゃつまらんと言ったそうじゃないか」と口にする。
「いえ、教え子の命を惜しんだだけです」と大石先生が否定すると、校長は「それが、いかん。もう何も言わん方がいい。教師はお国にご奉公の出来るような国民に育て上げるのが義務です」と述べた。
卒業式で生徒たちを送り出した後、帰宅した大石先生は夫に「つくづく先生が嫌になった。私は私なりに一緒懸命やったつもりよ。だけど明けても暮れても忠君愛国。男の子ったら半分以上も軍人を志望するんだもの、嫌になっちゃう」と愚痴をこぼした。彼女は教師を辞職すると決めた。
そこへ磯吉と竹一が訪ねてきた。磯吉は高等科へ行くのをやめて、明日の晩から大阪の質屋へ奉公へ行くことが決まったという。2人は、富士子の一家が船で兵庫へ向かったことを語った。
支那事変や日独伊防共協定があり、大きな歴史の流れに押し流されて八年が経過した。その間に2人の子供を産んだ大石先生は、肺病を患っているコトエの見舞いに出向いた。家の人は漁が忙しく、昼間はいないという。コトエは、いつも記念写真ばかり見ているのだと口にした。
ミサ子は結婚し、早苗は3月から本校の教師になった。小ツルは産婆学校を卒業して大阪にいる。そんなことを話した後、コトエは「私が一番ダメ。私、もう長くないんです」と弱々しく告げた。
大石先生が「元気を出さなきゃいけないじゃない」と言うと、コトエは「先生、私、苦労しました」と漏らす。大石先生は「そうね、苦労したでしょうね」と涙をこぼした。コトエは「私、大きくなったら親孝行したいと思って、奉公に行くの楽しみにしていたんです」と言い、泣き出した。両親は「肺病なんか傍に来るんじゃない」と邪魔者扱いで、コトエはずっと一人きりで寝床にいた。
大石先生は他の女の子の苦労を語り、「自分ばっかりが不幸だなんて思わないで元気を出してちょうだい」とコトエを励ました。吉次、仁太、竹一、正、磯吉は、兵隊として島を出て行った。
彼らが乗り込む船を、大石先生は祈る気持ちで見送った。先生の夫も、これから戦争に行くことは決まっていた。無邪気に兵隊の歌を歌う長男の大吉と次男・並木に、大石先生は苛立った。
四年の歳月は、大東亜戦争の拡大と共に、兵隊墓に白木の墓標を増やすばかりであった。大吉が「早く中学生になりたいな、そうすりゃ志願できるんだけどな」と呑気に言うので、大石先生は「そんなに戦死したいの。お母さんが泣きの涙で暮らしてもええの。お母さん、やっぱり命を大切にする普通の人間になってほしいな」と告げる。「他の家の母親は、誰もそんなことを言わん。学校の先生もそんなこと言わん」と大吉が反発すると、大石先生は「だから先生を辞めたんじゃ」と冷静に述べた。
大石先生の母は病気で寝込んでいたが、症状が悪化して息を引き取った。しばらくすると、夫が戦死したとの通知が届いた。八月十五日、天皇の玉音放送によって敗戦が告げられた。もう生徒が死ななくて済むと安堵する大石先生の傍らで、大吉は敗戦に落ち込んでいた。
「泣かんの?戦争に負けて」と大吉に訊かれた大石先生は、「たんと泣いた。死んだ人が可哀想で」と答えた。しかし大石先生には、その後にも予期せぬ不幸が待ち受けていた。末娘の八津が、木から落ちて死んだのだ。
翌年の四月四日。また大石先生は分教場に勤めるようになった。早苗が本校に異動となり、その代わりとして勤務することになったのだ。大吉に船で送ってもらい、大石先生は新1年生を受け持った。生徒の中には、病気で死んだコトエの妹、松江とミサ子の娘たちもいた。大石先生は涙をこぼした。
戦死した生徒の墓参りをしていると、ミサ子がやって来た。早苗、小ツル、マスノと相談し、歓迎会を開くことを決めたのだと言う。大石先生は彼女と共に、正、竹一、仁太の墓に手を合わせた…。
脚色・監督は木下惠介、原作は壷井栄、製作は桑田良太郎、撮影は楠田浩之、編集は杉原よ志、録音は大野久男、照明は豊島良三、美術は中村公彦、音楽は木下忠司。
出演は高峰秀子、月丘夢路、小林トシ子、井川邦子、田村高廣、笠智衆、夏川静江、浦辺粂子(大映)、清川虹子、浪花千栄子、明石潮、天本英世(俳優座研究生)、高原駿雄(青俳)、郷古秀樹、渡辺五雄、宮川眞、寺下雄朗、佐藤国男、石井裕子、小池泰代、草野節子、加瀬かをる、田辺由実子、神原いく子、上原博子、郷古仁史、渡辺四郎、宮川純一、寺下隆章、佐藤武志、石井シサ子、小池章子、草野貞子、加瀬香代子、田辺南穂子、尾津豊子、上原雅子、小林十九二、高橋トヨ子(俳優座研究生)、篠原都代子(文学座研究生)、南眞由美、大塚君代、草香田鶴子、本橋和子、三浦礼、戸井田康国、大槻義一、清水竜雄、永井美子、鬼笑介、高木信夫、上村勉ら。
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壷井栄の同名小説を基にした作品。黒澤明監督の『七人の侍』や溝口健二監督の『山椒大夫』などを抑えてキネマ旬報ベストワンに輝き、ゴールデン・グローブ賞では外国映画賞を受賞した。
大石先生を高峰秀子、成長したマスノを月丘夢路、同じく早苗を小林トシ子、松江を井川邦子、磯吉を田村高廣、男先生を笠智衆、大石先生の母を夏川静江、男先生の妻を浦辺粂子、よろずやを清川虹子、松江が働く食堂の女将を浪花千栄子、校長を明石潮、大石先生の夫を天本英世、ちりりんやを高原駿雄が演じている。
本作品を撮るに当たって、木下監督は生徒役に素人を起用すると決めた。全国から兄弟、姉妹を募集して、弟や妹に分教場時代の生徒を演じさせ、6年生に成長した姿を兄や姉に演じさせた。
子供たちの芝居は上手いとは言えないが、その不器用な演技が、「いかにも田舎の子供たち」という朴訥とした佇まいを醸し出している。むしろ、あまり上手すぎるとダメだったと思う。
それに、その一所懸命に芝居をしているという感じが、いじらしい&微笑ましいと感じられる。イラク映画なんかで素人の子供を起用しているのがプラスに作用しているのと、同様の効果だ。
ただ、たまに何を喋っているか分からない箇所があるのは厳しいが。あと、泣き出す芝居は、さすがに「はい、ここで」という作為が見えすぎて(全く同時だったりするもんな)、ちとツラいけど。
随分とゆったりしたテンポで進められている。大石先生が父兄に食料の礼を述べに回るシーンとか、ただ子供たちが歩いているだけのシーンとか、もう少し詰められそうな気がする箇所は幾つもある。讃岐を巡る際の観光案内アナウンスも、要らないっちゃあ要らないよな。でも、この映画には、そのぐらいスローなテンポが合っているというのも、紛れも無い事実だ。
一点の曇りも無い健全そのものの映画で、その健全すぎるところを嫌う人もいるかもしれないが、この映画に関しては、それで構わない。個人的に、あまり行儀の良すぎる映画というのはそれほど好きではないが、例外もある。この映画は、その例外だ。
冒頭、子供たちは『村の鍛冶屋』を歌いながら歩いている。大石先生と子供たちは、『ひらいたひらいた』を歌って遊ぶ。分教場を去ると決まった時、大石先生は子供たちの『七つの子』の歌に送られる。
6年生になった子供たちは、船で『荒城の月』を歌う。修学旅行の時には、船で『こんぴら船ふね』を歌い、マスノが『浜辺の歌』を独唱する。卒業式では『仰げば尊し』を合唱する。
そのように、この映画は小学校唱歌を歌うシーンが非常に多く、音楽映画という一面もある。何となく『サウンド・オブ・ミュージック』を連想した。
大石先生や子供たちが歌うだけでなく、BGMとして使われるのも、唱歌のインストゥルメンタル・ヴァージョンだ。オリジナル曲を一切使わず唱歌を散りばめたことは、この映画の健やかな雰囲気作りに大いに貢献している。
この作品は、時代に翻弄される無力で弱い人々の、哀切のドラマである。島の子供たちは、将来への希望も満足に持つことが出来ない。自分が望むような職業に就くことは、ほぼ不可能だ。
松江は母と赤ん坊を亡くして奉公に出され、富士子は家を取られて島を去る。マスノは音楽学校へ行きたいが、旅館を継がねばならない。それ以外にも、コトエは肺病を患って命を落とし、男の子の多くは戦場で死ぬという悲劇が待ち受けている。
子供たちが悲しんでいる時、困っている時、無力な先生には、助けてあげることが出来ない。ただ見守ることしか出来ない。子供たちを思って泣くことしか出来ない。
例えばマスノの母に説得を求められた時も、「マスノさんが幸せになることばっかり願ってる」としか口に出来ない。マスノの夢を後押ししてやりたいが、家庭の事情も分かるので、そういうことしか言えない。コトエが病で苦しんでいる時、男の子が戦場へ向かう時、大石先生は、ただ励ますこと、祈ることしか出来ない。
序盤、大石先生が生徒たちと歌を歌いながら丘を歩いたり遊んだりする様子を見ただけで、自分でも良く分からないけど、ちょっと涙が出そうになった。
それはたぶん、私が物語の筋書きを知っていたからだろう。大石先生と子供たちに、これから幾つもの悲劇や不幸が待ち受けていることを既に知っているので、そのような微笑ましい触れ合いにウルッときたんだろう。
とにかく、登場人物がしょっちゅう泣く。子供たちが6年生になってからは、次から次へと不幸が起きるので、大石先生は、その度に涙を流す。
修学旅行のエピソードでは、食堂を去った先生を松江が追い掛けるが、他の子供たちが来ると身を隠して泣く。船を埠頭で見送り、松江は声を上げて泣き、子供たちの合唱による『七つの子』が流れる。ここは泣かせるなあ。
もう後半に入ると、大石先生が泣く度にこっちの涙腺も緩むという、怒涛のリリカル攻撃が待っている。卑怯なぐらい泣かせに掛かっている。っていうか、まあ卑怯ではあるよな。感傷的に傾きすぎているということで、批判的に捉える人もいるかもしれない。
ただ、卑怯なことをやっても、泣けない映画はこれっぽっちも泣けないわけで。これは素直に泣ける。終盤、戦死した生徒たちの墓参りをしている大石先生の元へみさ子が来るシーンなんて、どうということは無いシーンなのに、なんか泣けてしまう。
『仰げば尊し』のインストをBGMに流しながら、かつての教え子7名(マスノ、早苗、松江、磯吉、ミサ子、小ツル、吉次)と大石先生との再会が描かれる最後のシーンは、見事に号泣だ。
ただ、あえて注文を付けるとすれば、めくら(と劇中で言っているので、あえてそう書く)になった磯吉が「私にも見してください。この写真は見えるんじゃ」と集合写真を受け取り、どこに誰が並んでいるかを語るシーンでは、その写真のアップが欲しいなあ。あと、そこでマスノが『浜辺の歌』を上手に独唱するのは、わざとらしくて要らないわ。最後も、朗々としたプロの合唱による壮大な『仰げば尊し』よりも、子供たちや、同窓会のメンツによる下手な合唱の方がいい。
というわけで、最後の最後だけ少し不満が残るけど、でも感動の名作だね。
(観賞日:2010年3月11日)
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