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自分探し

僕のなかなか表現できなかった内側で起きていることを書いてみたいと思う。

きっと理解し難いと思う。
自分でもそうだ。じぶんが自分ではない感覚だからだ。でも、結局はいまのじぶんがいまの自分なんだ。

いまのじぶんは本来の自分の5%くらいしか使えていない感覚。使わない、のではなくて使えないのだ。

時速200kmで走る車が時速10kmしか出せなかったらどうだろう。

周りからはふざけているように見えるかもしれない。運転席に座る自分はアクセル全開に踏んでいるのにだ。

この場合、それしか使えていないというのを本人が自覚しているというのが辛いところだ。

100%出しているけれど、それがそんなものなのだったらまだいいかも知れない。

その場合は仕方ない。

でも、5%くらいしか出せていない現状にショックを受ける。こんなはずじゃないのに。

それがよくわからない。

病院に行って検査をしても異常は出なかった。
言われることといえば器質的な問題はない。

そして、

「サッカーできない期間がそれだけ長くなればストレスも溜まるだろう」

と自律神経や精神的なショックが起因しているという話で終わる。それが事実なのかもしれないけれど、実際に起きていること、感じていることを書いておこう。

同じように悩んでいる人にはきっと自分だけではないのだろうと思う。

このよくわからない感覚について…。

事故に遭ってから、もうすぐ11ヶ月が経過します。

あのときは半年もすればサッカーができると思っていた。遅くとも1年だろうと。

半年の我慢でも本当に長いと感じていた。
これまで骨折してもテープでぐるぐる巻いて固定して試合に出ていた。

今回の骨折はそうはいかない。

そして、半年で復帰するという夢は崩れた。
実際の半年後は再手術をしていた。

3月26日に事故に遭ってから僕の生活は大きく変わった。自分の生活と感じることすら難しかった。

そこからの時間はとてつもなく長い道のりだった。
多くの人に支えられ、一つひとつ乗り越えてきた。

サッカーが自分にとって全てだった。

どんなときもサッカーのことばかり考えていた。

小学生に上がると同時にサッカークラブに所属して本格的にサッカーを始めた。

僕の地元の柏市には柏レイソルというプロサッカークラブがあって、ものすごくカッコよかった。すぐに僕の夢になった。

子供の頃はゲームっ子だった僕に、

両親は『サッカーかゲームかどちらか選びなさい』と選択を迫った。

僕の答えはサッカーだった。

その日のうちに全てのゲーム機を売り払って、サッカー用品を買った。

僕のサッカーチームは隣の小学校のグランドを使って練習をしていたので、自然と隣の学校に通う友達がたくさんできた。最初は僕だけひとりぼっちな気がして、通うことに緊張した。

でも、サッカーがすぐにそんな緊張を解いてくれてたくさんの友達とサッカーに励んだ。

後に中学校に上がるとその友達たちと同じ学校に通うことになった。

Jリーガーになることが夢だった僕は、一度挫折をした。日本でサッカー選手になることは叶わなかった。

しかし、そんなときに部屋にあった世界地図を見ると日本はとてつもなく小さかった。

こんな小さな場所だけで全てを諦めてしまっていいのだろうか。

僕は世界のどこでもいいからサッカー選手になろうと思った。

アルゼンチンから始まり、僕の主戦場となる東南アジアではカンボジア、モンゴル、タイ、ネパール、ラオス…

イタリアやギリシャにも行った。

とにかくサッカーがあればどこにだって行った。

僕はとにかくアクティブで、好奇心が旺盛だった。

何だって興味を持ったらすぐに取り組んだ。できるかわからなくても、できるかわからないからこそ取り組んだ。

なぜなら、できないわけではないからだ。
できるかわからないということは、できるかもしれないということだから。

そんな風にして、僕はサッカーをしてきた。

言語が違う国に行っても、とにかくサッカーがあればなんとでもなると思った。

そして、ラオスという国にたどり着いた時にはコロナが流行して、国外には出られなくなった。

そこではコロナを理由に加入予定であったチームがリーグ不参加を表明して、僕はラオス国内で新たなチームへ移籍する必要があった。
(コロナのために、国外へ移動ができないため)

そして、僕はヴィエンチャンFCというクラブに加入した。しかしそこでも問題がたくさんあった。

ヴィエンチャンFCでのリーグ戦

まず、コロナを理由にスポンサーが撤退しているため資金不足に陥っているということだった。

僕は、とにかく続けるためにはやるしかないと思ってクラブに選手だけでなくてクラブマネージャーもやらせてもらえるようにお願いした。

なぜなら、スポンサーがいないならば、スポンサーを獲得しにいく必要があると思ったからだ。

そんなバカみたいな提案をして、その提案が通ってしまった。

何もわからない僕は、とにかく必死にできることを取り組んだ。

クラウドファンディングをしたり、ラオス国内の企業に話をしに行ったり。

とにかくいろんなことがあった。
うまく行くことが3割くらい、うまくいかないことが7割くらいあった。

でも、それは7割も改善することができるということだ。

そんな風にしてやってきた。
何をするにも、やると決めたら最後までやり抜く。
できないならできないなりにどうしたらできるのか考えた。

そこで大切なのは、それが「やるべきこと」であることだということ。

それを僕は「情熱」という言葉で置き換えた。
情熱がある限り、とにかく突っ走ってきた。

日本代表とワールドカップ予選を戦うモンゴル代表にアシックスのシューズを寄贈しようと思った時にも一度白紙になったところから試合のある2週間前に一転して実行することができた。


とにかく、僕はそんな風にやってきた。

そんな僕がいま自分を探している。
自分を失ってしまった。

自分の中身は同じだ。あの時と同じように「あんなことをしたい」とか「こんなことに取り組んでみたい」という気持ちがある。

だけど、体が動かない。

自分が自分でないような感覚というのが一番わかりやすいのかもしれない。

間違いなく自分なのに、自分では自分でないように感じる。

何事に対しても取り組むのが本当に大好きだった。好奇心の塊だった。

それが、昨年の夏頃から少しずつ封印されていくかのように閉ざされていったのかもしれない。

もちろん、足の大怪我も要因の一つだと思う。
なぜならそれは一時的に僕の大好きなサッカーを遠ざけたものだからだ。

サッカーにまた戻りたい、その気持ちだけで突っ走ってきた。

足は毎日焼けるように痛かった。
足の裏から火炎放射器で燃やされているような感覚だった。

それでもサッカーがしたかったからとにかく限られた中でできるトレーニングをしていた。

ほんの少しのトレーニングでもと思い、出来ることは取り組んだ。特に上半身のトレーニングは沢山やった。ベッドの横にダンベルを置いて、暇があれば腕や上半身のトレーニングをした。

そんな中、傷口から膿が出てきた。
これは開放骨折をしてしまったことによって危険なことであった。もしかしたら、骨髄炎を起こしているかもしれない。

そんな不安が脳内に巡った。
病院で検査をすると問題ないから抗生物質を飲んで様子を見ようということになった。

しかし、膿は止まらない。
隣国であるタイのバンコクへ移動して治療する予定があったので、そこで調べてもらうことにした。

結果、切開をして膿を全て取り除いてもらった。

それでも、うまく歩くことができなかった。
このとき、3ヶ月が経過していた。

一度、日本に帰って調べ直してもらうことにした。

有名な大学病院を紹介していただいて診察を重ねた結果、感染がなかったとしても固定の強さが足りない可能性があるから再手術をしてしっかりと治そうということになった。

9月、日本で2回にわたる再手術を行なった。

その結果、骨は繋がった。
しかし、この日本での時間の間にも僕は何か変化を感じていた。

少しずつ自分の持つ物事への興味が薄れていっている。

この時はまだ食事に関して興味があった。
鰻が食べたいとか、ステーキが食べたいとか…よくいく食事処とんきには何度も足を運んだ。

懐かしい味に安心した。

しかし、家に帰りベッドに座ると途端に動けなくなった。

起き上がって動き出すまでに時間が必要だった。
その理由はわからない。

今もそんなことが続いている。

怪我をする前の僕は朝5時には起きて、6時からジムでトレーニングをスタートしていた。

早朝からジムでトレーニングが習慣だった

9時ごろには家に帰って勉強をして昼食を食べたら午後のトレーニングに備えた。

そんな自分が、動けない。
だけど、サッカーに戻りたい気持ちは胸に強く持っている。

そのために何をしなければならないのかわかっている。もちろん、足の状態はまだまだ走れる状態ではない。

それでも、できることをする。
しかし、汗をかくことに億劫になっていた。

それはおそらく幹部に感染の恐れがあった時に、汗をかかないようにと言われていたからだと思う。
汗をかかないように気を付けていたことが、その感染の恐怖とともに脳に刻まれてしまったのだと思う。

そして、その頃にはまだシャワーを浴びることも簡単ではなかった。片足を濡らさないようにしなければならなかった。

そんな生活が半年以上も続いた。

とにかく、まだ走れなかったけれど歩くということを何時間も繰り返した。

それも汗をかかないように気を付けなければならなかったため、太陽が消えてから取り組んだ。
いま思うと、もっと太陽に当たっていれば良かったと思う。

10月になって、ようやく湯船に浸かることができるようになった。

そして、再手術後2回目のレントゲンを撮ってサッカーへの復帰の許可をもらった。
骨はもう折れることは無いということだった。

しかし、嬉しさは想像していたものとは違った。
なぜなら、その時はまだ足の痛みが強く残っていた。走るなんて出来るわけもなかった。

サッカーはジャンプしたり、ターンしたり急激に加速や減速を繰り返す。

そして、ボールを蹴るし相手との接触がある。

接触プレーはサッカーにはつきもの

そんな激しい動きができる状態ではなかった。
要は、骨としてはもうサッカーに耐えられます(折れません)ということだった。

良くも悪くも僕にとってサッカーが全てだった。
それを奪われてしまったことによって、自分の中にある大きな柱が崩れてしまったのかもしれない。

そして、まだまだ自分の状態が復帰に程遠いことからくる焦りやショックは想像を遥かに超えていたのだと思う。

日本にいた頃から少しずつ食欲が消えていった。
生きるために食事を食べた。

それでも食べたいものが見つからなかったからプロテインなどにも頼った。

生きるために食べるということを続けた。筋肉を維持するために、トレーニングも続けた。

午前中はとにかく体が重かった。一歩も動きたくないような初めて味わう感覚に衝撃を受けた。

夜になるにつれて少しずつ活動的になった。
それでも、夜は限界があった。

動けるけど、寝る必要がある。
寝ないと骨が回復しない。

つまり、何をやるにしても何かしらの障害を感じるようになった。

でも、サッカーに復帰したいという気持ちだけは消えなかった。

それを確認するためにも、日本にいた期間は柏レイソルの試合はホームで開催されるものは全て観に行った。やっぱり僕はサッカーがしたかった。

それでも、体は動かない。

ジムに行って上半身のトレーニングをしたいと思っても、ジムに行くという行為に対して体が赤信号を掲げているような感覚だった。

もちろん、歩くこともまだ痛みがあった。

日本は冬を迎える。
寒い環境では骨折部が痛むし、リハビリに取り組むためにはあまり良い条件では無いと思った。

痛みがない状態で取り組めるのはとてもプラスだ。
そして、僕は彼女の住むフィリピンへ向かった。

リハビリ自体は順調に進んでいたと思う。
しかし、僕がうっすら感じ始めていた異変はどんどんと強くなっていた。

これは精神的なものからくる異変なのだろうか。
それとも、運動を長くできなかったことによる身体の不調なのだろうか。

身体の血流がどんどん悪くなっていくのを感じた。
手の色が白くなり、握力が落ちていっているような感覚があった。

コンドミニアムにあるジムはエレベーターを降りるだけ。怪我前の自分ならば、毎朝早起きしてトレーニングをしていると思う。

1日に2回は最低行くと思う。

それが、なかなか行けない。
ただエレベーターを降りるだけで最高のジム環境が広がっている。

それなのに体が拒絶反応を示しているかのように動かせてくれない。
自分の体なのに、自分でコントロールすることができない。

それでも、とにかくジムへ行った。
そこまで行けばトレーニングができる。

しかし、またここでショックを受けてしまう。
以前のような筋力がない。

30年間続けてきたことによって作り上げられた筋肉が落ちてしまっている。

それは怪我をした右足だけでなく、左足に関してもだった。左右対称になるかのように、筋力が落ちていった。

危機感を感じて何度もマシーンを使って大腿四頭筋やハムストリングスのトレーニングを行った。

しかし、なかなか筋肉は戻らないし、筋肉痛にすらならない。

筋肉が使えていないのか!?不安が頭をよぎった。
そして、肌の触りごごちや血色も変化していった。

それでも、とにかくらやらなければと思ってやり続けた。

体は相変わらず拒否反応を示すかのように倦怠感が襲ってくる。僕が動こうとするのをわかっているかのように、「怠さ」というもので対抗してくるような感じだ。

心臓の脈や拍動も大きく変わった。

以前は大きく鼓動を感じて、ゆっくりと動いていた。

それが今は弱く、速く動くという感じだ。
もともと怪我をすることが少なかった僕は自分の体に対して敏感なのだと思う。

だからこそ、変化に対してすごく反応してしまう。
特に何か悪化することを恐れていたために、ネガティブな反応に対しては敏感だった。

心臓がドクドクする。
それは不安を募らせるのに十分過ぎた。

感染が怖かった時期からいろんな症状を恐れて調べてしまうドクターショッピングをしていた。

不安を消すため学ぶつもりが、不安を強くする結果を招いたかもしれない。

明日は今日までのような状況から脱するためにこの難解な迷路から脱出する方法をとにかく探し続けた。

運動をするように言われて、運動をしても変わらない。むしろ、痛みが強い。まだまだ動くには早すぎた。

どんどんと気持ちは焦った。

動けない。
しかし、動かなければどんどんと体力や筋力は落ちてしまう。元のように戻すことが困難になっていく。だから動きたい。でも、動けない。

もともと人と話すのが大好きで、おしゃべりな僕だったが怪我して行動範囲が狭まったことによって喋る機会も減ってしまった。

サッカーをプレーするにはたくさんの判断が必要だ。常に判断の連続。そんな環境から遠ざかって、人と話す機会も減ってしまったことで脳を使う機会は激減した。

読書をすると文字がなかなか入ってこない。

きっと症状を調べたり、不安を消すための作業で脳は疲弊してしまっていた。

そして、よくわからないけれど動くことが億劫になってしまったことで人と話す機会も激減してしまい、言葉も中々出づらい感覚も覚えた。

食欲が減って、運動する機会も激減して、いろんなものが悪くなった気がした。それだけ、サッカーという激しいスポーツを続けていたことが体を維持する上でも大切な要素だったんだと知った。

相手との接触のたびに強く食いしばることで歯の健康も維持されてたのだろう。

とにかく、自分の中からあらゆる意欲というものが削ぎ落とされてしまっていった。
そして、まだまだ足の違和感や痛みと戦いながらの僕は行動したくても足の心配をする必要は常にあった。それがまた億劫さを強めたのだろう。

サッカーをしたり、買い物に行ったり、映画を見に行ったり、観たことない景色を見たり、美味しいものを食べに行ったり…カラオケをしたり…好きなことはたくさんある。

今でも好きなものは何?と聞かれたらそれらを並べるだろう。

とにかく暇さえあれば何かをしていた。
それが何をするにも意欲を感じないという体になってしまった。

動きたいのに動かない。

電池は入っているけれどスイッチを入れることができない電気機器のようだ。

それでも無理やり動かしていった。
サッカーに戻りたい。見せたい景色がまだまだある。

でも、朝になればまた体が重く、心臓の鼓動は僕に異変を感じさせた。

でも、それを打ち消すかのようにリハビリに取り組んだ。

リハビリを担当してくれているAさんには本当に感謝している。
倦怠感を抱えながら、なんとかリハビリを終えたらもう体にはエネルギーが残っていない。

以前なら何も感じないレベルで息が上がり、動けないほどに疲弊し切ってしまう。

運動量が自分の武器だと思って取り組んできた僕は、その武器を失った。

自分が自分でなくなっていく。

それでも負けず嫌いな僕はなんとかバイクを思いっきり漕いだりした。心拍数の上昇は恐ろしいほどだった。

ランニングマシーンでは、怪我前のウォーミングアップ程度のスピードより遅いスピードで息が上がる。もう走れないと思うレベルだった。

でも、走り続けた。
足の痛みが我慢できるレベルで、走り続けた。

汗をかいた時、爽快感を感じた。
もっとトレーニングがしたいと思った。

これが僕が探していた意欲だと思った。
だけど、トレーニングが終わればまた同じように倦怠感が襲ってくる。

一日中、倦怠感は僕から離れない。
早起きが大好きだった僕だけれど、倦怠感という恐怖に、朝を迎えることが怖くなった。

息苦しさを感じる。

お腹の張りを感じる。

背中や首の張りを感じる。

手足が痺れる。

微熱があるのかと思うような怠さが常にある。
インフルエンザにかかった状態で年中過ごしている感じだ。

おまけにその状態でトレーニングに向かう。
なぜなら、それが消えるのを待ったけれど一向に消えなかったんだ。

朝に散歩をしたり、自然療法を試したり、心療内科の先生に診てもらったりとあらゆるチェックをした。

それでも体が感じる違和感は消えなかった。消えないどころか、強くなっている気がした。

それでもリハビリは続けた。

少しずつできることは増えていった。
走れるようにもなってきていた。

でも、肝心の意欲が戻らない。
何をするにも億劫になってしまう。

億劫に感じないのはトイレに行くことや歯を磨くこと、水を飲むことくらいだろうか。

彼女と出かけたり食事に行くことはとても楽しみで、その感情だけは意欲があった。

年末年始に行ったボラカイ島

しかし、それ以外のほとんどのことに関して意欲が出ない。
「やりたい!」という気持ちがあるのに動かないというのが本当に素直な表現だと思う。

出かけたいのに出かけられない。
でも、一旦外に出てしまえば今度は戻りたくなくなる。

なぜなら、戻ってしまうとまた動けなくなるからだ。

外にいると比較的、普通だと思う。
脳の働きが遅くなっているような感覚はある。
以前はスラスラ出た英語が出なくなったり、計算する時に時間がかかったり、何かを思い出すときに思い出せなかったり。

認知症なのか?と思ったけれど、認知症の場合は思い出せないらしい。

だから脳の疲労が凄まじいことが原因のようだ。
たくさんのアプリケーションを開いているパソコンのような状態なのだという。

そんなことにも嫌気を感じたり、ショックを受け続けている。

血流の悪さも原因なのだろう。

そひて、気がつくとおでこだけメラニン色素が抜け落ちてしまった。太陽に当たる機会が減ってしまったことが原因だろうと言われることもあった。

東南アジアを主戦場にサッカーをしていた僕はとにかく日光の下にいることが多かった。

毎日トレーニングがあったので最低でも移動を含めて4時間は強烈な太陽の下にいた。
それが怪我によって歩けない期間は病室、家の中での生活を強いられた。

そんな状態で過ごしたら精神的にも、肉体的にもダメージは大きいのは想像できると言われた。

僕にとって当たり前だった生活がいきなり当たり前ではなくなった。

でも、どうだろうか。

一般の人たちは出勤時間以外はほぼ会社の中にいることを考えると僕の生活とそんなに変わらないのではないか?

そんなことも思った。
それは比べるものが違うのだろう。

アスリートとして生活していたものが基本的以下の生活レベルに陥った。それによって、精神的にも、肉体的にも異変を生じさせた。

日本での入院期間中、コロナ対策で人とのコミュニケーションが取りづらかったことも症状を強くする要因だったと感じる。

とにかく人と接することが大好きだった僕が、いきなり人との接触から遠ざかってしまった。

そして、運動する機会も大幅に減ってしまった。
運動ができないから水分もなかなか取れない。喉が渇かないからだ。

サッカーをしていた頃は毎日4リットルは飲んでいたと思う。

朝ジムに行けば2リットルのボトルが空っぽだ。

チームでのトレーニングでもまた、1リットルのボトルに何度も水を入れて飲み干していた。

血流が悪くなるのも当然のことだろう。水が足りなさすぎる。

運動制限により運動ができなくなり、再手術が終わるまでは1日に500〜700ミリリットルほどしか飲めていなかったかもしれない。

いろんな要因はあるのだと思う。

とにかく、僕はあらゆる意欲が消えていってしまった。

お腹すら空かない。
食べたいものすら浮かばない。

まるで、世界にあるものを片っ端から忘れていたからスタートをするような感覚だった。

食べて美味しいと感じたものをとにかく食べ続ける。買い物をしに行くにも、まず体を動かすことが億劫なところからスタートする。

自分が自分ではない感じだ。
言葉もだんだんと出なくなっている。

幸い、文字にすることはたくさんしてきたのでスラスラと打ち込める。

やはり、衰えるということなのだろうか。
そうだとしたらそのスピードに僕は驚いている。

これまで毎日のようにトレーニングを追い込み続けていたことで維持できていただけなのかもしれない。

いわばいまの状態が一般の同世代の体の状態であって、僕はアスリートとして活動していたことで高い状態にいて、それが崩れたことで「普通」になっただけなのに「異常」だと感じているのかもしれない。

毎日8km走って、ガンガンに筋トレをしていた僕が、一気に何もできなくなったんだからそれくらいの衝撃はあるのかもしれない。

いや、実際に今僕に起きているのはそれくらいの衝撃だ。

たくさんしたいことがある。
それなのに、体が言うことを聞かない。

いや、いままでももしかしたら僕は自分の体に鞭打って動かし続けていたのかもしれない。

それが怪我を機に、僕の意志よりも体が正直に反応を表しているのかもしれない。

怪我で動けなかった時間が、その体の正直な反応に抗う力を失ったのかもしれない。

意欲がとにかく出ない。消えているのではなくて封印されているような感じだ。魔法をかけられて、使えなくされているようだ。じぶんの身体のどこかにそれを感じることはある。でも、そこから出て来れない。

そんなじぶんでも消えない意欲があった。

それは愛情。食欲でもなく、睡眠欲でもなく。

これは深い学びだなと思った。

サッカーに対する愛情。友人、家族に対する愛情。
彼女に対する愛情。それはどんな状況になっても消えるものではないし、むしろ深くなるものだと実感した。

これはなかなか経験できることではないと思う。
全ての意欲が消えて残るものというものだ。

愛情以外のほとんど全ては封印されてしまっている。どこかにそれを解き放つ術があるのだろうか。

僕はいま、じぶんが自分でないように感じている。
本当の自分はどこにいたのだろう。

あの時の自分なのか。
それともいまのじぶんなのか。

何事にも挑戦的で意欲的な自分を取り返したい。
あのときよりも怪我を経てそこに対する情熱を纏った自分になりたい。

じぶんは、いま自分を探している。

僕にはまだサッカーを通して実現したいものがある。

まだまだ終わることができない。

それなのに、悔しいくらいに、悲しいほどに自分が見当たらない。

いまのじぶんも自分なのだと思う。

どんな環境でも、どんな理不尽があっても

ずっと汗水流して追い求めて

毎日トレーニングをして維持してきた自分とは程遠いのだけれど。

改めて思う。

何かをやりたいと思うならすぐに取り組むのがいいと思う。

やりたくても、やれなくなることはある。

でもやれるなら失敗したっていいじゃない。

失敗したらまたそこから学んで、改めてトライすればいいじゃない。

僕は挑戦することがとても大好きだ。
大好きだったとは言わない。いまも大好きなんだ。

けれど、封印されてしまっている。
あらゆる楽しみを失ってしまった。

生きるために水を飲んで、ご飯を食べて、夜は寝る。

サッカーがしたいという気持ちは消えないから、どんなに辛くてもトレーニングはなんとか行う。

待ってくれている人たちがいる。
やりたい。戻りたい。大好きなあの場所に。

ラオスで毎週子供達とサッカー教室

それなのに、自分の体が自分ではないようだ。

何のために生きるのか。

僕はそこに理由なんてないと思っていた。

だけど、それは生きていることに対する意味を感じていたからこそ、理由なんてないと言えていたのかもしれない。

生きるということには何か目的や喜び、感情というものが備わっている。それを含めて生きるということだったのかもしれない。

意欲や感情、これらが欠けてしまうと「生きている」ようで生きていない。

感情が胸を動かす。
そして、その胸を動かすのは呼吸だ。

酸素を吸い込み、二酸化炭素を吐き出す。

僕らは常に何かを得て、何かを与えている。
それが生きるということだと思う。

意欲。

これはとても大切な感情だ。
何かをしたいと思って心がその司令塔である脳に依頼をする。

その依頼に対して、脳は答えを出す。
いまのじぶんはその部分でよくわからないトラブルが発生している。

僕はイエスと言っているけれど、司令塔はノーだと言っているんだ。

だけど、脳は体を守るためにその指令を出しているという捉え方ができる。

つまり、いまするべきことではないのかもしれない。

しかし、それならばいつまた自分を取り戻すことができるのだろうか。

じぶんの中に自分がいる。

きっとどこかにいってしまったのではなくて、じぶんという檻の中に自分は閉じ込められているのかなと思う。

じぶんが言っていることが理解できないことであることはわかる。

でも、これがきっと多くの人が悩んでいるものなのだろうと思う。

そう、きっとこれが鬱というものなんだと思う。

これは心の病気ではなくて、脳の病気だ。
心は常に「こうしたい!」と言っているんだけれど、脳がそれを阻止している。それがこのメカニズムだと僕は思った。

自分の体なのに、じぶんの脳が自分の意思に抗うようにコントロールし始めている。

それは僕の場合、長期の安静を強いられた状況、また怪我による多くの不安から作り出されたものなのかもしれない。

とてつもなく苦しい。

自分がじぶんによって支配されてしまう。

わかって欲しいけれど、なかなか理解を得るのは難しい。

怠けている。
そんなふうに見えてしまうだろう。

本当はたくさんチャレンジしたい。
それなのに…。

心とカラダはどんどんと蟻地獄に落ちていくようだ。

まだまだ、終わりたくない。

まだまだやりたいこと、やらなきゃいけないことがある。

頼む。

まだ、やらせてくれ。
あの頃のように必死にボールを追いかけたい。

まだまださらに強くなるためにジムでトレーニングをしたい。


日本とは違う環境に生まれ、懸命に励む子供達の環境を少しでも良くする手助けしたい。

僕にも夢はたくさんある。
実現するために、まだまだ時間が必要だ。

だから、まだまだ走りたい。


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