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「事実は小説よりも奇なり」への私論。この表現は信憑性を持つのか?

"Tis strange, -but true; for truth is always strange;/ stranger than fiction" バイロン『ドン・ジュアン』より

想像の産物である小説よりも、実際に現実世界で起こる事実の方が奇妙で不思議なことがことがある。一般的にこのような意味で理解されているのが、表題にある「事実は小説よりも奇なり」という表現だ。
一般的には、Truth is stranger than fiction.と表現されることが多い。

私はバイロンには詳しくないし、バイロン自身が『ドン・ジュアン』という長編詩の中でこの表現でどのようなことを表したかったのかについては、あまり興味はない。つまり、バイロンの意図に興味があるわけではない。

私の興味は、この表現が現代で使われる際に、一般的に「どのようなことを言いたくて使っているのか」ということや、この表現がある程度の信憑性をもって使われる背景事情についてである。つまり、人々がこの表現を使いたくなるのは何故なのか、ということだ。

(1)「事実」と「真実」の語彙イメージ

factではなくtruthだと知る

最初に、私自身の驚きを述べておきたい。それは、原文ではfactではなくtruthが使われていることに初めて気づいたということだ。
それまでも、この英文(正確には慣用句として使われるTruth is stranger than fiction.)には出会っていたはずで、その時にはあまりtruthというところに引っ掛かりがなかった。

まず、factとtruthの訳語をWeblioで引いてみる。
factを調べると、すぐに類語としてtruthとの区別が記載されていた。

 (実際に起こった[起こりつつある])事実
《★【類語】
truth真実である(と信じられている)こと》.

この「信じられている」という注釈が結構重要な気がする。

ちなみに、factの反対語とtruthの反対語を見てみよう。

・fact ⇔ fiction 
・truth ⇔ lie/falsehood, falsity

「真実」には価値判断が含意されている

ここからもわかるように、物理的・社会的なものとして客観性をもつ出来事としての「事実」と、そこに真偽という価値判断が備わったものが「真実」だと区別されていることがわかる。一旦、この定義を受け入れることとしたい。

そうなると、上記の慣用句の和訳として適切なのは「真実は小説よりも奇なり」とすべきなのだろうか?

実は、私がそもそも「事実は小説よりも奇なり」が気になったのも、この慣用句の中に「主観的な価値判断」が備わっているかどうかがふと気になったからなのだ。

そもそも、strangeかどうかは誰かが判断しているものなのである。だから、価値判断が当然入っていることになる。しかし、日本語の「事実」という言葉にはその価値判断が入っていないとイメージしていたので、そこにギャップを感じたのだった。
実際、fictionの対義語はfactの方がしっくりくる。

(2)factとfictionの存在論

一般的な解釈として、この表現は、「想像の産物である小説よりも、実際に現実世界で起こる事実の方が奇妙で不思議なことがことがある」ということだ。

つまり、fact(事実)とfiction(虚構・創作物)を対比させている。

ここでは、truthよりもfactの方がしっくりくるという前提で、対義語を比べて、「どちらが、よりstrangeか」という観点で整理する。

「数」に注目してみる

本来、「実際にある状態(事実)」よりも、「可能である状態(虚構)」の方が大きいと思われる。

例えば、目の前に「黒い乗用車」があったとする。事実は「黒い乗用車」である。
ところが、同じ乗用車でも、想像上では赤色・水色・黄色・・・など、ありとあらゆる色で塗られた乗用車がありうる。つまり、一つの事実に対して、さまざまな虚構が生み出せる。

可能な虚構ということであれば、事実よりも虚構の方が数は天文学的に多くなり、それに伴ってstrangeも多くあり得る。

※数学的には、事実のほうも「細分化」が無限(=可算無限)にできる。それに従って、虚構も無限にできる。どちらの無限も(カントールの用語を使えば)「濃度」は同じで、アレフ・ゼロとなる。しかし、そういう無限論ではなく、一般的な素朴な感覚に従えば、虚構のほうが多く感じる。

どちらにせよ、虚構の方が数学的にstrangeが多い(あるいは同じ)だけあるとすると、この名言の信憑性(名言が名言である所以)がなくなってしまう。

日本語では「小説」になっている点を考える

違う語彙に注目してみよう。
よく見てみると、fictionは「小説」と訳されている。
これも少し分析が必要だ。

「虚構」と表現するよりも「小説」と表現すると、「作者」の存在が強く押し出される。つまり、「小説」と訳すことで、「事実として存在する創作物」がイメージされ、作者の想像の産物とは言え、既に具現化した事実の一種と見なされているように思う。
その意味で、先ほどの数学的な「数」がぐっと少なくなった気持ちになる。つまり「可能な数」ではなく「現実の数」が想起されるからだ。

そうすると、確かに、小説家の人数が全人口を超えることはないし、統計を調べたわけではないが、ごくごく少数の人が人生の中で数え切れる数の小説しか書いていないだろうことは明らかである。

「小説」と訳すことで、「数」の問題はクリアした。つまり、

「奇妙な事実」 > 「奇妙な小説」

ということが言えることになる。

(3)strangeとalwaysの認識論

さて、(2)では「事実」と「創作物」の数について考えてみた。
今度は、strangeという判断の「質」「程度」についての切り口を考えてみよう。

一般的には、「事実は小説よりも奇なり」という表現は、「創作で奇妙さを演出しようとしたところで、事実には敵わない」というニュアンスをもつものと理解されていると思う。

ここでは、「stranger than fiction」の部分に注目してみたい。

小説家や創作家の想像力の限界を意図しているという解釈

小説家や漫画家など、創作家の想像力というのは恐れ入る。
「よくも、こんなこと考えつくな」と思わせることは多い。

言葉という道具を使って、ある意味で人間の想像の限界線を描き出そうとする行為が、文学なのだろうと思う。
だが、その限界を極めるようなプロの創作家の想像力を駆使してでも、事実として起こる出来事の方がstrangeであるというのがバイロンの意図なのだろうか。

もう一つの解釈の可能性

もう一つ、私たちが考えなければならないのは、fictionを生み出し、strangeだと判断する人を「自分」という一個人に限定して解釈する方法だ
つまり、そこにはプロの創作家は出てこない。出てくるのは、この「私」である。AさんにとってはAさん自身だし、BさんにとってはBさん自身の「私」である。

そう考えると、このような日本語になるだろうか。

「事実は、私が考える想像の範囲では収まらないほどstrangeだ」と。

ここでは、fictionは、プロの創作家の手によるフィクション(小説)でもなければ、誰かよく知らない人たちや一般常識的な創作・虚構のことを意味しない。各個人の想像力の産物としてのfictionを意味する。

この場合、この表現は、どのような警句になるのだろうか。

人は自分が理解したいようにしか理解しない

以前、このテーマでnoteを書いたことがあるので、よろしければ読んでいただきたい。

紹介したnoteでも書いているが、自分が見たいようにしか見ない人というのは、確実に存在する。
見えているものしか見えていないし、想像できる範囲でしか想像できない。

自分の理解の「外」があると理解していない。

これは、私も含めて誰しもがそんなものなのだと思う。
自分の理解や想像以外の可能性に想いを馳せることは、何か「きっかけ」が必要なのではないかな、と思う

自分の理解の「外」を意識するきっかけとは?

そのきっかけは、身近な例で言えば以下のようになるだろう。

・正しいと思って提案したことに対して、明らかな間違いを指摘された時。
・人とのコミュニケーションで、すれ違いが生じた時。
・ずっとそれでうまくいくと思っていたら、どうもうまくいかないな、と気づいた時。

そう。いずれも、何かしらのトラブル・アクシデントがきっかけで「何が原因なんだろう?」と探る際に、自分の理解の「外」を意識する。

人は、何事もうまくいっている時は、わざわざ考え込まない。
そして、何事も全くうまくいかない時は、捻くれて、自分の世界に入り込むので(病みすぎか)、「外」に目を向けようとしない。

適度なストレスが目をひらくきっかけになる。

alwaysの意味すること

日本語でよく口にだされる「事実は小説よりも奇なり」には、alwaysという副詞は入っていない。
一般的な英語表現でも見当たらない。

しかし、もともとのオリジナルと言われるバイロンの文句にはalwaysがあるんですね。

この「常に」という表現は非常に強い意味があり、それを使うということは、ある意味で「断定的」であり、何らかの警鐘を鳴らす意図を感じる。

私の個人的な見解だが、訳としては「真実は、いつも自分の想定よりもおかしなものだ」くらいの方が良いのかな、と。

事実ではなく、その正しさを確かめるべきものとして「truth」の意味を残し、「fiction」はあくまでも個々人の想定・想像の範囲のことだと解釈する。それによって、この言葉は、より個人が自分の理解の限界を自覚するための警句として価値が出てくるように思う。

(4)このような表現分析はなぜ必要なのか?

最後に、少し自分なりの持論を書いて終わりたいと思います。

昨今、chatGPTなどの生成AIが大きな話題になっています。
職業を奪うとか、教育の方針を大きく変えないといけない、など。

確かに、変わらざるを得ないことはたくさんあると思います。それが技術の発達に根ざした社会の変化だからです。

しかし、そのような変化を論じる前に、私たちは、普段何気なくつかっている言語表現ひとつとっても、実はそこまで深く考えず、適当に利用していることが多々あります。

今回、行ったこのような分析を、AIは実行できるのでしょうか?
AIに負けない教育を・・・と言う前に、学校現場ではちゃんと言葉を丁寧に扱うことを教えきっているのでしょうか? 甚だ疑問です。

ここまで付き合って読んでくださった方の中には、「大層な分析っぽく見せているけれど、そんなの当たり前じゃん」と思った方もおられると思います。また、付き合っていただくうちに「そういう解釈があったか」と思考が整理されたり深まったりめちゃくちゃになったりした人もいると思います。

私たちは、言語表現を、何か既ににある「思考」のような実体を描くために使うものと考えがちです。しかし、本当は言葉を繊細に使うことで、自分の「思考」が磨かれたり構築されたりしていくのです。だからこそ、自分なりに表現を工夫したり、それが伝わらずに傷ついたりする体験こそが、これからますます人間本来の生活の営みとして重視されてくるのではないでしょうか。

まず、一人一人が自分の日々の思考や判断を見直すための警句として、この言葉を噛み締めることからはじめてはいかがでしょうか。

『事実は小説よりも奇なり』



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