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鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)

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#教育

気になる物部の系譜

学校では教えてくれない、物部の系譜。大筋をまとめてみました。どうも物部の先祖が出雲進出?した時代は、神武天皇が東征のもっと前。その意味では、天皇家よりも歴史が古い、大和の「ええとこさん」と言えそうです。 饒速日命(神武東征以前) 宇麻志麻治命(神武1代) 彦湯支命(綏靖2代) 出雲心大臣命(孝昭5代) 大矢口宿禰命(孝霊7代) 大綜杵命(孝元8代、開化9代) 伊香色雄命(崇神10代) 物部十市根命(垂仁11代) 物部胆昨宿禰(仲哀14代) 物部五十琴宿禰(

厩戸王は母方が蘇我系譜。蘇我はどこから?

学校では蘇我血筋までは教えてくれない。そこで気になる蘇我系譜をまとめてみました。上から追っていってもらえれば「へえ」となるはずです。 上から順番に 孝元天皇(第8代) 彦太忍信命 屋主忍男武雄心命 竹内宿禰(景行天皇12〜仁徳天皇16に仕える) 蘇我石川宿禰(蘇我氏の祖)(大阪河内の石川に住う) 蘇我満智 蘇我韓子 蘇我高麗 蘇我稲目(宣化28欽明29)(近鉄大和八木駅から3キロ西の曽我神社の場所) ①→蘇我馬子(敏達30用明31崇峻32推古33)→蘇我

東西の天子②(東野治之氏)

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 少し違った記述が見られたので、東野治之氏の「ある本の中から」紹介していきたいと思います。 →ある本はこちらからご覧いただけます 本日気になった説 隋の煬帝が怒った理由は、全世界に1人しかいないはずの「天子」を、東方の野蛮人の国である倭の君主が名乗ったことである。 根拠「日出づる処」、「日没する処」は、『大智度論』という仏典から出た言葉である。隋の煬帝は熱心な仏教信者として、父の文帝と同じように菩薩戒を授かってい

東西の天子①(古田武彦氏)

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 今回は、目に止まった説があったので、古田武彦氏の「ある本の中から」記していきたいと思います。   →ある本はこちらからご覧いただけます 本日の説倭国が天子を名乗ったことの意味とは、亡びた中国南朝の天子の後継者を自称することで、隋を受け入れえないとする立場を表明したこと。 根拠(受け入れられない)倭国が正当の天子と信じてきた天子は消え去ったため、受け入れられないとした。倭国の宗主国の北朝はすでにない。卑弥呼以来

謎の九鬼文書+α(雑談)

偽書と世間的に言われている九鬼文書の研究をした佐治芳彦氏の著書です。内容が凄かったので、一部シェアしたいと思います。 本日の内容オオクニヌシは白人根国から黒人根国を経由(=併合)して葦原中津国に至り王位についた。『古事記』における「国譲り」は大災害後、全力をあげて国土再建中のオオクニヌシ王朝に対して、天照系集団が強大な軍事力で圧力をかけて、主権を委譲させたという史実を、世界的な事件から日本列島内の事件として小さくしたと佐治芳彦氏はいう。梅原猛氏によると、主権を委譲したオオク

聖徳太子が日本仏教の開祖になるまで(吉村武彦)

今日紹介するのは、吉村武彦氏の『聖徳太子』です。とても客観的に書かれた一冊だと思ったので、共有してみたいと思います。 学んでみたい方はこちらをどうぞ 本日の説『日本書紀』の段階では厩戸王子は仏教興隆上の歴史的人物ほどの評価はされていなかった。厩戸王子は傑出した仏教理解者であった。厩戸王子の死後、近親者から厩戸王子の神格化が進んでいった。初期の太子信仰が進展したきっかけは730年代(天平年間)だと考えられる。奈良時代後半から、多くの仏教説話集が編集された。『日本霊異記』『三

総持天皇?をご存知でしたか?(一条このみ)

「持統天皇非即位説」は、古田学派の方々の特徴的な論です。言い切ってくださった方が一条このみさんです。個人的に良いと思うところが多かったので、今回は『万葉の虹』をご紹介していきたいと思います。 教えてくれた書籍はこちら本日の説高市皇子=高市天皇=総持天皇は、持統天皇(天武天皇の皇后)へ、すり替えられていた。高市は「総持天皇」であり、持統天皇という天皇はいなかった。 総持天皇とも、高市天皇とも呼ばれている。 根拠(総持天皇について)(天武)死して子の総持立つ。『新唐書』日本

年代不明がわかるようになった(長浜浩明氏)

『日本書紀』の年代が不明、確定できない。だから、歴史教科書では教えません。でも、これで安心して古代史に取っつけるようになります。私の独自の視点からも見ていきます。 気になる本の情報はこちらから本日の説(抽出)BC70〜BC33(1)神武天皇。208〜241(10)崇神天皇。321〜350(13)成務天皇。411〜428(16)仁徳天皇。458〜480(21)雄略天皇。507〜534(26)継体天皇。593〜628(33)推古天皇。 根拠はるで一年あきで一年とカウントする「

歴史家の説と根拠をまとめてみた(関裕二氏)

日本書紀が藤原家のために編纂されたとする立場を取る。説の概要と根拠はいかに?  オススメ本日の説持統天皇と藤原不比等は、天武天皇が崩御したあと、天武王家を、静かなクーデターで乗っとった。『日本書紀』は天智天皇のために書かれ、同時に藤原氏に都合の良いように歴史書であった。『日本書紀』編纂の目的は、藤原氏の正統性と正当性を主張しつつ、天武の正体(蘇我系)を抹殺することであった。同時に、首皇子(聖武天皇=藤原の子)に、藤原の正統性を、教え込むためにも『日本書紀』を利用した。『日本

厩戸王関連の年表

まとめてみた。 574年(敏達天皇三年)厩戸王子誕生(数え1歳) 587年(用明天皇二年)七月、蘇我馬子が厩戸王子らを率いて物部守屋を滅ぼした(数え14歳) 592年(崇峻天皇五年)摂津国難波に四天王寺を建立した 593年(推古天皇元年)四月、厩戸王は皇太子になった。(数え20歳) 594年(推古天皇二年)二月、推古天皇と厩戸王子と蘇我馬子が仏教興隆の詔を下した。(数え21歳) 595年(推古天皇三年)五月、慧慈(高句麗の僧侶)が厩戸王子の師となった。(数え22歳

まだ神格化されていない

厩戸王はまだ大したことなかった?厩戸王は仏教興隆の開祖ほどの神格化される人物になっていきます。しかし、645年の段階でまだ歴史上の人物ほど威厳はなかったことがわかる記述がありました。 645年「大化の僧尼詔」欽明天皇十三年に百済聖明王が仏法伝来と蘇我稲目を支援したこと。 敏達天皇の時代、蘇我馬子が仏法を信奉したこと。 推古天皇の時代、蘇我馬子が仏像を作らせ、僧尼が恭敬したこと。 ないですねえ厩戸王について720年完成の『日本書紀』でもまあまあ称賛していたのに、ここに来

私が古代史を研究する理由(葬儀の風習から)

多種多様な価値観が混ざり合っています。 古代史を研究することで、今の自分と今の世界をもっと客観的に見ることができるようになります。どの思想や風習が、いつのどこから来た価値観なのか、ハッキリとわかるようになります。もちろん、観光に役立ちます笑。 私のいう古代史とは主に紀元前から700年あたりを指しています。 殯りという風習からそのむかし、殯宮(もがりのみや)というものを建設していました。遺体を安置して殯りの儀式を行う仮設の建物のこと。死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を棺

聖徳太子がバリバリ蘇我系のわけ

聖徳太子は蘇我系に生まれました。むかし当然OKとされていた、2020年の感覚からすればなんとなく「近親婚」をみながら、聖徳太子(厩戸王)の出自を見ていきましょう。 厩戸王の父上?用明天皇です。用明の両親はというと、欽明天皇と堅塩媛(姉)です。この堅塩媛とは、蘇我稲目の娘さんです。 厩戸王の母上は?穴穂部皇女です。穴穂部皇女というと、欽明天皇と小姉君(妹)との間に産まれた皇女です。この小姉君も、蘇我稲目の娘さんです。 厩戸王のお嫁さんは?刀自古郎女(とじこのいらつめ)です

東の天子 人がちがう?

隋の煬帝に送った、有名なフレーズ。しかし、そこにはちがう名前が書かれていた。 学校の歴史教科書は『隋書』倭国伝から大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者日く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝貢せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ』と。其の国書に日く、『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々』と。帝之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて日く、『蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ』と →西暦607年、倭国の