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総持天皇?をご存知でしたか?(一条このみ)

「持統天皇非即位説」は、古田学派の方々の特徴的な論です。言い切ってくださった方が一条このみさんです。個人的に良いと思うところが多かったので、今回は『万葉の虹』をご紹介していきたいと思います。

教えてくれた書籍はこちら

本日の説

高市皇子=高市天皇=総持天皇は、持統天皇(天武天皇の皇后)へ、すり替えられていた。高市は「総持天皇」であり、持統天皇という天皇はいなかった。

総持天皇とも、高市天皇とも呼ばれている。

根拠(総持天皇について)

(天武)死して子の総持立つ。『新唐書』日本伝

686年、天武天皇が崩御して、687年、天武天皇の子である「総持天皇」が即位したことが、中国の歴史書に書かれている。動かぬ証拠。

根拠(高市皇子について)

690年(持統天皇四年)、藤原京の建設が着工され、地鎮祭が行われた時、藤原京に勧進された神様の名前は「市杵島姫神」であり、九州宗方大社の神様である。しかし、まったく持統天皇では縁もゆかりもない。高市皇子の母親は、尼子娘(宗方の君徳善の娘)である。縁がしっかりある高市皇子でなければ神様を勧進してくることはできない。つまり、高市皇子が藤原京の建設を主導しなかったとすれば、地鎮祭で九州の宗方大社の神様を持ってくることの説明がつかない。そして、694年に藤原京に遷都した。


感想

予想外ですね。総持天皇がいたということに。実際に、持統天皇の即位は、持統天皇三年となっているので、元年即位がふつうなのに、三年目で即位したっていうヘンテコりんなことになっています。この説のおかげで、持統天皇の件はやはりおかしかったのかと検討がつきました。どれだけ偽っても、結局、藤原京造営の地鎮祭で矛盾が出ましたね。高市皇子が天皇じゃないと、宗方から神様持ってこれないってこと。本当に論理的にしっかりとしていますね。


高市皇子が総持天皇だった、さらなる証拠

見つけました。証拠を。持統天皇の次の天皇とされる文武天皇は697年に即位しました。これが特徴的すぎます。

696年(持統天皇十年)七月十日には、❗️高市皇子❗️が亡くなっため、翌697年(持統天皇十一年)二月十六日に皇太子になった。697年(文武天皇元年)八月一日、祖母・持統から譲位されて、文武天皇は即位した。、八月十七日、即位の詔を発布した。文武天皇は、当時15歳という先例のない若さだったため、持統が、初めて太上天皇になり、文武天皇の後見役についた。八月二十日、藤原朝臣宮子娘(藤原不比等の娘)を夫人とした。

なんと、高市皇子が亡くなったから文武天皇が即位したのです。「持統天皇」が亡くなったから文武天皇が即位したのではありません。おおおお。持統天皇非即位説は、あながち間違いではなさそうです。

伝統は固い

しかも、太上天皇の制度は、持統天皇まで先例がないわけで、先例のないことを実施するのは伝統という壁が立ちはだかります。ましてや、女帝となればよほどの強権でないかぎり伝統を犯すようなことはできません。つまり。総持天皇=高市皇子(天武天皇の子)が亡くなって、文武天皇が即位したのことは、あまりに自然な流れになります。ということは、

686年、天武天皇が亡くなって、687年、子の高市皇子が即位して総持天皇となり、696年総持天皇が亡くなって、697年、文武が即位した。ただし、文武天皇が若かったために持統が後見役についた(藤原不比等もセットで)

とすれば自然な流れでしょう。

関裕二説のクーデターは?(ここで否定します)

持統天皇が持統天皇三年に即位したとされる前年が関祐二ではクーデターとなっています。しかし、高市皇子が亡くなってから、文武天皇即位したというのがあまりに自然な流れになるので、高市皇子は総持天皇として即位していたとなる。そうなると、そもそもクーデターはなかった、持統天皇も即位もしていないとなります。どちらが説得力あるかは、古田学派に軍配ですね。

(初)藤原からついに嫁が天皇家に

初めて藤原家の娘が、天皇家に嫁に嫁ぎました。つまり、天皇の外戚になったのです。『続日本紀』には、

八月二十日、藤原朝臣宮子娘(藤原不比等の娘)を夫人とした

と出てきます。三人の嫁をもらい、一番手が藤原不比等の娘さんです。

藤原天下は697年文武天皇即位とともに

ということは、持統と藤原不比等のコンビは697年の文武天皇即位以降になって勢力を振るったことがわかります。持統天皇が後見役で、文武天皇の妃が藤原不比等の娘さんです。文武天皇は、即位時数え15歳でした。答えは出ましたね。

持統は総持天皇の時代は静かにしていた

総持天皇(高市皇子)は天武天皇の子ではありますが、持統とは別の嫁との間に生まれた子どもです。宮中にたくさん嫁方がいるわけで、持統はそのうちの1人に過ぎません。違う嫁から生まれた子どもが天皇となっては、黙っているしかありません。

藤原不比等が昇進するのをお膳立てした持統

藤原不比等が持統天皇三年に法律を司る役職につきました。そもそも、藤原不比等は出自が低いので、上に上がれないはずです。では、なにかいい評判がないかぎり藤原不比等は上級役職につけません。つまり、藤原不比等のいい噂をこっそり流した人間がいたということになります。親同士が盟友だった、藤原不比等(→中臣鎌足)と持統(→天智天皇)は仲が良くて当然です。つまり、持統が、総持天皇時代に、藤原不比等のいい噂をこっそり流して藤原不比等を法律の官職に就かせることができた。

ついに藤原不比等が最上位に

そして、695年に藤原京をの12の門を塞いだそうです。そのため翌696年、総持天皇は憤死しました。(大雑把に著書に書いてありますが大化年号の盗用の件でしょう他の古田学の方の分もぜひご覧ください)。文武天皇即位になって、藤原不比等は、持統が後見役を任されるようにしました。後見役が決定した暁に、持統が、藤原不比等の娘を文武天皇に嫁がせ第一皇姫とした。文武天皇は数え15歳であまりに若かったため、政権運営はかなり持統と藤原不比等の手に握られました。697年のことです。700年の倭国併合後、不比等は701年の大宝律令で一気に四階級上がり、正三位につきましたとさ。

参考文献

引用元が書かれていないものはすべて↑上記の参考文献から引用しております。なお、文意を要約、修正、取捨、選択、加筆を行なっています。著者の趣旨と違えている場合があります。その場合ご了承ください。著者が、本のなかで他者の理論を引用していたりしています。そのため、本文の最初に、誰と誰の説なのかを書かせていただいております。私の自説の場合はわかるように明示します。


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