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「みんな」と「私」 酒井順子さん連載コラム『あっち、こっち、どっち?』①

 『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「みんな」と「私」です。

タイトル 「みんな」と「私」


 子どもの頃、流行りの玩具やら服やらを親にねだる時、
「みんな持ってるんだから、買ってー!」
 と言うことが、しばしばありました。

 その時、親から返ってくるのは、
「みんなはみんな、自分は自分!」
 という台詞、もしくは、
「みんなって、どれくらい? クラス全員、それを持っているってわけ?」
 という台詞であり、「みんなが持っているから買ってくれ」という戦法は、あまりうまくいかなかったことを覚えています。

 しかし「みんなが持っているから買ってくれ」というのは、子どもにとっては心の底からの叫びでした。確かに、自分が欲しいものを持っている「みんな」の人数をかぞえてみると、せいぜい二・三人程度だったりするのです。が、仲間うちで同じものを二人以上が持っていると、途端にそれは圧倒的多数に思われ、持っていないのは自分だけになるではないか、という焦りが生じてしまった。

 「みんな」の中に入っていれば、安心。だから常に「みんな」の一員でありたい。……という強固な願望を、我々は持っています。

「みんなちがって、みんないい」
 という金子みすゞの詩をいくら読もうと、SMAPの「世界に一つだけの花」をいくら聞こうと、「私は私」と一人異質であり続けるには、相当の根性が必要。頑張って孤高の存在になってみても、緊張の糸が切れて「みんな」の側に戻った時、ホッとしている自分に気づくこともあるのでした。
 
 今は世界中で、多様性の重要さが語られています。それはまさに、「みんなちがって、みんないい」の精神。人種やら性的嗜好などで人を分け隔てせず、「世の中には色々な人がいる」ということを受け止めよう、という動きです。
 
 日本でも、多様性を理解しようという動きは、昔よりずっと進んできました。が、一方で自分は多数派だと思っている人達、すなわち「みんな」の側では、「みんなと同じでなくてはならない」という意識が昔と同様に、否、昔以上に強まっている気がしてなりません。
 
 若者の間で人気の歌を聞くと、「自分らしく」という言葉が頻用されています。ここまで若者達が「自分らしさ」を希求する背景には、若者達の多くが「私は、自分らしく生きていない」と思っている、という事実がありましょう。日本人が元々持つ“和を尊ぶ心”に、SNSによる相互監視が加わったことによって、真綿で首を締められているかのような同調圧力を、彼等は常に感じ続けているのではないか。
 
 近所の高校では、私服の学校だというのに、女子生徒は全員、チェックのスカートにハイソックスにブレザーもしくはVネックセーターという、同じような格好で通学しています。聞けば、
「一人で違う格好なんて、怖くてできない」
 のだそう。それはその学校のみならず、「私服の学校あるある」の現象ということで、多様性云々と言われながら、好きな服すら学校に着ていくことができないとは、これいかに。

 ……と思いつつ、私自身もまた、「みんな」の軛(くびき)から自由になってはいないのでした。「みんなが持っているから買ってくれ」と親に物をねだった子供時代の私の心にあったのは、物欲ではなく保身の欲求。あの頃の欲求は今も、私の中に残り続けているのですから。

【築地本願寺新報 2020年4月号より転載】

酒井順子
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経て、エッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『無恥の恥』(文藝春秋)『うまれることば、しぬことば』(集英社)など。

【上記記事は、築地本願寺新報に掲載された記事を転載しています。本誌の記事はウェブにてご覧いただけます】