大人の嘘とは化粧のようなもの
子どもの頃、誰しも大人から厳しく言われるのは、
「嘘をついてはいけません」
ということです。嘘をつくのは悪い人。正直に生きていかなくてはならないのだ、と。
子どもの頃、ピアノが大嫌いだった私は、ピアノの先生のところへ行くために家を出たもののどうしても行きたくなくなり、公衆電話(当時)から親のフリをして、
「熱が出たので休みます」
と先生に電話して、レッスンをサボったことがあります。時間を潰して家に戻ってくると、当然のことながら親に嘘がばれていて激しく叱責されたのですが、そのような事を子どもにさせないように、
「嘘をついてはいけません」
と、子どもは厳しく教えられるのでしょう。
しかし大人になってからふと気がつくのは、いつの間にか生活が嘘まみれになっている、ということです。大人になればなるほど、誰もが本当のことを言わなくなってきますし、それを誰も指摘しなくなってくるのです。
たとえば、誰かの家で出された手作りケーキがあまり美味しくなかったとしても、
「今ひとつですね」
と言う大人はいません。ほとんどの人は、
「美味しいですね、お上手です!」
などと言うのではないか。大人にとって、嘘はほとんど礼儀のようなものであり、嘘という礼儀がなくなると、世の中はたいそうギスギスしてしまうことを知っているのです。
同じように、楽しくないのに「楽しい」と言ったり、疲れているのに「大丈夫」と言ったりと、大人は嘘と共に生活しています。その点、子どもは正直なのであり、「まずい」「つまらない」「疲れた」などと、感じたままにのびのびと発言をするもの。嘘の総量で言ったら、子どもよりも大人の方がずっと多いのであり、大人は本来、子どもに「嘘をついてはいけません」などとは言えないのかもしれません。
嘘をつくのは「悪い子」ですが、大人の場合は、善人であればあるほど、嘘の量が多いものです。良い人だからこそ、相手を傷つけないために口に合わないケーキが出てきても「美味しい」と言い、それどころか作った人を喜ばせるために、おかわりまでして食べたりする。たとえ悪い感情を持ったとしてもそれをそのまま表に出すことはしないのが、善人なのです。
もちろん他人を騙すための嘘と、礼儀としての嘘や善なる嘘は、同じではありません。大人がつかざるを得ない嘘は、その場の状況を和ませたいとか、良い未来がやってくるようにといった願いが込められた嘘。大人にとって「本当」のことを言うのはあまりに残酷な結果をもたらすからこそ、嘘でデコレーションせずにはいられないのでしょう。
そういえば化粧というものも一種の嘘であることよ、と私は化粧をする時に思います。シミを隠すために塗る化粧品も、唇に色をつける化粧品も、真実の顔を隠すための道具。しかし我々は、真実の顔のままでいるよりも、化粧をした嘘の顔でいる方が、元気になることができるのです。
大人の嘘とはおそらく、化粧のようなもの。シミがあるのも唇の色がくすんでいるのも本当は知っているけれど、今だけは違う色に塗っておこう、という気持ちが生み出す結果なのであり、それはまだ肌がピチピチの子どもにとっては、全く必要のないものなのでしょう。
酒井 順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966 年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003 年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『うまれることば、しぬことば』(集英社)など。
※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。