善人と悪人を単純に分けることはできない
人間ドックに行ってきました。半日ほどのドックの最後には、医師から簡単な結果説明があるのですが、ここで毎年のように言われるのは、
「コレステロールの値が、少し高いですね」
ということです。
栄養についてはまあまあ気をつけてはいるのですが、さほど下がることはないコレステロール値。
「でも善玉の数値が高いので、大した問題はないでしょう」
とも言われ、「そうなんだ」と思うのも毎年のこと。
コレステロールと言うと「悪」というイメージがありますが、悪玉だけでなく善玉もいる、という話を聞くと、ちょっと可愛らしい感じがするものです。善玉、頑張ってくれや……と思いながら、人間ドックを終えたのでした。
善玉と悪玉という言葉は、そもそも江戸時代の戯作者であり浮世絵師でもあった山東京伝が、黄表紙の中で使ったものなのだそう。「善」と書かれた白い玉が顔になっている善玉と、同じく「悪」と書かれた玉が顔になっている悪玉が、廓で遊ぶ男の両袖を引き合う、という絵が、大ウケとなったのです。
人の心には善玉と悪玉が両方いるのであり、両者が争って、勝った方に流れていく。……ということなのですが、この感覚はおおいに理解できるものです。自分の心の中でもいつも、善玉と悪玉がせめぎ合っているのですから。
昔の時代劇では、悪人は最初から最後まで悪人で、善人はどんな時も善人として描かれていました。歌舞伎でも、主人公をいじめる悪者は一目で悪人とわかる化粧をしているのに対して、善人である主人公の顔は真っ白に塗られ、心の白さを表すかのよう。
しかし人は、それほど単純な存在ではありません。悪に手を染めてしまった人も、別の瞬間には清い心を見せることがある。また、
「あの人は、本当にいい人」
と皆に言われる人が、ふとした瞬間に悪事をはたらくこともあるのです。心の中では善と悪とが入り混じっているのであり、悪い心だけ、もしくは善なる心だけを持っている人というのは、いないのではないか。
山東京伝はその感じを、善玉と悪玉として表現したのでしょう。江戸時代には「悪玉踊り」というものも流行したのだそうで、今でも歌舞伎の「三社祭」という演目では、その踊りを見ることができます。顔全体が「善」と「悪」の玉になっているシュールな姿の善玉と悪玉が繰り広げる軽快かつユーモラスな踊りからは、「悪玉は誰の心にもいるもの」という意識を感じるのでした。
最近のドラマや映画では、昔のように善人と悪人がはっきり分かれておらず、誰の心の中にも善悪がまだらに存在していることを表現するケースが多いように思います。善人と悪人を単純に分けることはできないという意識が強まっている今は、勧善懲悪の物語が成立しづらい世。勧善懲悪の物語というのは、一種のファンタジーだったと言うこともできましょう。
悪玉を絶滅させるのは、なかなか難しいものです。が、悪玉がいても善玉が多ければまあいいか、ということになるのは、心の中も血液の中も同じかも。せめて善玉を増やすようにしたいものよ、と思っているのでした。
酒井 順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『消費される階級』(集英社ノンフィクション)
※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。