坂本龍一さんからバトンを受けて
■明治神宮を守ること。その決意
■坂本龍一さんの遺言
坂本さんの記事を書かせて頂いて、教授が神宮外苑再開発に対して疑義を唱えられた事の意味につきましてと、やっと向かい合う事が出来るようになりました。
あの坂本龍一さんが最後の力を振り絞って訴えられた事が、
いわば遺言にもあたる訴えが、
神宮外苑を壊すな、であったことの意味と、真剣に向かい合い、一つ理解に至りました。
結論から、先に申し上げます。
上 、本日付弊社IRを此方にも掲載させて頂きます。
音楽活動だけではなく、社会活動など全てのアクションを含めて坂本龍一というアートであるという事ときちんと向かい合ったとき、この問題の解決というものが、例えば教授の作になる全ての音楽と同等の意味・価値があるのだと理解するのは難しくはなく、この流れから、自分がこの問題と関わることになんら不自然もなく、むしろ関わることが自然であるということが、すとんと腑に落ちたのです。
この問題の解決は全ての問題解決へと地続きであると、わかりました。
■明治神宮の秘密、真理の隠喩。
■東京こそ【都市と自然の聖地】であるわけ
東京の自然を守る、という一点のみを目標にこの活動に取り組むのですが、なぜ再開発についての見直しが必要なのか、活動の意味について、多角的に眺めることで、より神宮外苑の自然を守る(整える事も含め)ことの価値を明らかにしたいと思います。
この神宮外苑再開発問題は、見直しを求める方にしてもその視点が「緑を守れ」という点に限定されているように思われるのですが、問題はそこだけではありません。
では、木さえ切らなければ、再開発はOKなのでしょうか。
いいえ。全然違います。それを教授が思い起こさせて下さいました。
外苑が話題になっているのに(TVとラジオはよく存じませんが)その由縁と歴史にまったく触れられていないのが気になります。問題は、日本という国の根幹に関わってきます。
教授の仰った「先人が100年をかけて守り育ててきた」というのは我が国古来よりの思想そのものであり、東京こそ「都市と自然の聖地」だと強く訴えた訳について、「あおいのきせきの」知見は、つまびらかにできました。
それはそうでしょう。
明治神宮には、「あおいのきせき」の知見が隠されていたからです。
相反するなにか(例えば「都市」と「自然」)が共存する為の知恵によって造られた、まさに「宝の箱」が明治神宮なのです。
再開発見直しにご賛同頂ける方も、この問題を深掘りいたしましたので、ご理解の上この問題の解決にご尽力頂ききたく思う次第です。
いずれ坂本龍一さんが、このことを最後に強く訴えていらしたその心持ちに至ることができれば幸いである、と思っております。
■甘い幸せな生活【弊社と神宮外苑とのご縁】
1996年に書き上がりました小説「甘い幸せな生活」におきまして、神宮外苑は大変重要な場所として登場いたします。いわば物語の出発点でもあり、お話を牽引する力を頂いた、著者といたしまして、ご縁のある、とても思い入の深い場所になります。
またその前年の1995年に書かれた「パニックボタン」にも、神宮外苑の銀杏並木が舞台として登場いたします。
これらの作品が「あおいのきせき」の知見へ一続きであることを思えば、或いは、神宮外苑という素晴らしく気の晴れたすてきな場所が、この東京という都市にあるということの意味が、より一層深く理解出来るという訳になります。
是非、お読み頂きたく存じます。
そうして「あおいのきせき」が書かれた(下ろされた)場所は、他でもない「神宮前」すなわち「明治神宮」の前の原宿に於いてでありました。
(すぐ裏手或いは近所には隠田神社もございました)
■明治神宮という聖地【文化人類学的な意味づけ】
明治神宮のなりたちにつきましては、是非、お知りおき下さい。
こちらは、我が国の、明治以降の国体と不可分の大事な場所であることを是非、肝に銘じておいて頂きたく思います。
●誤解を招くような、或いは誤解されてしまった、手垢のついた「言葉」が登場いたしますが、これは、純粋に文化的、歴史的な認識のお話をしております。一方では学術的な関心と、他方では唯の日本人がとても大事にしているいろいろなことを思い出すために必要なことを記事にしております。端的に申しますと、どこの宗教(団体)や、政治活動ともまったく縁の無いお話です。むしろそのような活動は神宮外苑の問題解決をより困難にするだけなので、ご関心のある方は是非ご注意の程宜しくお願い申し上げます。これは徹底した「個」として取り組むべきものであって、よくわからない「集団」に回収されてはいけないのです●
明治神宮の思想・哲学につきましては、中沢新一さんのご本に詳しいので是非お読みください。
この知見(見方)を得る事で、見えなかった、知らなかった、明治神宮の価値が理解でき、すると再開発の問題がより一層身近なものになります。価値がわかればそれが無謀な破壊でしかないと理解できます。(逆から申しますと、破壊というものは「価値のわからない」事が理由でなされる蛮行です)
神宮外苑は公園のようで (公園なのですが) 公園ではありません。
明治神宮の内苑と不可分な、一対の聖地なのです。
■明治神宮の隠された意味を探る【あおいのきせきの知見より】
地図をご覧になってもおわかり頂けますが、明治神宮は内苑と外苑でひとつがいです。
A=A+非A+Aと非Aの境界 (あおいのきせきの知見=存在の方程式)
で申せば、
内苑がA
外苑が非Aにあたります。
つまり、明治神宮の奥には、「あおいのきせき」の知見が潜んでいたのです。もし、「存在の方程式」を地上に描いたら、きれいに内苑と外苑という形で表現できるとおわかりになると思います。
深い森に覆われた(この美しい森は寄進により全国より集められた10万の木々を植えた人工の自然です)内苑は、聖であり静であります。
日本。森に隠された日本的信仰。「お社」参拝の列。
一方開かれた外苑は非聖(俗を含みますがイコールではありません)であり動であります。故に、運動競技場が集めらた(集金装置になって)います。
西洋。明らかにされた聖徳。シンメトリーに配置される「絵画館」てんでに人々の憩う場所。
そして、それぞれの対比 (内苑・外苑) の中には、意味の逆転された「仕組み」が上手に組み込まれています。聖の中に俗。非聖の中の聖。
それぞれが何か、すぐに思いつかれると思います。
二つの場所が、入れ子の関係を伴って綺麗に対になり、対義的役割を分けて担う事で、東京という都市を、人間の行動原理、存在の方程式に則って、謂わば活性化させているのです。人と自然を巡る「源エネルギー{「物質と非物質の境界」よりの「何か (意味)」}がスムーズに流れることが大事なのです。
これが
内苑と外苑の境界
すなわち明治神宮を抱擁する意味そのもの、となります。
また、別の言い方をしますと、対偶の関係からもれた「(解放系である) 部分」ということになります。
つまり、
プリゴジンのいう所の「散逸構造」をもつ事により、「ネゲントロピー」が保たれるのです。
■デリダの差延と量子物理学的対称性の破れ
この事をより詳しく申し上げますと、
内苑 = 聖、と、外苑 = 俗それぞれに、非聖と非俗、が付随するわけですが、意味的に
非聖⊃俗
非俗⊃聖
の関係でありますから、
非聖=俗
非俗=聖
とはならないわけです。
そこをむりくり聖と俗を現世に (例えば建築物として) 現前させても、完全な対義関係(シンメトリー)にはなりません。
聖からこぼれ落ちた非俗の部分、
俗からこぼれ落ちた非聖の部分。
つまりレンマ的思考による
聖かつ俗
非聖かつ非俗
ここの意味の部分をうまく扱うことが出来た事による効果。
(要するに、聖と俗の境界の部分)
それがみごとに「見える」場所が明治神宮なのです。
これこそが、物理学が探している「対称性の破れ」に相当する現象で、これが万物が動である根拠となります。
対義・対偶関係から次々に「ずれ」ていくことで、生まれる新しい「意味」
そして「意味(粒子)」「意味(粒子)」と動き続けます。
磁石コイル発電(扇風機の仕組み) は、この仕組みの「アナロジー」として適切でしょう。
デリダさんに指摘された差延とは、そのま物理で言われている対称性の破れと同じ原理 (仕組み) であると理解することが出来るのでした。
(ちなみにデリダの有名な「 バッテン 」と言う概念は、彼の哲学の中で、存在の方程式に表される原理が煩わしくお感じになった氏のアイデアです。要するに、Aを考える際、即ちAでないナニモノかが引きずられてくることになり、A とすることで、思考を整理しようとした痕跡であろうと理解可能になります)
意味 (エネルギー・力) = 情報 がずれる (差延する) たびに新しい情報が生まれてそれが永遠に続く。
それこそが、つまり、宇宙のダイナミズムです。
聖地とは、ただの飾り(imitation)ではありません。「現世御利益」がしっかりと根付いている事に加えて、この界隈(内外苑の周縁境界地区を合わせて)は万人に開かれています。要するに、御利益を得る為に特定の信仰をもつ必要が全くないという、誠にありがたい「仕組み」となっているのです。
ここは、本来の日本の信仰が、わかりやすく、つまり当たり前の様に気づかずに根付いている象徴的な場所です。
つまり、御利益→信仰という、宗教本来のありようが厳然と機能しているのです。(信仰というのはお参りという行為に限定されません。或いはそれすら伴わない場合すらあり得ます。「とある」仕組みの有用であることを非言語・言語に拠らず、理解して、保持に努めることが「信仰の本来」なのです)
これ、或いはここ、は、日本という思想哲学の具現としての場なのであります。それが、人の心や体にどのような力を及ぼすのかは、訪れた方ならご存じでしょう。
(まだの方は是非。素敵な場所でおおくのファンがいらっしゃいます)これらの出来事はスピリチュアルで語られることも多く、また、そういった方面に回収されがちなのですが、その原理が曖昧であることにつけ込んだインチキも多く要注意です。「あおいのきせき」は最終的にそのことの科学的説明に至るわけですが、明治神宮はそれをあらかじめ体験として可能せしめている科学装置でもあったわけです。循環する健全な経済活動に、人々の生活に、それらが直結している所にこそ意味があります。ただ気がいいからとか、言霊がどうたらこうたらとか、お題目を唱えたら、「なんかある」「ありそう」と言った漠然とした話ではなく、聖地には理に則った仕組みがあるから御利益もあるのです。言語化して万人に共有可能であることが、本来の宗教(神宮外苑は無論宗教施設です)であり、閉じた集団でしか共有できない仕組みに「意味はありません。」要するに「普遍性」の有無です。(「存在の方程式」という法則は、非物質・非波動である存在(意識)を明らかにしました。これが共有可能な普遍です。)
もっとわかりやすく申し上げましょう。
内苑は心を落ち着かせる仕組みになっています。神社にお参りをするということは、知らずひとを厳かな心持ちにします。
外苑はスポーツの場です。観戦すると、心は解放されます。喜怒哀楽の場がそこにはそろっています。(その中に「聖徳記念絵画館」という静的な「装置」が仕組まれていて、しかし、中に展開されている物語は、明治の大帝の一生という「動」なのです)
人の心をダイナミックに操作する仕組みから説明す(眺め)れば、オカルト的言説の紛れ込む余地は無いのです。
日本の所謂近代化以降、先人たちの知恵と努力は様々な物を作り出してきました。その中でも明治神宮という「仕組み」はその最たる成功例でもあります。あまりに生活に馴染んでなかなか気付きません。
気づかない事に漬け込んで、この深遠なる先人たちの知恵と努力の結晶を、それを知らぬ者の浅はかな(金融資本主義における経済効果という名目に隠した)我欲で再開発と言うニセの大義をまとった緑と装置の破壊に至ることは、断じて許すわけにはいかないのです。
それは、培った私たちの知識と知恵と信仰の破壊という愚劣そのものです。
こういった話を形骸化した宗教の話に持ち込まない事が大事です。宗教を社会問題として語る場合、無を実存として考えていませんよね。
無 = 無 + 非無 + 無と非無の境界(意識)
上の哲学への翻訳の詳細は以下の動画にお任せいたします。東先生、ヨロシク( ・_・)ノコーラの話は興味深いですね)))
■経済的価値という名の盲目【これから訪れる本来の経済に向けて】
【都市と自然との共存】という言葉もすっかり手垢にまみれてしまいました。まるで金を稼ぐことの形骸化した大義名分と化してしまった感があります。それを本来の意味に取り戻す絶好の機会です。
相反するものの共存という課題解決の先進国として我が国がシンボルとなるのに、神宮の問題に取り組むことは最適です。
金を稼ぐという短期に偏った短絡的な利権の問題を、哲学で解決してみせることで、これからの社会がどうあるべきか、どうあることができるのか、具体的に世界に向けてお見せする。
すると、これこそ原田武夫氏の主張する、そして弊社の賛同してやまない
PaxJaponica
そのものではないか、と、気付くのです。
勿論、事業主体の思惑も理解はできます。しかし、地主さんであっても、本来ここは「おくに」のものだった筈です。勝手にいじって良い訳はありません。そうして、明治神宮は昔、当時の日本人がみんなで力をあわせて造った公共の施設なのです。
そうやって造り上げた、公平な御利益をもたらす「装置」を、今ですら限られた既得権者(法人を含め)だけで、ある意味不当に占有しているのに、あまつさえ、その範囲を拡大しようとは、言葉通り「神に対する冒涜」以外の何者でもない、と、宗教的言説に則れば、申すことが可能です。
「あおいのきせき」の知見から、長期的に採算の取れる解決が論理的に導き出されることがわかります。(そうは言っても「より金を稼ぐことが善である、資本主義社会ですからね」問題の解決です。)
この問題に取り組むことにつきましては、それが本当に必要なら水まきでも草刈りでもする覚悟に至っております。(まず歩けるようにならないといけないのですが)
外苑の再開発の一件が、この国と本質に関わる重要な事であると、ようやくわかりました。
■教授が言いたかったであろうこと、信じていたこと
社会問題をすぐにイデオロギーに還元して否定する輩が多いのは嘆かわしい事であります。
大抵のイデオロギーは金稼ぎの方便でありますから仕方ないにしても、教授の立ち位置はまったく別です。なんらの方便でもありません。むしろ、教授のご発言をイデオロギーに閉じ込めて非難することが、金稼ぎの方便であることが多い。或いは、その方便に取り込まれてしまった愚か者の弁か。
素直に考えて、このような再開発を無批判に擁護するのは裨益関係者しかありませんよね。
或いは、教授の追悼を真摯に行うような方にしても、教授のこういった発言を無視してしまう傾向にあるようです。僕がそうでした。
しかし、両者は一体で不可分です。
それこそが明治神宮が示している思想なのです。
対義的存在が、絶対的矛盾を乗り越えて共存するための、古来からの日本固有の思想が具現化したものが明治神宮なのです。
「人工」と「自然 (が人工という入れ子構造) 」が美しく調和したこの装置は都市のモデルとしてだけではなく、いまもって解決をみない「経済」と「自然環境」といった問題を解く鍵そのものでもあるのです。
そうして、大きな意味で対義的存在が、同一の「何か」の別の側面だとわかった今、明治神宮の外苑の破壊は内苑の破壊を、そして、日本が日本である事の大切な意味までも破壊してしまう事が、いまなら、理解ができるのです。
つまり、未抽象化である「あおいのきせき」の知見「そのもの」の破壊です。
(まさかそれが目的ではありませんよね)
そしてその「何か」とは、「源言葉(すべての源・すべて)=本質」である。と、私たちは既に知っているのです。
このようにして、教授が追い求めた音楽の本質こそ、本来の明治神宮が目指していたその先とまったく同じだと言うことも「あおいのきせき」の知見から理解ができるようになりました。坂本龍一さんは、その事について詳細には言語化されていなかったとしても、しっかりと理解をされ行動されていたのだと思います。万において。
それを先取りして、理解することが大事なのです。
教授が明治神宮ついて言及なさることの自然であることは、このアルバムジャケットを眺めれば、そうして、アルバムを順に聞いていけば、これもまた自然に腑に落ちますよね。(内苑と外苑、その境界です)
氏の最後の訴えの重要さを理解すると、また、坂本龍一さんのなんと優れたアーティストであったのか思い知ることになり、あわせて教授の死の重さという物の計り知れなさに途方に暮れてしまうのです。
是非、この活動に、ご自身の意志で、ご参加ください。
この記事を書かせて頂いた後すぐのニュースです。 】●○●【