書評『ホモ・ルーデンス』
小島秀夫監督が『メタルギアソリッドV』を完成させたあと、KONAMIを退社して、新生小島プロダクションとして独立したときに、“ルーデンスくん”というキャラをマスコットにして、エントランスに飾った。
ルーデンスくんは、もちろんホイジンガの『ホモ・ルーデンス』くんである。
ホモ・ルーデンスは“遊ぶ人”を意味し、ホイジンガは人間にとって“遊び”というものが文化よりも古く、遊びこそが文化を形作る因子なのだと論じる。
遊びを創造するゲームクリエイターにとっては、とりわけ魅力的な考えだろうし、遊ぶことが好きな僕たちにとってもそれはそうだ。
遊ぶことにはどんな意味があるのか、知りたくないはずがないではないか。
ということで、遊び研究の古典とも言える本書を手に取ったのです。
レビュー
先ほども書きましたが、ホイジンガのいう“遊び”は文化の発生よりも古く、根源的なものです。文化は遊びのなかから発生してくるというのが、本書の主な内容です。
もっと厳密に言えば、遊びという盆のうえに、文化という器が乗っかっていくイメージだと、僕は考えています。
決して、遊びが文化へと“変化する”のでもなければ、遊びから文化が“独立して”発生するのでもありません。
文化はその基盤に、必ず遊びの因子を含んでおり、遊びは人間の本性の一部として存在している。
ホイジンガは、内容の大半を費やして、このことを証明する文献や資料を列挙していく。頑ななまでに主張する。
内容は、詩や芸術、文学から哲学、スポーツ、果ては裁判や戦争にまで、遊びの因子を見出していく。というか人間の営む全ての文化の始まりに、遊びの因子があるということをホイジンガは言いたいのだ。
ホイジンガの遊びの定義は以下の通りで
である。この5つの要素を含んでいれば、ホイジンガ的、本質的な遊びということになる。そして遊びは、スポーツや盤上遊戯のようなわかりやすいものに限らず、裁判や戦争、哲学、音楽、あらゆる文化に当てはめられる。
①非日常の行為であること。これは遊びのなかの“演じる”という要素に深く結びつきます。ごっこ遊びや宗教の祭祀、儀式、演劇など、ロールプレイを本質とするのが本来の遊びのようです。日常の思考から離れ、非日常の遊びの思考に切り替わるのが重要な点です。
②誰にも強制されない自由な行いであること。例えば、ホイジンガが後半で述べるのですが、プロのスポーツ選手というものには、遊びの要素がない。遊びの最も本質的な要素の一つである、伸びやかで自由な精神の活動がないからだ。
遊びがプロ化すると、文化を形成するような生き生きとした要素が絶滅してしまうのだという。
これは辛辣だ。eスポーツというものが出てきたばっかりだが、文化の退廃でしかないのだろうか。
③利益を求めての行いではないこと。そもそも遊びというものは、非理性的な思考の形態であり、生態学的に生存に有利になる機能は全くない。オオカミがじゃれて遊ぶのに、高度な生存のためのメカニズムはなんら含まれていない。
ただ遊びたいから遊ぶのだ!
ではなぜ遊びは遊ばれるのかというと、例えば“遊”という漢字に、その理由をみることができる。
遊という字は、氏族の旗(氏族の霊、氏族神の徴)をともなった人間が、その旗を掲げて、出行するという意味がある。方=旗で、子=氏族、しんにゅう=出行を意味するとか。
遊ぶという行為、遊ぶという思考の本質は、神との戯れ、神秘への接近であるのだ。さらに遊びは“美”へ結びつこうとする本質も持っている。それは、詩や芸術、音楽や祭祀に広く認められることで、決して世俗的な利益を目的としない行為なのだ。
④時間と場所が限定された、厳密なルールのもとで行われること。遊びには厳密なルールが必要だ。限られた時間のなかで、攻守の交代や静と動の変調、始めと終わりがあり、一定の順序で進行し、反復して繰り返される。
さらにテニスコートや野球のグラウンド、チェス盤から儀式の魔法陣にいたるまで、遊びのための特別な空間も必要だ。
ホイジンガはこうした、遊びの厳しいルール性を、“秩序を産み出そうとする衝動”なのだと論じる。凄い。
先ほど書いた、“美”と結びつこうとする衝動もこれと同じで、遊びというものは、絶えず“リズムとハーモニー”の創造に向かっているのだという。
根源的な意味での遊びとは、自然のリズムとハーモニーに遊び、ただ私たちを晴れやかな感激のなかに連れていくものなのだ。そしてそのなかから、あらゆる文化が創始されていくのだ。
しかし、こうした秩序、リズムとハーモニー、ルールといったものは、遊び破りの出現で、ぶち壊されることがある。
遊び破りとは、例えばイカサマ師、チート使いとは違う。彼らは迷惑ではあっても、あくまで遊びのルールを認めている。真に遊び破りと言えるのは、途中で遊びを投げ出す者や、唐突なメンテナンスでプレイヤーをログアウトさせる運営、遊びを興醒めにしてしまう存在だ。
①の定義にあったように、遊びとは非日常の体験である。その非日常の幻想に、冷や水を浴びせる存在が、遊び破りです。遊んでいる相手をしらけさせて、がっかりさせるのだ。
遊びがまじめ化していく今の社会には、大勢の遊び破りが存在する。ポリコレに対する違和感は、それが遊び破りだからかもしれない。
⑤ある種のクラブ性、秘密の集まりを好むこと。とはいえ、遊び破りのなかには、背教者、異端者、革新者などがおり、そこから新たな遊びが創出されることもある。そうした者たちの結束力は強く、そこから共同体が生まれていくことも。
遊びには、グループを組んだり、秘密の集まりをもったりする傾向があるのだ。ホイジンガは頭と帽子の関係だと言っていた。おしゃれ。
集団が形成されれば、遊びの最も根源的な表現形ともいうべき、対立的性格が浮かび上がってくる。人間のなかには何か争いを好む性格があるのは確かだが、それは遡ると遊びの相であるらしい。
大半の遊びが、対立形式の遊び、競技的性格の遊びだと思います。スポーツ、チェス、ギャンブルなど。この流れでいうと裁判や戦争が遊びであることも、ちょっとは納得できないでしょうか?
対立形式、競技形式の遊びは、文化を推進させるのに不可欠な要素なのです。
こうした遊びは、報酬が課せられることもあるが、決して報酬それ自体が目当てで遊ぶのではない。競技の本質は、ただ勝利することにある。あらゆる競技の遊びは、名誉の戦いである。自分が他人よりも優れているということを証明するためだけに、自慢するためだけに行われる。
ホイジンガは“ポトラッチ”というインディアンの祝祭を紹介し、もっとも明快に競技の遊びの本質を解き明かす。
ポトラッチは、異なる部族どうしの贈り物合戦で、ある一方の部族が、盛大な贈り物を相手に押し付ける。それを受け取った別の部族は、後日、贈り物を倍返しにしなければいけない。さもなくば彼は面目を失い、権力の地位から落とされる、といったものだ。これが競技の遊びの本質、気前の良さを示す名誉の戦いなのだ。
“武士道”や“騎士道”の発生も遊びにあり、戦国武将などは、やはり武勲や名誉のために戦う。
ちょっと前に『グリーン・ナイト』という映画を見たのですが、面白さをいまいち把握できず記事にできなかったのですが、『ホモ・ルーデンス』のなかにそのときの謎解きがあり、原作である『サー・ガウェインと緑の騎士』の話が出てくる。これは“ポトラッチ”と同じで、気前よく自らの首を差し出すことで、名誉を勝ち取る、そういうゲームだったのだ。
個人的に『ホモ・ルーデンス』を読んでいて面白かったのは、第一次世界大戦で、クリスマスに休戦し、敵国同士でサッカーするといった、騎士道や紳士協定が、第二次世界大戦になるとすっかり消えてしまったことを、遊びの消失と捉えていることだ。オモロイ。
国際法の無視は明確な遊び破りである。ロシアのウクライナ侵攻も、最近のハマスとイスラエルなんかも、遊びが消失した、文化の最も暗い退廃の姿なのだ。
ポトラッチの精神がないかぎり、対立や争いがなにかを生み出すことは決してない。
ホイジンガは現代の文化を、遊びの危機であると見ていて、ほとんど全ての文化は遊ばれていないとまでいう。非常に悲観的です。
僕は僕だけでも、文化のゲリラとして断固抵抗し、クソ真面目というゲットーから遊びを解放したいと思います。まさに遊撃戦です。
まとめ
本書の論旨は明確で、“遊びは文化より古く、文化は遊びの因子を有している”ということと、“遊びの因子がいったいどれだけ文化のなかに浸透しているのか”の二つです。あとは膨大な叙述です。
遊びとは、心のなかでイメージを操ることから始まる。現実世界を形象化し、イメージを生み出すことが、遊びの始まりだった。
神話や詩といったものは、遊びが喚起するものを、生き生きとしたイメージのなかに閉じ込めたものだ。僕がSF小説好きなのも、現実の形象化、つまり想像力による遊びに、惹かれたからだ。
『ホモ・ルーデンス』の思想は、カイヨワの『遊びと人間』に引き継がれ、両者はセットで語られることが多い。いわば続編。ということで、どんどん遊んでいこう!