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君と病む

12

目を開けると布団の中だった。そうださっき布団をちゃんと引いて寝たんだ。
今は何時だろう。2時だ。
1時くらいに寝たはずだからまだ1時間くらいしか寝てないのか。最近なんか、眠りが浅い気がする。なんでだろう。
ほとんど何も考えずに、携帯を見る。
そして、いつも依存するように見てるあれを開く。
君が呟いている。
それを見て心配になり文章を送る。
僕もそれにつられて少し不安になり、気を紛らわすための音楽を聴き始める。なんか今の気持ちに合うような的確な曲が見つからなくてすぐに聴くのをやめた。

深夜の3時22分。
この文章を書き始める。しかも直接ぶっつけ本番でここに書き付けている。普段はどこかに下書きを書くのだけれども、それをするのが面倒だと思い、そして、書いてできるだけ早く公開したいと思ったから、ここに書こうと思った。
君は、家に1人で居たら病みそうだから海を眺めに行ったらしい。
そうなんだ。そっか。海が近いんだ。
と、そんなどうでも良いことを考えてしまった。
なんで君は今病みそうなのだろう。
でも、なんでと書いておきながらも、だいたい想像できるなと思う。もちろん1人だから不安というのもあると思うが、元彼のこともあるかもしれない。もしくは、学業や大学での人間関係とか色々あるのもしれない。それこそ、今後の人生に漠然とした不安を抱いたりとか。色々。
というか、そもそも、人間は常に不安と隣り合わせなのかもしれない。そして、常に死と隣り合わせでもある。だって、いまあなたが家にいるのであれば四方八方を壁に囲まれ、夜なのに、照明があって明るくて、暖房もあって暖かい。
だか、一度本能的にそして野生的な感覚を取り戻して考えてほしい。
そうすると本来、人間は動物だから、外で当然生きて生活をするはずだ。そして外は常に危険が潜んでいる。常に神経を張って警戒体制でいる。不安のふの字もない。つまり、それは不安なのが当たり前だからだ。いつ、襲われるかわからない、いつ、どこからともなく敵が来るかわからない。だから、常に周囲を、その2つの目を細めて注意深く観察している。
だか、現代に近づくにつれてどうだろう。そう言った意味での危険はないに等しくなっている。
安心安全な暮らしの環境。それに伴った心の安心と平穏。不安からは程遠い。そして、そのような不安を、つまり本能的野生的不安を忘れてしまっている、いや抱え込まなくていいようになってしまった。
幸か不幸かわからない。それは幸せとも言える一方で、不安という要素は原始的な生活を人間がしていた時に比べて増えているとも言える。数えきれない数の不安に囲まれている。動物であれば、気や神経を使わなくていけないのは自分自身、そして自分を取り巻く家族、そしてそれを脅かす的の存在、この3つだけでよかったのではないか。だから、それに伴った不安というのも最小限におさまっただろう。
ところがどうだ。現代人を考えてみると、具体例を上げるまでもなく、本当にたくさんの不安に囲まれている。
そう言った意味で僕たちは不幸ともいえる。いや、不幸なのかもしれない。こういう素敵な世の中になってしまったのだから、かつての動物としての人間の暮らしなんてどうでもいいし、取り戻したくはないけれど、でも、人間は動物のままで、社会的な動物にならずに、文化的にも発展せずにいたとしたら、いたとしたら、こんな常日頃不安に駆り立てられるような生活は送らずに済んだのではないかと、なぜか、人類を代表して、後悔してしまってならない。そんな僕は大馬鹿者だろうか。おかしいだろうか。
だから、君のように、そして僕のように生きていて、いや、"社会的動物として"生きていて、そのように不安になってしまうのは致し方がないことなのだと、少し開き直った方がいいのかもしれない。
だから、僕は開き直りたい。
でも、僕はやっぱり君のことで不安で、遠い東京のど真ん中、家族が全員寝静まっている時間に1人リビングで君を思って悲しくなった。不安でしょうがなかった。心配でしょうがなかった。
でも、気づいたら朝は来ていた。
やっぱり太陽の光は安心する。
月の明かりと外の人工的な灯りだけではやっぱり、心細くなる。
朝が来て良かったなあ。と、何回も朝を迎えてきているはずなのに、そしてそれは数えきれないほど、いや数えることはできるかもしれないが、とにかく飽きるほど繰り返してるはずなのに、とてつもなく、あさが来たことに対してこの上ない幸せを感じてしまった。
そして、どんなにつらくても、不安でも、誰かのことが心配で眠れない夜があっても、絶対に朝は来るのだと、そんな当たり前のことに改めて気づかされてしまった。

君はいつかの投稿でこんなことを言っていた。
「病むことが確定している夜があるなら、せめて上質に病もう。お気に入りの恋愛ドラマにお気に入りのお菓子にお気に入りの香水ぶちまけて良質な病みを。」と。
とても素敵なことを言うなと思った。そして、僕も病むことが決まっている夜はそうしようと心に決めた。
それこそ今日も寝る前は、昨日から観始めたドラマの続きを見ていた。とても癒されて、とても満ち足りた気持ちになって、幸せだった。やっぱり、物語、虚構の世界は素敵だなと改めて思った。
あと、ドラマに加えてお風呂の中で漫画を読んだ。僕は冬になると湯船にちゃんと浸かるのだけれども、その時に決まって本を読む。去年の冬からついた習慣だ。
でも基本的に、お風呂に持っていくのは僕の興味のある哲学関連の本か、小説だった。
でもここ最近、君の影響を受けたのだろう、漫画も読んでみたいなと思った。そして、服が掛かっているラックの下のスペースにある本の小山から1冊漫画を抜き出した。
フラヌール書店で去年の1月にかった、「違国日記」を持って脱衣所まで向かった。
とても良かった。思ったより良かった。やっぱりちゃんと読まないとわからないよなと思った。
今日、仕事終わりの帰り道に僕の職場の大先輩にこう質問した。どうやったら、漫画が読めるかと。最初は、は?という顔をされたが、ちゃんと、漫画を読もうとすると数ページ読み進めただけで萎えてしまう。だから、小説とかしか読めないのだと説明した。
そう、僕は本というものに興味を持ち、趣味として読み続けてから、漫画というものがなぜか読めなくなってしまったというか、興味が薄れてしまっていた。でも、心のどこかでは読みたい気持ちはある。だから、先輩に質問した。
でも、実際お風呂の中で読んでみると、とても面白かったし、全然読み進めることができた。
だから、これからは小説とかだけでなく、漫画も読みたいなと思えた、少し特別な日になった。

やっぱり僕にとって君はとても魅力的で、特別な存在なのだろう。
だって、君とまだ会ったことはないし、物理的にとても離れている上に、ネットを通してのコミュニケーションという根本的に距離が離れている会話方式でしか関係は持てていないのに、君がつらい時は僕も一緒につられて病みそうになってしまう。そんなことあり得るのか、他人事のようにいうが。普通はありえないだろう。
やっぱり、自分のことなのに自分がわからなくなる。愛の自己限定というが、むしろ逆で自己が限定されたというより離れて行ってるような気がしてならない。だから、僕は"愛の自己離散"と言いたいところだ。
もう終わろう。
よくわかんなくなってきた。自分が何を書いているのか、そして何を書きたいのかも。
ああ、とてもよくわからない。つらいではなく、わからない。はあ。


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