介護・人間関係論Ⅳ.介護関係の非対称性・権力性・抑圧性・暴力性
1.介護における関係の非対称性
介護は介護される者と介護する者の相互行為ですが、介護される者と介護する者との関係は非対称的です。介護を理解する上で、この介護関係における非対称性について整理しておく必要があると思います。
① 関係の離脱可能性
介護関係の非対称性の一つの特徴は、介護関係からの離脱可能性という観点です。上野千鶴子さんはこの離脱可能性について次のように指摘しています。
当事者(お年寄り)が介護関係から自由に離脱できないというのは、大きなハンディ(Handicap)[1]です。これに対して、介護する者はその関係性から基本的には自由に離脱可能です。
障害高齢者にとって介護されるということは、生きてい行くうえで必要なことですが、介護する者にとっては、そうではないのです。
② 依存性
介護関係に入る当事者は、そもそも、他者に依存的な存在です。依存する者と依存される者は、平等な関係であるはずがありません。
③ 身体的能力差
さらに、高齢者介護では、身体能力的にも、介護される者よりも介護する者の方が、圧倒的に強いのが普通です。
④ 心理的負債
お金を借りる人と、お金を貸す人の関係では、お金を借りる人は負債を抱え、心苦しく思うことが多いでしょう。
介護関係でも、介護される者は、介護する者に心理的負債を抱えてしまうことが多いと思います。
ですから、当事者(お年寄り)が介護職員に「すまないねぇ」とか「ごめんなさいね」とよく言うのです。
2.介護における権力概念
介護される弱者と、介護する強者という介護関係におけるこの非対称的な関係は、容易に、かつ自然に、権力関係に転化します。
問題は、この権力関係がどのような様態、構造になっているのかです。
介護関係の非対称性が根底にある介護施設では、ごく自然にパノプティコン[2]的管理、抑圧的(人権無視)、暴力的(abuse)な権力が生じます。
ミシェル・フーコー[3](Michel Foucault)によれば、近代以前の権力は、ルールに従わなければ殺すというものでした。
しかし、近代の権力は、人々の生にむしろ積極的に介入し、それを管理し、方向付けようとする権力です。
こうした特徴をもつ近代の権力を「生-権力」(bio-power)とフーコーは呼びました。「生-権力」は人を従順にさせる、人を規律に従わせる、人をスケジュールに従わせる、などの権力者の望む特定の行為をさせる権力です。
歴史的には前近代の殺生与奪権力から生-権力への変化してきているのですが、介護施設の権力は、行為が自由にできない人(障害高齢者)に向けられるため、行為をさせるという「生-権力」というよりも、前近代的な殺生与奪権力に近いと思っています。
つまり、恫喝による強制、身体的拘束や放置、水分摂取を制限するとか、衣服が汚れても取替ないとか、夜眠れるように日中は無理やり眠らせないとか、ある意味、強制的、直接的に身体・生理に働きかけることが多い権力だと思います。
介護施設では「生-権力」的ではなく古典的な殺生与奪権力の様態になってしまう可能性が高いのではないかと危惧しています。
介護教育では人権の尊重や人間の尊厳等々、立派なことを教えてきたわりに、実際の介護施設では古典的、暴力的な権力構造となっていて、人権は蔑ろにされています。
これは、福祉・介護サービス業界(教育も含みます)が、介護における権力関係に関して考えるための概念を装備していないせいだと思います。
介護教育には、フーコーの「パノプティコン」「生‐権力」「規律訓練」「生政治」などの権力を分析できる概念が必要とされているのだと思います。
3.インターセクショナリティ:intersectionality(交差性)
社会には社会的属性に基づいたさまざまな関係性が併存しています。
「介護職-入居者」、「お客様-介護職」、「若者-年寄り」、「男性-女性」、「管理職-一般職」、「医療職-介護職」、「生産労働者-再生産労働者」などなど、人は色々な属性を併せもっているのです。
朱喜哲さんは、社会には、さまざまな属性を軸として、それぞれの軸に「力」の勾配があり、それらの軸が交差する「インターセクショナリティ(交差性)」があるのだと指摘しています。
当然、介護職員もこのインターセクショナリティ、交差性のある社会を生きています。
介護職員は社会的には、再生産労働者ですので、生産労働者よりも低評価、低賃金となりがちです、さらに、一般的なサービス業としてみれば、「お客様は神様」といわれるように、お客様優位で、サービス提供者は劣位に置かれやすくなっています。
でも、介護職員は、「介護者ー被介護者」という軸では優位側になっており、権力を有しているといえます。
私は、このインターセクショナリティ、つまり社会的属性軸による「力」の勾配、権力性が介護関係にも影響を与えていると思っています。
例えば「生産労働-再生産労働」という軸での劣位性が「介護者-被介護者」という関係の非対称性を強化する恐れがあると思うのです。
つまり、社会的に低評価で低賃金の介護労働者という属性への劣等感が「介護者-被介護者」という関係軸での「力」の勾配の傾斜を強める、権力性を高める働きがあるのではないでしょうか。
もっと簡単に言えば、「会社で蔑ろにされている男性が、家庭では妻を蔑ろにする。」と同様のことが介護現場でもありえるのではないかということです。
朱喜哲さんは、インターセクショナリティという観点から、人は複数のアイデンティティを有している。つまり、アイデンティティーズ(identities)という概念を紹介しています。
私は、朱喜哲さんのいうアイデンティティーズという概念は大切だと思います。
介護職員は、その都度の現在地について自覚的であることが大切です。性別、年齢、体力、学歴、国籍、生産関係など、さまざまな属性軸の中で「力」の勾配、権力関係に敏感である必要があると思うのです。そして、ある属性軸が他の属性軸に与えている影響についても自覚的であるべきだと思っています。
4.必要な市民の監視
いずれにしても、介護関係における非対称性は、介護職員などの介護する者から、介護される者への教育、指導、指示、強制を推進していく圧力、原動力になっているのです。
そしてこの権力的、抑圧的、暴力的関係性をパターナリズム(Paternalism;温情的庇護主義)が正当化し、自らは善き事を行っていると思うのです。
この結果、介護の現場で善意に満ちた権力性、抑圧性、暴力性が遺憾なく発揮されるようになります。
特に、パノプティコン的性格、つまり監視体系を有する介護施設では、権力性が強く出てしまいがちです。
さらに、コロナ禍によって、感染予防という錦の御旗によって、面会禁止や外出禁止による人的交流の制限、文化的行事の中止などの生政治が強化され、アガンベン(イタリアの哲学者)のいう「命を守ること」以外のすべての価値を蔑ろにする「剥き出しの生」の生息地になり下がった介護施設では権力が一層強化されてしまっているのです。
介護施設のこの権力性、抑圧性、暴力性などについては、一般市民をもっと啓発する必要があると思います。介護施設は市民の監視が必要なのです。
[1] ハンディ(Handicap)とは、スポーツやゲーム等において競技者間の実力差が大きい場合に、その差を調整するために事前に設けられる設定のこと。競技に限らず様々な競争的な場での立場を不利にする条件を指す言葉として用いられることも多い。
[2] パノプティコン(panopticon:一望監視施設)とは、イギリスの思想家ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham)が考案した監視塔から監獄のすべての部分が見えるように造られた円形の刑務所施設のこと。ミシェル・フーコー(Michel Foucault) が『監獄の誕生 監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、1977年)において、近代管理システムの起源として紹介したことで知られている。
[3] ミシェル・フーコー(Michel Foucault 1926年~1984年)フランスの哲学者
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