syayoi26

畑や低い山などがある非常にローカルな所に住んでいるハマっこです。 ブログ「やーちゃんのアンテナ」(https://yachan26.blog.fc2.com/)以外に、こちらにも月一で書いていこうかと思っています。ブログとの住み分けは今検討中。時間があったら是非読んで見て下さい。

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マガジン

  • 父のこと

    父が亡くなった日から、その後の手続きや介護中のちょっとしたことをまとめています。

最近の記事

眉間の皴

 今の家からの住み替えを見据えて、現在母と物の整理をしている。まずは昨年亡くなった父の部屋から。どれもこれも要らない。ゴミとして出すもの、粗大ごみの手続きをしないといけないものが多く、片付けも大変。  片付け最中に自分の卒園アルバムを久々に見た。何年振りだろうか。少なくても20年くらいは開いていないと思う。もはや自分がそのクラスだったか覚えてもいない。最初のクラスから写真を見て探すも自分を見つけられない。下に記載してある名前を見てやっと見つけた。「あ~、そうだ。小さい時こん

    • 友達100人?

       「一年生になったら」という曲がある。「一年生になったら 一年生になったら友達100人できるかな…」という歌いだしの有名な曲だ。「友達100人できるかな」は優しい顔をした呪いの言葉だ。  小学校に上がる時に、私も近所の人に言われた。「友達いっぱい作らないとね」などと。正直プレッシャーだった。今までと違う環境で、違う子がいっぱいで、どうなるか分からない。学校の勉強って?不安要素がいっぱいなのに友達もいっぱい作らないといけないのかと。  十分すぎる大人になった今の私がその頃の

      • 26年後

         ふと、自分が生まれたのは戦争が終わってから何年後だったのだろうと思った。小さい頃の記憶の中には戦後の暗さはない。世の中的には、子供の数も多くて、まだ高度成長期だった。  私は1971年、昭和46年生まれ。終戦が1945年で昭和20年のこと。私が生まれる26年前が終戦の年。26年ってどのくらいの長さだろう。今53歳なので、26年前というと、27歳のころ。社会人になって、まだ数年くらい。年月はかなり経っているが、思い出せないほど遠くではない。  私が生まれた頃、小さかった頃

        • 演歌のお年頃

           子供の頃、高齢になれば演歌を聞くものだと思っていた。演歌は高齢者が聞くもの。子供の頃の私から見れば50歳は十分高齢者だっただろう。子供だった私は今53歳になったが、残念ながら未だに演歌には興味が湧かない。  演歌に興味が湧くのはどのタイミングなのだろう。もっと年齢を重ねたらだろうか。自分の母親を見る限り、それも違うようだ。我が家の母も演歌には興味がないようだ。(音楽全般に興味がなさそうである。)自分が子供の時の50代は一体どんな音楽を聴いていたのだろうか。  昔と今では

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        • 父のこと
          6本

        記事

          引っ越し

           引っ越しをしたことがない。いや、正確に言うと1回したことはある。でもそれは3、4歳の時で殆ど記憶にない。自分で荷物詰めをしたわけでも、運んだわけでも、新居の掃除をしたわけでもないから数には入れたくない。 親は自営業で店をやっていた。東京の東十条の商店街から横浜の商店街に引っ越しをしてきたのが3、4歳の時。東十条に住んでいた時の記憶ももうほとんどない。保育園に行く時の道で曲がった角の景色や、商店街の景色や隣のお店をぼんやり覚えているくらいだ。  横浜に引っ越してきた日のこと

          引っ越し

          街の電気屋さん

           街の電気屋さんの存在を不思議に思っていた。大型電気量販店も横浜や主要な駅にあって、街の電気屋さんは一体やっていけているのかと。閉店することなく、店名が書かれた軽トラックが走っているのを見かけると何とかやっていけているのかと。  最近、我が家はその街の電気屋さんの有難さを実感している。昨年亡くなった父は家の中の電気工事などは工具を使って自分でやっていた。だから、何か不具合があれば父に言えば数日の内には解消していた。しかし、父が認知症になり、亡くなり、いなくなると事情が変わっ

          街の電気屋さん

          同じユニフォーム

           駅のエスカレータで私の前に野球のユニフォームを着た女の子が立っていた。小学5~6年位だろうか。その子の前には同じユニフォームを着た同学年位の男の子。二人とも大きな重そうなバッグを肩から下げて、改札を出て、同じ方向に向かって行った。これから試合があるのだろうか。  あの女の子は小学生までは男の子と同じ野球チームでプレー出来るだろう。中学生になったらどうだろうか。学校の野球部で一緒に練習やプレーが出来るだろうか。そもそも野球部に受け入れの体制が整っているだろうか。女子部員用の

          同じユニフォーム

          介護は突然に

           家族の介護というのは、ある日突然始まることが多いのではないだろうか。我が家は、2021年9月21日に父が洗面台で排尿をしているのを目撃した瞬間から始まった。最初は怒涛の日々だった。どこに何を相談するのか。幸い、私は「地域包括支援センター」の存在を知っていたので、ケアプラザを訪ね、包括の人に今後のことを相談することが出来た。  突然始まった父の介護、ちょっとした困りごとはいろいろとあった。普段の生活で改善しておけば、困らなかったなと思うことも多かった。この最初の段階でのちょっ

          介護は突然に

          その日 その後 ④

           人が亡くなるとお金が掛かる。不謹慎なと言われそうだが、実体験として言えることだ。本当にお金が掛かる。鳥が一斉に飛び立つように大量の万札が一気に出ていく。この後の生活が大丈夫かと心配になる。  まず始めは、葬儀費用。我が家は家族葬で参列は母と私だけだったが、オプションで祭壇の花をもっと多くしたため、63万円位になった。これにお坊さんへのお布施が11万円。火葬場での火葬料が12,000円。全部含めると、70万円を超える金額になった。  支払いは現金またはクレジットのどちらか

          その日 その後 ④

          その日 その後 ③

           告別式を終えた後、遺族が次にやらなくてはいけないことは役所などの手続き諸々、相続手続き、納骨だろう。我が家はお墓がなかったので、墓探しからしなければならなかった。  墓の購入となると、金額が高いし、墓地とかマンションタイプにするとか場所はどこにするとか検討することが多すぎるので、1年位かけて探せばいいかと考えていた。家の中に、骨がずっと置いてあることになるが致し方がない。ところが、母は違った。  母と私が通っている近所の美容室に香典返しを持っていった母がお墓情報を聞いて

          その日 その後 ③

          その日 その後 ②

           父の告別式の列席は母と私の二人だけだった。父の姉は高齢で遠方に住んでいる、妹は病気で体が不自由になりこちらも遠方に住んでいる。普段、母も私も親戚と交流がなく、来ることになったらそちらにものすごく気を遣うだろう。ならば、二人で送り出そうということになったのだ。  結果として、これで良かったと思っている。たとえ不義理だといわれても。心済むまでゆっくりとお別れが出来た。親戚が来ていたら色々なことにとらわれてこんな風には出来なかっただろう。  告別式が終わって、父を乗せた霊柩車

          その日 その後 ②

          その日 その後 ①

           人が亡くなるとやらなくていけない事の何と多いことか。慣れていない手続きの連続である。気ぜわしい日々が続く。その「やらなくていけない事」は直後から始まる。  父の息がとまった連絡をうけて駆け付けた訪問診療の先生により死亡宣告がされた。その後、先生は部屋の片隅で何か書類を記入していた。「死亡診断書になります。こちら半分に記入して頂き、葬儀会社に渡して下さい。渡す前に何部かコピーを取っておいた方がいいですよ。」と薄い紙を渡された。コピー用紙ではなく、妙に薄い紙。少し透けて見えるそ

          その日 その後 ①

          その日

           最近、父を亡くした。誤嚥性肺炎、85歳だった。我が家は母と私の二人暮らしになった。  2年前にアルツハイマー型認知症が発覚、同じ頃に原発性硬化性胆管炎とも診断された。要介護1と認定され、Suicaのチャージや電車の乗り換えなど出来ないこともあったが、一人で隣駅の理髪店に髪を切りに行ったり、数駅先のホームセンターに買い物に行ったりは出来た。自分の足で歩いてどこかに行くことは出来たのだ。長い時間をかけて、進行していくものと母と私も思っていた。  昨年の夏、父は軽い熱中症になった

          トマトサンドの思い出

           カフェでBLTサンドを食べていて、学生の時に好きでよく食べていたトマトサンドを思い出した。その頃はまだ野菜嫌いだったはずなのにどうしてあのトマトサンドが好きだったのだろう。  学校の前の通りにはサンドウィッチ屋とおにぎり屋があった。コンビニも今ほどあちらこちらにはなかったと思う。大抵、このおにぎり屋やサンドウィッチ屋で買っていた。おにぎりは青菜のおにぎり、サンドウィッチはトマトサンドがお気に入りだった。  子供のころから野菜が嫌いで、嫌いな食べ物はと聞かれ「野菜!」と答

          トマトサンドの思い出

          朝顔が咲く気温

           夏の花と言えば、向日葵や朝顔が代表格だろうか。我が家も毎年朝顔を植えている。しかし、真夏の本当に暑くなる時期は何故か咲く花数が減る。ちょっと涼しくなる秋口になると花数が増えてくる。夏の花なのに暑さに弱いのかと思っていた。  この間、咲いた朝顔を観察していてふと思った。自分の中の「夏の朝顔」のイメージはいつの時代のものだろう。自分が小学生の夏休みの時のものではないだろうか。子供頃、夏は今ほど暑くはなかった。朝夕は涼しく、日中の気温も30℃になるのはたまで、大抵27℃や28℃だ

          朝顔が咲く気温

          丸眼鏡

           先日、眼鏡を買い替えた。それまでのものを結構使っていたのでそろそろ換え時であった。最近はJINSで購入している。土日は客が多く、平日に休みを取った時にと思い、延ばし延ばしになっていた。  眼鏡をかけ始めたのはいつからだったろうか。中学生の時だったろうか。最初の眼鏡は、商店街の時計・眼鏡店で買った。その内、チェーンの眼鏡店で買うようになり、JINSの店舗が増えてきてからはそこで作っている。  長年、眼鏡を掛けているが自分にどんな形のフレームがあっているのか未だに分からない