その日
最近、父を亡くした。誤嚥性肺炎、85歳だった。我が家は母と私の二人暮らしになった。
2年前にアルツハイマー型認知症が発覚、同じ頃に原発性硬化性胆管炎とも診断された。要介護1と認定され、Suicaのチャージや電車の乗り換えなど出来ないこともあったが、一人で隣駅の理髪店に髪を切りに行ったり、数駅先のホームセンターに買い物に行ったりは出来た。自分の足で歩いてどこかに行くことは出来たのだ。長い時間をかけて、進行していくものと母と私も思っていた。
昨年の夏、父は軽い熱中症になった。それが原因か分からないが歩行に支障が出てきて、自宅のトイレまでがやっとの状態になった。夕方以降はそれさえも母や私が支えていかないといけなくなった。パンツとおむつの中間くらいのリハビリパンツを履くのを嫌がり1時間おきくらいにトイレに行っていた。朝、昼、夜も関係ないトイレ通いが続いた。
我が家は1階に台所や風呂があり、2階が居室となっている。1階にいる時は2階の物音に注意をはらい、ガタっと音がしたら階段を上って介助をしにいく。寝ている時も、ガタっと音がしたら、母か私が起きて介助をする。真夜中にフラフラになりながら起きて介助をするのは、睡眠不足になり本当に辛かった。
母は介護サービスを使うことに積極的でなく、今年の3月に初めて二泊三日のショートステイを使った。「介護をしなくていい日」があることがどんなにリラックスするか体感した母は今後もショートステイを利用することに積極的になった。来月はここからここまで、再来月はここからここと早速予約をしていた。
入浴も母が介助をしていたが、母と私での階段昇降の介助が厳しくなってきたので入浴介助の介護サービスを1月から利用していた。その入浴介助にもなれてきた4月の初め頃、2階から下りてくるのが遅いなと見に行ったら父が硬直していた。それまでも時々硬直することがあり、数時間後や翌日には元に戻っていた。なので、今回も同じだろうと介護サービスの方には清拭をして帰って頂いた。
数日経っても、父の硬直は戻らない。これは何かおかしい。かかりつけ医に相談して、前月行ったショートステイで転倒した際に診てもらった脳神経外科に受診にいった。硬直して動かない父の脇の下に紐を通して、階段を下ろし、紐で引っ張り上げるようにして階段を上った。頭の方を私が持ったのだが、身長の高い父は重く、手が段々と痺れていった。この手を離したら、父も母も怪我をすると思うと恐怖でしかなかった。
受診をしても、原因は分からなかった。4月も半ばになっていた。父の様子は変わっていなかった。父と私は同じかかりつけ医だった。土曜日、自分の受診の時に出掛けにスマホで撮影した父の様子を先生に見せたら「午後、行きます」と言われた。
その日は入浴介助サービスの日で、清拭だけやってもらおうかと話している時にかかりつけの先生がやってきた。「高血糖と脱水、意識混濁」と診断された。かかりつけ医が原発性硬化性胆管炎で通っていた病院に救急搬送の依頼の連絡をした。しかし、病院からはこの症状の原因を探るべく検査をして、何か見つかった場合、手術、治療をするかと問われた。高齢で認知症、入院をすれば認知症は更に進むだろう。検査をすれば、何かは見つかるだろう。その先をどうするかと。一旦電話を切った。かかりつけ医にどうするか聞かれた。私は答えられなかった。母が「自然にお願いします。」と答えた。私は唯々泣いているだけだった。
点滴がされることになった。先生が担当のケアマネージャーに連絡をして、訪問看護サービスが入ることになり、翌日から先生の往診、訪問看護による処置が続いた。訪問看護の看護師の方からは「会わせたい人がいたら、今のうちに」と言われた。職場の上長にも事情を話しておいた。
懸命な治療の結果、父は何とか持ち直したが寝たきりで全介助の状態となった。かかりつけ医から訪問診療の先生へと変更となった。訪問介護サービスの利用も勧められたが、母は家に人が入るのが嫌だと最後まで利用しなかった。数時間おきのおむつの取り換え、食事の介助などが毎日続いた。食事も水分はむせてしまい、誤嚥の原因になるためとろみをつけたものとなった。おむつ交換も「大丈夫だから」と強く母に言われ、私はちょっと押さえるのを手伝うくらいだった。訪問診療と訪問看護は毎週来ていた。
寝たきりの父の介護に母が疲れているのはよく分かった。状態も安定してきたので6月からショートステイを月に1週間ずつ利用し始めた。階段の上り下りはその時間に介護ヘルパーが来てくれるようケアマネージャーが手配してくれていた。でも、家にいるときの全介助は母にかなりの負担となっていた。台所がある1階と父が寝ている2階への階段の上り下りも負担となっていた。もうこれは限界だろうと母を説得し、特別養護老人ホームへの入所をすることにした。施設への見学に行っている時間的余裕はなかった。情報を集め、申込書を提出した。記載した施設から面談の申し込みがあり日程も決まっていた。
8月の下旬、父は1週間のショートステイに行った。行ったその日に施設から「熱があります。(コロナの)検査をしていいですか」と連絡が来た。結果は陰性。3日後、仕事中の私のスマホに施設から電話が入った。「昨日、熱が39度、先ほど38度ありまして、訪問診療の先生に往診にいて頂くか、自宅への送迎をするか」と言われた。急に帰ってこられても、階段を上って部屋に運んでくれる介護ヘルパーの手配は出来ない。
自宅に連絡したが、母は外出中のようで出ない。訪問診療の緊急連絡先に電話をして事情を話す。施設に連絡をして、コロナの検査を再びしていることを確認。自宅に何回か連絡して、帰宅した母に状況説明。訪問診療の先生より往診して、持っていた解熱剤と抗生剤を処方し3日間服用すると連絡を受けた。その日、施設か再び連絡が来ることはなかった。
次の日の昼、施設から再び電話が掛かってきた。「熱は下がったが4日間、便通がないので下剤はありますか。」との問い合わせだった。急遽、私が持っていった。帰宅して、父がショートステイから帰ってくるのは月曜日で次の日は訪問診療の日だから先生に診てもらえば安心だねと母と話していた。
火曜日、仕事中の私のスマホに母から「訪問診療の先生により誤嚥性肺炎と診断された。帰ってきてビックリしないように」と電話があった。ビックリってなんだろうと怪訝に思いながら帰宅した。家に帰ったら痰の吸引器がセットされていた。元看護師の母が手慣れた手つきで痰を吸引していた。翌水曜日、家に帰ったら父の口元に酸素吸入器が装着されていた。
土曜日、更なる点滴をどうするか訪問看護の看護師に問われた。「もう少し入れることは出来ます。ただし、それがむくみになったり、落ち着いてきた痰の悪化にもなったりします。」家族に負わされる命の判断だ。母と私の答えは決まっていた。「自然に、枯れるようにお願いします」私はもう泣くことはなかった。
訪問看護の看護師に点滴をやめたら、あと1週間から10日と言われていた。母から「あなたは仕事に行きなさい。帰ってきて欲しい時は連絡するから」と言われ、職場に出勤は続けていた。上長には事情を話しておいた。
1週間から10日という言葉が毎日グルグルしていた。来週はもう休みをとって家にいようかと考えていた仕事中の私のスマホに母から電話が入った。「お父さんが息をしていない。」
すぐに家に向かった。駅に向かう途中、不思議な気分だった。通りすがりの人と自分の流れている時間が違うような。自分を取り巻く時間が妙にゆっくりと感じた。
帰宅すると訪問看護の看護師によりエンゼルケアが進んでいた。酸素吸入器が外されている父に声を掛ける。「お父さん、ただ今。帰って来たよ。ただ今。」触れた父は冷たくなっていた。その顔は、微笑んでいるように見えた。きっと苦しくはなかっただろう。母と私の選択は良かったのだろう。そう思いたい。自宅で最期を迎えられたのは父にとって幸せだった、そう思いたい。
告別式を終えて、役所での手続きのついでにエンディングノートを2冊貰って来た。父は認知症の進行も体力の低下も早かった。なので確認できていないことも多かった。最後に本人の意思が確認出来るものがあれば家族に負わされる命の判断の責任はほんの少しでも軽くなるだろう。母と二人家族にになった今、お互いの意思は書いておいた方がよい。いつか来る母と私の「その日」のために。
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