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りんごかもしれない

その日、ウサギは紅茶専門店のテラス席で、アールグレイを片手に絵本のページを楽しげにめくっていた。陽射しが優しく肩を撫でる心地よい午後だった。

ところが、ウサギの顔から次第に笑顔が消えていった。店内には楽しげな笑い声が響いているのに、彼女だけが、まるで別の世界に迷い込んだような、不思議な表情を浮かべていた。

その絵本は、「りんごの秘密」をそっとウサギにだけ囁いていた。
「りんごは大きなサクランボの一部かもしれない?…それって、一体どういうこと?」
読み進めるうちに、彼女の胸の奥では、小さなざわめきがじわじわと広がっていった。

「りんごは…りんごなんでしょ?」
しかし、そんな彼女の思いをあざ笑うかのように、物語は予想もしない方向へと進んでいった。

「もしかしたら、むいてもむいても皮ばかりかもしれない?」
「もしかしたら、見えない反対側はみかんかもしれない?」
ウサギは、自分が信じていたことに、だんだん自信が持てなくなっていた。

「もしかしたら、りんごには心があるのかもしれない」
「もしかしたら、りんごは私のことが好きなのかもしれない...」

「もしかしたら、りんごは宇宙から落ちてきた、小さな星なのかもしれない」
「もしかしたら、りんごの表面をじっと見れば、小さな宇宙人がたくさんいるのかもしれない……」

「やめて!」
ウサギは手のひらでぎゅっと顔をおおった。 読み進めるうちに、りんごの存在が次第に不気味に思えてきた。
「りんごなんて、ただの赤い実じゃないの?」

りんご、りんご、りんご…。
ウサギの頭の中で「りんご」という言葉がぐるぐると回っていた。 思わず彼女は本を閉じると、気を取り直すように、冷めてしまったアールグレイを一気に飲み干した。

「カメくん、助けて! あなたなら、りんごの正体を解き明かせるはず!」 ウサギは心の中でそう強く叫ぶと、迷うことなく図書館へと一目散に駆け出した。

<りんごかもしれない>
    ヨシタケシンスケ・作/ブロンズ新社

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