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三島由紀夫の転落、『鏡子の家』(1959年、三島34歳。)

三島にとって『鏡子の家』は、『金閣寺』と並ぶほど重要な作品である。ところがこの作品の重要性を、批評家も世間も誰ひとり理解できなかった。三島の書き方が不十分だったのか? あるいは世間の目が節穴だったのか?



大東亜戦争はとっくに終わり、焼け跡のなか日本人の3人に1人が家もなく、まともな仕事にもありつけないどころか、食いものにも難儀する時代があった。しかし、おもいがけず1950年6月25日始まった朝鮮戦争によって、アメリカ軍が(軍服、毛布、テントなどに使用する)繊維製品、前線で使う鋼材、セメント用の砂利や砂などを日本で買い上げることによって、日本は経済復興を成し遂げた。しかし1953年7月27日に北朝鮮は負けを認めて休戦協定を結び、これによって特需は止まった。とはいえ、すでに日本は小春日和のように平和な時代を迎えている。しかも60年代以降国民全員が馬車馬のように働きはじめる高度成長期はまだ来ていない。そんな小春日和の時代に若者たちは自分で目的を設定し、おもいおもいに人生を生きるようになる。あるいはそれは日本人がはじめて手にした自由かもしれない。三島はこの時代の若者たちの自由な生を、〈自由という名の刑罰〉として観察しています。三島は近過去を振り返り、この作品『鏡子の家』を1959年、34歳で書いた。



『鏡子の家』出版に先立つ4月には、皇太子・明仁親王と平民ご出身の正田美智子さまがご結婚しておられます。戦前に天皇は神だったゆえこれはありえなかったこと、まさに戦後の象徴天皇制、国民に寄り添う皇室の在り方が具現化された出来事で、マスコミも国民もこの出来事に喝采を送った。おそらく三島にとって、それはけっして好ましいことではなかったでしょう。



さて、『鏡子の家』はこんな物語です。資産家の令嬢・鏡子のサロンに集まる4人の男たち、ボクサーの大学生・峻吉、童貞の画家・夏雄、美貌の俳優で劇団の研修生・収、やがて世界は滅亡するだろうと信じている皮肉な認識者・商社マンの清一郎、そしてサロンの主で、かれらをはべらせて楽しみながら、けっしてかれらの人生に関与しようとはしない三十歳の美女・鏡子の、空虚な時代に生きる華やかで目的を持たない生活とそれぞれの没落と破綻を個別に描いた作品である。三島はかれらをアイロニカルに(皮肉たっぷりに)描く。三島にとって『鏡子の家』は、生の目的を失った戦後日本のある時期を象徴する大切な作品だった。




しかし、三島のなみなみならない野心にもかかわらず、『鏡子の家』は文壇でほぼ酷評された。平野謙は斬り捨てた、「昭和29年から30年というあの設定なんか、ぜんぜん意味ない。」佐伯彰一は痛罵した、「出てくる人物は全部三島の分身で、分身のあいだにはまったくぶつかりあいが起こらない。」臼井吉見は重ねた、「人物の設定が三島式の門切り型の逆説づくめ。逆説的解説の見本を並べたようなもの。およそバルザックとは違ったものだ。」はやいはなしが批評家たちはくさしたのだ、なんだ、この太平楽なチャラチャラした小説は、と呆れた。カネ持ちの令嬢のサロンで、登場人物たちは全員、自分が情熱を賭ける対象にのみ夢中で、他者に関心を持たず、しかもサロンの30歳美女はかれらを観察・鑑賞しているだけなんて話は、たとえその結末が登場人物たちの人生の崩壊であるにせよ、しかし、こんな小説、お呼びでない。



三島の火柱のような怒り、暗夜に轟くような叫びが聞こえてくる。「まるで分かっちゃいない。まるで見当外れだ。二十年も附合っていながら何という阿呆だ。」(『禁色』)




しかし、三島がいかに怒り狂おうとも、評価は変わらない。三島は傷つき、絶望した。しかも、三島には、自分の魂の叫びをみんな理解してくれるはずだ、という期待があった。ところが、現実は前述のとおりである、本の売れ行きこそ立派なものだったけれど。なお、ぼくにとってこの作品『鏡子の家』は、村上春樹の『ダンス、ダンス、ダンス』に相当する作品に映る。ただし、『鏡子の家』には『ダンス、ダンス、ダンス』にある読者を巻き込んでゆく物語性がなかった。もっとも、仮にもしも『鏡子の家』に物語性がそなわっていたにせよ、批評家の酷評は変わらなかっただろうけれど。



なお、『鏡子の家』が発表された1959年と言えば、大江健三郎が『われらの時代』を発表した年でもありました。大江は書いた、「遍在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ、これがおれたちの時代だ。」なお、この作品もまた批評家たちから厳しい評価を受けながらも、しかし文学界の若きスターはいまや大江健三郎になりつつあった。




すでに三島はボディビルをはじめて4年目、その後ボクシングにも手を出したものの辞めて、ボディビルと並行して剣道もはじめています。『鏡子の家』の脱稿まえには妻・瑤子さんとのあいだに長女をさずかっています。三島は作家として生きてゆかなければならない。また、『鏡子の家』執筆中に三島は大田区南馬込の坂の上に(印税前借りで)ロココ風の白亜の殿堂を建てて引っ越し、そこはそれこそ鏡子の家さながらの〈三島の家〉となり、『鏡子の家』を上梓した後三島は多士済々の友人知人を招いて豪華なパーティをひんぱんに開催するようになる。おそらく三島は自分に共感し、自分を支持してくれる人たちを確認し、自分の支持母体を盤石にしたいという動機があったことでしょう。あるいはある種の精神科医ならば、そこに三島の傷つけられたプライドを救済するための、〈対人関係の利己的利用〉という悪心を見る人もいるでしょう。しかし、それであってなお、この時期の三島に、ぼくは同情せずにはいられない。





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