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戦争とロマンティシズム。

「わたしの十代は戦争にはじまり、戦争に終わった。」三島由紀夫



公威くんは1925年に生まれた。3歳が張作霖爆殺事件、6歳が満州事変の年である。(大日本帝国はソヴィエトの南下を怖れ、同時に中国を警戒し、国防的見地から、満洲を支配したかった。)1930年代の日本はサイレント映画の黄金偉大であり、歌舞伎はもちろん、軽演劇も寄席も大盛況です。公威くん8歳で日本は国連から脱退。11歳で2.26事件。陸軍の内紛ですね。(公威くんは文学に夢中で、事件になんの関心も持たなかった。)13歳で国家総動員法発布。翌年、14歳でナチス・ドイツはポーランドに進撃し、これが第二次世界大戦の火蓋を切った。(公威くんは谷崎の『春琴抄』『蘆刈』『盲目物語』を読みふける。公威くんは詩をたくさん書いた。また、中学生でありながら公威くんはすでに立派な歌舞伎マニアになっています。)15歳が日独伊三国同盟。(公威くんは軍国教育を受け、軍事教練に参加した。自分も兵士になって死ぬのがあたりまえと信じつつ、他方で公威くんはラディゲに夢中です。)



公威くん16歳で日本軍は真珠湾攻撃をおこなう。(17歳で三島由紀夫名で『花ざかりの森』を出版。)戦争は深刻化し泥仕合と化してゆきます。ラジオは『真珠湾攻撃の歌』『海の神軍』『大東亜決戦の歌』など日本軍の勇壮を尊ぶ歌を流し、映画界は戦意高揚のため国策映画を作りはじめ、講談師も武士の勇ましさを讃えるネタをかけるようになります。しかし、戦況が不利になるとすべてが哀しみの色を帯びてゆきます。このあたりの話題は、美声の噺家・川柳川柳かわやなぎ・せんりゅうの持ちネタになっていたもの。




他方、三島は終末観にとりつかれる。世界の終わりと自分の終わりは完全にひとつのものだった。「赤紙が来ようが来まいが一億玉砕はまぬがれないだろう」とおもい、「一作一作を遺作とおもって書き続ける。」三島は学習院高等科を主席卒業、天皇陛下から銀時計を頂戴しています。軍隊入隊をさんざん考えるが、結局三島は東大法学部へ進学。20歳で三島も学徒動員で中島飛行機工場に派遣されもした。三島は自分は美の特攻隊になろうと決意する。空襲警報が鳴ると、三島は風呂敷に原稿を入れて防空壕へ急いだ。東京大空襲の時期である。焼夷弾がばら撒かれ、東京もまた火の海に。三島はその火事に解放感を感じ、興奮する。三島もまたたくさんの死体を見た。おぞましく禍々しいその光景に三島が昏いエロスを感じなかったはずがない。








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