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戦時下のロマンティスト、三島由紀夫。

「わたしの十代は戦争にはじまり、戦争に終わった。」三島由紀夫



まず最初に、われわれ戦後生まれの日本人は、日中戦争から大東亜戦争にかけての15年戦争を、どうしても1941年~1945年にかけて、とりわけ最後の2年間の悲惨なイメージで「理解」しがちである。しかしながら、現実は違う。むしろ序盤~中盤の大日本帝国国民は、いけいけゴーゴー状態で、いたって陽気なのである。




公威くんは1925年に生まれた。3歳が張作霖爆殺事件、6歳が満洲事変、7歳で上海事変、満州国の設立。8歳で日本は国連から脱退し、世界から孤立してしまう。11歳で2.26事件。皇道派軍部の若手将校たちが軍部独裁による天皇親政を樹立すべく起こした軍事クーデターです。(もっとも、公威くんは文学に夢中で事件になんの関心も持たなかった。かれがこのことを考えるようになるのは、早すぎる晩年のことである。)また、いまにしておもえば、大日本帝国はどんどん破滅の道を突き進んでいったわけだけれど、しかし、1930年代の日本は意外にも明るかった。それはサイレント映画の黄金時代であり、歌舞伎はもちろん、軽演劇も寄席も大盛況です。しかも、12歳で盧溝橋事件をきっかけに華北で日中の衝突が起こり、日本軍は杭州湾に上陸、日本側の戦死者1万余名を数える激しい戦いの末、上海を攻略、その勢いで12月首都南京を陥落させた。小林秀雄は書く、日本国内では南京陥落を祝う祝賀行事が盛大に催され、各地で提灯行列が行われた。この時期でさえも、日本国内は戦勝気分に沸き立ち、「銃後の平和」を謳歌していたのである。



しかし、公威くんが13歳のとき国家総動員法が発布される。翌年、14歳でナチス・ドイツはポーランドに進撃し、これが第二次世界大戦の火蓋を切った。(公威くんは谷崎の『春琴抄』『蘆刈』『盲目物語』を読みふける。これは祖母なつが谷崎を好きだったからという説もある。また、公威くんは詩をたくさん書いた。また、中学生でありながら公威くんはすでに立派な歌舞伎マニアになっています。)15歳が日独伊三国同盟。(公威くんは軍国教育を受け、軍事教練に参加した。自分も兵士になって死ぬのがあたりまえと信じつつ、他方で公威くんはラディゲに夢中です。)




当時三島は華族でも士族ない癖に、当時そういう系譜を持つ子息がおもに行く学校だったところの学習院に小学校から通っています。(学校の選択は、祖母なつの趣味と意向でもありました。)もちろん男女別学ゆえ男子校、当時の学習院はみんな乃木将軍に憧れるさぞやマッチョで勇ましい学校だったことでしょう。文弱のアオジロ・公威くんは学校では肩身が狭い。そんななかありのままの公威少年を肯定して、無邪気に接してくれるのは、3歳年下の妹、美津子ただひとりだった。



公威くん16歳、1941年12月8日未明、大日本帝国軍は真珠湾攻撃をおこなう。これにて日中戦争は、大東亜戦争の局面に進んでゆく。他方、かれは17歳で三島由紀夫名で『花ざかりの森』を雑誌連載する。いかにも浮世離れした、プルースト文体を駆使した典雅な幻想小説なのである。その後、大日本帝国はミドウェイ大戦に敗れ、ガダルカナル島から撤退し、サイパン島を陥落させたもののしかしそれ以降日本本土は空襲に苛まれてゆく。そしてレイテ沖海戦に失敗し、硫黄島守備隊も玉砕される。大日本帝国は悲惨きわまりない状況に追い込まれてゆく。







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