
二十歳の三島由紀夫は、戦争最末期に恋人たちの心中物語『岬にての物語』を書いた。そして三島にとって、敗戦後の焼け跡日本とはなんだったのか?
三島は戦争末期の7月に『岬にての物語』に着手しています。ざっとこんな話である。読書好きで夢想家の11歳の少年「私」は、その夏、「私」は母と妹とで、房総半島の海岸で過ごした。ふと冒険心にうながされ、「私」は東へめざしてなんとなく歩きだし、美しい岬の方へ向かった。
岬の頂きに行くと、荒廃した小さな洋館があった。中からオルガンの音が聞こえていた。そしてまず最初に若い女が現れ、優しく応接される。続いて青年が現れ、「私」はかれらに誘われ、かくれんぼをする。「私」が鬼になり目を瞑って100を数えている時、断崖の方角から鳥の声に似た悲鳴か、笑い声のような短い叫び声がした。それが「私」には何か高貴な鳥の声か、「神々の笑いたもうた御声」のように聞こえた。100数えおわり、「私」は2人を捜すが見つからなかった。不安と心細さと故しらぬ同情で「私」は激しく泣いた。ふたりが心中したことがほのめかされているのである。
地獄のような戦争最末期に、こんなロマンティックな小説を書いてしまうところが、いかにも三島である。
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1945年8月、大日本帝国は敗戦した。三島は学習院の恩師の清水文雄に手紙を送っています。〈玉音の放送に感涙を催し、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました。〉いかにも優等生三島が愛国的文学者である恩師に送る手紙である。また、三島を広く知らしめた蓮田善明は、1943年に応召され、マレー半島で士官として1945年8月の敗戦を迎えた。蓮田善明は近くの神社に軍旗奉焼に向かおうとした所属連隊の連隊長を拳銃で射殺し、そして自決した。享年41歳。三島は蓮田善明に追悼の詩を捧げた。
しかしながら、果たして三島はほんとうに「玉音放送に感涙を催し」ただろうか? 「なぜ神風が吹かなかったのか?」と詩的絶望に身を震わせたろうか? これはなんとも言えない。二十歳の三島はけっして自決時の三島ではない。では、この時期の三島の心の真実はどこにある? それは誰にもわからない。
おもえば小津安二郎は1937年34歳で戦争に駆り出され、「ちょっと戦争へ行ってきます」言って日本を去り、毒ガスを扱う班の歩兵からはじまり小隊の班長にまで出世し、2年間お国のために奉公し、除隊になった。しかし、そんな小津もまた戦争について一切語らなかった。1941年の『戸田家の兄弟』にも、1942年の『父ありき』にも軍人の影は一切ない。ただ戦争の影を暗示するだけである。
さて、敗戦後の日本である。日本人の3人に1人が家もないどころか、その日の食いぶちさえもろくにない時代である。その上東京だけでも復員兵が80万人。上野のアメ横や新橋駅東口は露天商の集まる闇市(青空マーケット)だった。薄汚い路地では干し魚やふかしイモなどを売る店があるかとおもえば、コメや野菜を売る者もいた。米軍から横流しした古着やココア、レイヴァンのサングラスなど売る店もある。サッカリンや石鹸を売る知恵者もいた。甘酒麹と蒸米と水を混ぜて発酵させたドブロクを蒸留したカストリ焼酎もよく売れた。これは3合飲んだら腰が抜けると言われたもので、これが転じて、小資本で雑誌を発刊したものの3号でつぶれたりするものはカストリ雑誌と揶揄された。
GIが運転するジープが東京をぶっ飛ばす。かれらはストッキングや口紅はたまたチョコレートをプレゼントして、かんたんに日本人の愛人を作ることができた。若い女たちはGIに性を提供し、カネをかせいだ。片や、ガード下で少年たちは「靴、磨かせてよォ」と叫んでいる。どんな戦後も性欲がたかまるもの。ストリップ劇場も流行した。1947年には雑誌『奇譚クラブ』も創刊し、SM、男色、女相撲、果ては切腹プレイ(あくまでもプレイであって、よほどのマニアだけがおこなったもので、腹部に軽くメスを入れ少し血を流すことに興奮する性的遊戯)など特集した。その後の団塊の世代を作り出すベビー・ブームにはそんな背景もあったのだ。これが笠木シヅ子の『東京ブギウギ』の時代である。
戦後文学においては1946年坂口安吾は『堕落論』を書く、大日本帝国は戦争に敗れ、特攻隊の勇士も闇屋に堕ちた。焼け跡の日本では誰だって堕落する。しかし、それは人間に戻るということ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけなのだ。1947年太宰治は『斜陽』を書いた。時まさにGHQによって財閥が解体され、農地改革とともに大地主が没落してゆく。太宰はそんな時代の悲劇を、マルクシズムと絡めて、メロドラマとして描いた。同年、野間宏は『暗い絵』を書いた。戦争で地獄を見た人間が、ブリューゲルの絵になぞらえて地獄を語る短篇である。武田泰淳『蝮のすゑ』を書き、上海で戦中には支配者だった日本人が敗戦とともに弱者に転落し、恐怖を感じながら、虚脱感のなかに生きていることを描いた。1951年に大岡昇平は『俘虜記』を発表し、フィリピンでアメリカ軍の捕虜になった主人公の屈辱と、生き残った自分の虚無、それにもかかわらずアメリカ兵に人権を尊重されながら生きている自分の精神状態を、細密に具体的な描写とともに、アンチロマンとして描いた。
それに対して、三島の敗戦後は歌舞伎や新派の芝居をひんぱんに見に行く東大法学部の学生なのである。さらには三島は1947年、すでに4年まえ亡くなっている作家國枝史郎の、その奥様が経営していた数寄屋橋のダンスホール、シルクローズ・クラブでダンスのレッスンを受け、ジャズ・バンドの演奏のなか、ダンスに夢中になった。(なお、三島は國枝史郎の『神州纐纈城』のその幻想性を高く評価しています。)三島は母の倭文重さんともダンスホール行って、ダンスを踊ってしています。母親のひそかな期待を察知し、こういうサーヴィスがさりげなくできるところがいかにも三島である。三島没後に倭文重さんもあのときはたのしかったわ~、なんて懐かしんでおられます。
そんな三島は後に『仮面の告白』で描かれる園子との失恋も経験し、1948年『盗賊』を書き、そして1949年『仮面の告白』を書くに至る。三島と戦後日本との関係はあまりにも奇妙だ。
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