漫画みたいな毎日。「そこに、自然があればいい。」
先週に引き続き、晴れの日曜日。私たち家族は、北海道博物館へと向かった。男子二人と夫が博物館のバックヤードツアーに参加するのだ。
このご時世なので、開催されるのだろうか?と思っていたが、元々の募集定員が少ない講座だったこともあり、無事に開催される事となった。
「やや大人向け」の講座とあったので、私と末娘は、末娘の希望により、ツアー中の1時間を博物館の周りを散策することにした。
よく晴れ、気温の低い日だ。雪はさらさらで、固まることがなく、風に吹かれて宙を舞う。その舞った雪が陽の光を浴びてキラキラと光のように降り注ぐ。
末娘は、風が吹くたびに舞い上がるキラキラが嬉しくて、「キラキラ~きれい~!冷たくて気持ちいい~!」何度も何度も、空を仰ぐ。
このキラキラは、写真には映らない。身体全部で味わう末娘。
私も、末娘と同じように、空を仰いでキラキラを身体全部で受けとめた。
このところの降雪量が多いのは、博物館の周りも同様で、正面玄関は、積もった部分に何本かの通路が、除雪機によって作られている。それは、まるで迷路のようだ。
末娘は、私と迷路を歩きながら、時々足を止める。
何をしているのかな?と、そっとのぞいてみると、通路になっている壁の真ん中をじっとみている。その部分が、日に当たって溶け、また凍り、を繰り返したのだろう。そこには、たくさんの〈つらら〉が出来ていたのだ。
「みて~!!!つらら!」
末娘は、次々につららを集めていく。あっという間に両手に持ちきれなくなった。さて、どうするのだろう?と思って見ていると、「これ、おかあさんにあげるね。」と私にも、つららをわけてくれた。
そうしているうちに、私の両手もいっぱいになった。末娘は、つららでいっぱいになった母の手をみると、「もう持ちきれないから、ここに飾ろうか。」と雪の壁の上に、つららを乗せて飾ることにしたようだ。
歩いては、つららを見つける。そっと手にとって、雪の上に並べる。
繰り返し、繰り返し、並べていく。
末娘がつららをひとつひとつ私に見せてくれるので、ふたりで、つららをじっくりと見る。
こんなにゆっくりと、つららを見ることは、なかなか無い。
つららの中に空気が入り、小さな泡となっているものもある。ちいさな光が閉じ込められた世界がそこにある。
あたりまえなのかもしれないが、同じ形のつららは、ひとつもない。
真っ直ぐだったり、くるんと丸まっていたり、溶けて固まってを繰り返したのか、大きな塊になっているものもある。曲がり具合も、本当にそれぞれだ。
そして、どれも、キラキラと輝き、美しい。
末娘は、時々、つららの味見をしたりもする。つららは、どこから見ても、美味しそうだ。なめてみたくなるのも当然のことなのだと思う。
いつだったか、子ども電話相談で、「お母さんは、雨を飲んだら汚いから駄目だというのですが、本当に雨は汚いのですか?」というような質問が寄せれていたことがあった。我が家の子どもたちは、「雨が降った時に、口を開けて上を向いたら、入っちゃうよね?」と笑っていた。
環境汚染とか、空気の綺麗さとか、大人としては色々と思うところもあるのだろうが、子どもの興味とは、それとは別のところにあるのだと思う。
「お母さん、見て~!つらら博物館だよ~!」
末娘は、博物館を作っていた。一箇所ではなく、何箇所にも、移動して博物館を作っていく。そういう博物館もいいよね。
あっという間に1時間が過ぎ、バックヤードツアーから帰ってきた男子たちと合流。
室内で過ごした男子たちは、持ってきたスキーウエアに着替え、雪合戦や迷路での追いかけっこが始まる。長男や二男の集めてくる〈つらら〉は、巨大なものが多い。「大きくて凄い」と嬉しそうである。末娘の〈つらら博物館〉とは、また観点が違って面白い。
この日の雪は、とにかく、さらさらとしていた。
子どもたちは、その〈さらさら〉の感触を味わって、大胆な雪合戦が始まる。雪を両手で抱え、思い切り、上空へと舞い上げる。
小さい吹雪のようになり、目の前が見えなくなる。
それがたまらなく面白いと、何度も何度も雪を舞い上げては盛り上がる。そして、そのうちに、私や夫にも、その小さな吹雪が向けられ、舞い上がる雪の雪合戦が始まるのだ。吹雪の隙間から、3人の子どもたちの笑った顔が見える。私も夫も、子どもたちの楽しそうな姿を見ることができる、この瞬間が、たまならくしあわせだ。
何がなくても、自然の中にいるだけで、〈あそび〉がうまれる。
大人が、「何かしなくては」とか、「遊びの場を設定しなくては」とか、考えなくともよいのだと思う。
そこに、自然があれば。
自然があるところに於いては、「あそび」とは、特別なものではなく、ごく日常として、存在しているのだと思う。
自然が傍に在ること。自然と共に在ること。
子どもたちとの暮らしは、私に大事なことを忘れないよう、思い出すよう、何度でも何度でも、確かめさせてくれる。