学校に行かない選択。「不安や焦りはどこから来るの?」
昨日のつぶやきにも書かせていただいたが、先日、二男の個人面談があった。
いつだって個人面談だよね?うちのバアイ・・・と夫と笑って面談の予定を確認する。本来であれば、個人面談は、保護者と担任の先生との面談であるが、我が家は月に1回程度、先生とお会いしているので、毎月が個人面談である。
しかし、その時間をとっていただくのも、あたりまえではないよなぁ、と毎回感じている。子どもが学校に行っていれば、先生にはこのような業務は発生しないのであって、学校に行かないという選択をしている我が家に対応し、時間を割いてくださっている。これは決して、あたりまえのことではない。
二男も一緒に教室に用意された机に座って、先生とお話をする。
懇談用に用意してくださったプリントに目を通しながら、学校では、今、こんなことをしているのね、なんて思いながら。
「まだ学校に来るっていう感じではないですよねぇ?」と、先生。
我が家の場合に関して言うならば、不登校のゴールとは、学校に行けるようになることではないと思っている。あくまでも、我が家の子どもたちに関して、である。
前にも書いたことがあるかもしれないのだが、〈不登校〉と言っても、その状況は様々で一括りにできないものだなぁと思っている。
行きたいけれど、行けない
行きたくなくても、行かなくてはと思っている、でも行けない
自分の行く場として違和感がある
ここに書いたのは、あくまで一例でしかなく、本当にその状況も環境も一括りにはできないのだと思う。
そして、学校に行っている子どもたちも、その家庭も、きっと一括りではないことを忘れないようにしようと思っている。
「勉強の遅れとかに対する不安とか、焦りとか、ないですか?」
先生からこのように尋ねられた。これは、二男に対してではなく、親である私に対しての投げかけだった。
先生の立場からすれば、学校に来ていないこの子が、日頃、どの程度勉強していて、4年生くらいの子が身につけていると見なされる知識がどの程度身についているのかは、当然把握しようもない事だと思う。
「2年生くらいから漢字とかやってないよ~」とサラッと応える二男。
「あら、言っちゃったねぇ~」と先生は苦笑いしていたけれど、特に隠している訳ではない。
「基本的に、学びは楽しいものであると思っているので、無理強いして、楽しくないと感じてほしくないと思っています。自分のタイミングが来たらやるのだろうと思っているので。そのタイミングが来たら、できることを一緒にやるという心づもりでいます。」
「タイミングはいつ来るかしらね~」と先生は二男に視線を送っていたけれど、二男は特に気にしていない様子。
「タイミングは、本当にそれぞれですからね。」と、笑顔で返した。
長男の時は、5年生になって、自分で不都合を感じて勉強を始めた。
それまで、私も夫も、ひらがなひとつ、漢字ひとつとして教えたことはなかった。本当に好きなことしかせず、毎日、虫捕りをしていた。
勉強を始めた理由は、「生き物の文献とか読めないと困る。」というものだった。
短期間で、一気に小学校常用漢字を覚えるということを、夫とゲームのように賭けをしたこともあったが、結果的に漢字カードを作ったり、漢字テストを作ったりして、長男の勉強をサポートする形になり、一家総出の漢字勉強となったことも、今は笑い話である。
そして、中学2年生の今、彼は、日々、自分で勉強を進めている。
この経験から、私も夫も、「学びとは、自発的なものである」ことを目の当たりにしているし、「学びのタイミングはそれぞれだ」とも感じている。そして、その姿を、二男も末娘も身近で見て何かを感じているのかもしれない。
しかし、何にしても長男と二男は違う人間である。そして勿論、末娘も。
二男の〈学びたい〉〈もっと知りたい〉〈これは必要だ〉と感じるタイミングがいつであるかは、わからない。
そして、今のところ、彼にとって「勉強ってちょっとめんどくさい」ものであるのも事実だと思う。そして、無理強いしたら最後、決してやらなくなるタイプの二男。
「自分にとって必要だ」と彼が感じるタイミングは、必ずやってくる。
私は、それを信じて疑わない。
もし、先生が投げかけたように、〈私〉が、二男が学校に行かないことや、現時点で、勉強に興味を持っていないことに対して、不安や焦りがあるとしたら(実際は全く不安も焦りもないが・・・)、それらは、どこから来るのか?ということを考える必要があるのだと思う。
本人は、今、不安に思っていないし、困っていない。
「やらないと後で困るから勉強しなさい」というのは、大人が、これまでの自身の体験から、ある程度の予測がつくからこそ出てくる言葉なのだろう。それは、子どもたちより、先に生まれ、社会に出ているので、当然といえば、当然なこと。
でも、将来的に、本人が困るかどうかということは、実際には誰にもわからないんじゃないかなぁ・・・と、私は思っている。
困るかもしれないし、困らないかもしれない。
そして、基本的には、困るなら、その時に困ればいいと思っている。
なんでもそうなのだけれど、先を心配しすぎても仕方ないと思っている。
今、起きていない事を心配するよりも、今を味わえばいいと思う。
困った時に、どう対応するか、どう対応できるかは、これから経験としてちょっとずつ積み重ねていくことだから。
私にできるのは、もし困ってどうにかしたいと本人が望むなら、共に何ができるか、何をすべきか、如何に邪魔しないかを考えることだろう。
不安や焦り。
それらは、いつだって自分の中からやってくる。
自分の今までの失敗や経験、
不便だったこと、
できたこと、できなかったこと、
やりたかったこと、やれなかったこと・・・
でも、子どもたちは、私ではない。
私の経験は、私の経験でしかなく、子どもたちには当てはまらない可能性が大いにあるのだ。
子どもたちの学びの機会を奪わないこと。
学びとは、自発的なものであるということ。
学びのタイミングはそれぞれであるということ。
いつでも、忘れないでいることが、私にできること。
子どもたちが自分で必要だと感じ、考え、行動し、その上で私や夫の助けを必要とする事があるならば、とことん付き合う覚悟をいつでもしておくこと。
それが私にできること。