漫画みたいな毎日。「大義名分はいらない。理由は、〈私〉発。」
二男が、伸ばしていた髪を切った。
伸ばし始めたのは、幼稚園の年長になるころだっただろうか。
お母さんに髪を切ってもらうと、切った髪の毛が身体に着くとチクチクするんだもん、と言われ、切るのを止めたのが私が彼の髪を切った最後だったと記憶している。なぜ、髪が身体に着くかというと、いつもお風呂に入る前にお風呂場で裸で散髪していたから。だって、髪の毛の後処理が楽なんだもん、という母の都合だった。
それから約3年。
「そろそろ、髪を切ろうかと思うんだけど。」と、二男。本人の言い分としては、何があったわけでもなく、なんとなく、らしい。
日々の中で、プールに行った後に、乾かすのが大変だったり、朝の支度の中に「髪を梳かして結わえる」という行為があることを、やや面倒にも感じていたらしく、時々、「あぁ!もう、髪の毛、とかさないといけないんだった!」とやや苛立った様子も見受けられるようになっていた。
そんな姿を見ていたので、私は、あぁ、そうなの、と思っただけだった。
長男がまだ髪を伸ばす前には、私が髪を切っていた。二男も。末娘の前髪も。夫の髪は、今も私が切っている。しかし、今回は、素人の私が切るには長くなりすぎているなぁ、と思って二男の髪を眺めた。
「あのさ、今回は、長くなってて、お母さんが切るのは難しいから、お母さんの行ってる美容院に行ってみる?」と提案すると、「うん、行ってみようかな。」と乗り気であったので、その様に予定した。
我が家で一番の長髪である長男は、4歳の時から髪を伸ばしている。今では、結わえていないと、お尻くらいまである。
伸ばし始めたその髪を見て、「ヘアドネーションするの?」と聞かれることが度々あった。
子どもたちは、そこで「ヘアドネーション」という単語を初めて知り、私に意味を尋ねてきたので、寄付された髪の毛でウィッグを作って、病気や事故で頭髪を失った子どもたちに無償で提供している団体があることなどを説明した。
それ以降、「ドネーションするの?」と尋ねられる度に、「誰かに寄付する為に伸ばしてるんじゃないから。」と不機嫌そうに答える長男。その質問をされる度に彼の不機嫌度数は上がっていた。そんなにキツイ言い方しなくても・・・・とその度に思うのだが、本人にしてみれば、「誰かのために伸ばしてるんじゃない。自分がそうしたいからそうしてるだけ。」という言い分だった。その言い分も、私には、わからないではなかった。
ドネーションー寄付・ 寄贈・ 贈与
私は、昔から、ボランティア活動や寄付などについて考えると、自分の中に違和感を覚え、その領域に足を踏み入れられずにいた。
「誰かのために」
その想いは、素晴らしいものであるに違いない。
でも、〈自分がボランティアをする〉ということに置き換えると、「誰かのために」という大義名分は重荷に感じられたし、どことなく、偽善的な空気を感じてしまうのだった。
おそらく、自分が「誰かのために」「誰かを喜ばせたくて」という思いから行ったことに関して、もし喜んでもらえなければ落胆し、感謝されなければ、不満に思うのでは?という可能性が拭えなかったからだ。
「誰かのために」という大義名分は、自分の思いと、「誰か」の思いに、すれ違いが生じた場合に、その「誰かのせい」にしてしまう気がしたのだ。
実際に、今までに、周囲でそういった状況をいくつも目の当たりにしてきたことも、私の中の違和感につながっているのだろう。
「あなたのためにやったのに、喜んでくれない」「私の気持ちを踏みにじった」「もうやってあげたくない」と揉めたり、人を責める大人たちを子どもの頃から見てきた。
そのたびに、子どもであった私は思うのだ。「自分がやりたくないことなら、初めからやらなければいいのに。」と。
長男や二男の通っていた幼稚園でも、それを感じることがあった。「園のために」「子どものたちのために」とはじまった活動や寄付が、いつの間にか、「みんなにありがとうって言われたい」「あんなに頑張ったのに、認めてもらえなかった」「時間が取られて大変だった」「沢山寄付をしたのに感謝されなかった」などにすり替わってしまうのだ。
他の場でも、ボランティアをやっているということを、意気揚々と語る人、寄付をしたのに、感謝の言葉、お礼を言われないことを憤る人などに遭遇することもあった。
そんな様子を見る度に、私は、「ボランティアや寄付」という行為に対して、益々懐疑的になった。
改めて、ボランティアや寄付とは、一体なんなのだろう?と思い、ボランティアの意味を調べてみた。
この文章を読んで、とてもしっくり来た。胸がすく思いがした。
「自らすすんで~する」
「喜んで~する」
「私、発」という自発性。
そして思い出した出来事がある。
家族で苫小牧にあるウトナイ湖ネイチャーセンターに行ったときの事だ。ネイチャーセンターでは、様々な野鳥を観察をすることができる。時期によっては、白鳥などもやってくる。
ネイチャーセンターの入口の駐車場で、いくつもの布の袋に何が動くものを入れている男性がいた。袋の中からは、生き物の鳴く声が聞こえる。
長男が傍に近づいていき、「何が入っているんですか?」と尋ねると、その男性は、布の袋から野鳥を取り出して見せてくれた。袋ごとに野鳥の種類が分かれていた。「渡り鳥の調査をしているんだよ」と、慣れた手つきで、野鳥たちの足にナンバーの書かれたリングを取り付け、男性は小鳥を空に放した。
職員の方なのかと思ったら、なんと20年以上もボランティアで渡り鳥の調査をしているそうで、捕獲する網も、目印となるリングも、全て自前。一年で10万円くらいの費用がかかるそうだが、それも自己負担なのだそうだ。
「そんなにお金かけて!って家族には呆れられてるんだけどね。」と男性は苦笑いしていた。
「自分が目印を着けた鳥が、遠く離れた場所で見つかった時は、とても嬉しい。何年かして、まだここに戻ってくることもある。鳥たちと一緒に世界を旅している気持ちになるんだよね。」と話してくれた。
まさに「私、発」である。
この様なボランティアの形を実際に目にし、話を聞かせてきただき、ボランティアの在り方をまた考えるきっかけとなった。
ボランティア活動への姿勢は、様々だ。そして、その中で私が行き着いたのは、ボランティア・寄付に関係なく、「自分の行動は、自分に誠実であるだどうか」だった。
自分がしたいと思うことをする。
したくないことは、しない。
そのことを意識していると、自分が本当にしたくてしたことに関して、誰かが感謝してくれたら、それはそれで、ありがたく受け止めることができる。
そして、感謝されなくても、「自分が自分でそうしたいと思ってしたこと」であれば、自分の中で問題になることは全くない。自分でそうしたくて、〈自分の喜びのため〉にやっていることだからなのだと思う。
二男の散髪の話に戻そう。
美容院に行くことにした二男に、「髪が長くなったから、寄付もできるかもしれないね。どっちでもいいけど。」と伝えると、「寄付しない場合はどうなるの?」と聞かれたので、「ゴミとして、処分するんじゃないかな。」と答えた。すると「ふ~ん・・・」としばらく何か考えてる様子だった。
数日後、二男は、「お母さん、髪の毛、寄付しようかな。だって、どうせ捨てられちゃうんだったら、誰かに使ってもらえたらいいよね。」と、ヘアドネーションをすることを決めたようだった。
調べた所、ヘアドネーションには、31センチ以上の長さが必要だそうで、以前は、15センチ以上でも受け付けていた団体もあったようなのだが、選別の大変さや、感染拡大のこともあり、今は31センチ以上の長さの髪の毛しか受け付けていないとのことだった。
いつも私が行ってる美容院に問い合わせをすると、子どものドネーションカットをしてくれるとのこと。こうして、二男は、お父さんも行ったことのない「美容院」初体験となった。
まず、髪の長さを図り、ヘアドネーションカットをしてもらう。その後、本人の希望のヘアスタイルを伝え、やや大人っぽいショートヘアとなった。
美容院の中には、アートを感じる部分もあったようで、私がカットしてもらっている間にも、美容院の中を見学して楽しそうにしていた。親子で美容院。私も二男のヘアドネーションカットを間近に見ることができ、貴重な経験をしたと思う。
二男の「誰かの為に」という「大義名分」ではなく、「自分のできる範囲で、誰かの役に立つんだったらいいよね。」というスタンスが、私には、心地よく感じられた。
自分の行動のよりどころにするための、正当な理由はいらない。
自分の気持ちに誠実に、自分がしたいと思ってしたこと、自分の喜びとしてした行為が、知らないうちに誰かの助けになるのだとしたら、純粋に嬉しい。
そうやって、あらゆるものごとや、人とのご縁がめぐり巡っていく〈私、発〉の世界になったら、そこには本当の意味での「多様」が姿を表す気がしている。