007 分厚いステーキを食べるのは誰だ / 名前を忘れたら帰れなくなる / さよなら「わたし」
アメリカのステーキ肉は美味しい。分厚いけれど、和牛に比べて脂身が少なく、すき焼きには適さないけど、ステーキ肉としては抜群に美味しい。
「食べる」ことでちょっと思い出すのは、
アルフォンソ・リンギス『汝の敵を愛せ』のこの一節。
細胞・微生物レベルで「食べる」を考えてみると、僕等の身体の中に住んでいる微生物なしでは実は消化も吸収も行えない、ということがわかる。
僕等にとっては「わたしの身体」でも、そうした細菌・微生物にとっては都合の良い住処でもあって、また彼らはDNAやRNAといったレベルで見ても「わたしではないもの」。「わたしではないもの」である彼等微生物の働きなしでは「わたし」が生命活動を維持すること自体が不可能なのだ。
「わたしが生きている」ということは、リンギスが言うように「身体の中の微生物と共生している」こと、ということになってしまう。
わたしは「わたしではないもの」である微生物の働きによって成り立つ。
細菌・微生物は活動拠点を求めて、生命体から生命体へ流れ者のように振舞い、ヒトである僕らは彼らの活動を利用しながら生命維持を行っている。
だから「ステーキを食べているのはわたしなのか、彼等微生物なのか」と問うてみた時、その答えは両方であって、「食べる」ということはそうした共生のプロセスの中にある。
微生物の働きのこととは別に、そもそも僕等は水・空気・食べ物を取り込んで(食べる)、吐き出す(排泄)のサイクルを通して生命維持を行っている。厳密には昨日のわたしを構成していた物質と、今日のわたしを構成している物質は一部新調されている。細胞もまた(諸説あるけれど)7-10年で入れ替わってしまう、とされる。
今日ステーキを食べている「わたし」は、その意味においては、10年前ステーキを食べていた「わたし」と構成していた物質と同じ体(てい)をしていても、構成メンバー自体は入れ替わっている。
考えてみれば、空気や水と食料と「わたし」が完全分離されたところに人間という生命はなく、「わたしの外の世界との接続」がなければ、そもそも「わたし」は機能しない。「わたし」と「わたしでないもの」という境界線は思うほど明確ではなく、実のところ「わたしという意識」が拵えてた仮の境界線でしかなかったりする
さっきまで動物だったものが、今わたしの目の前の「肉」になり、「わたし」に取り込まれて「わたし」になっていき、さっきまで「わたし」だった空気や水や栄養素も、次の瞬間には「わたしでないもの」になっていく。
わたしのかたち
精神病院を舞台に「脳髄が脳髄を追っかけまわす」という夢野久作の探偵小説『ドグラ・マグラ』に「脳髄は物を考える処に非ず」という考えが出てくる。
「脳髄は物を考える処に非ず」の意味するところは「わたしは、わたしの脳で何かを考えてると思っているけれども、実は全身の数十兆個の細胞がそれぞれ一斉に考えていて、脳髄はそれの交換局みたいな場所だ」くらいにとりあえず捉えてみたら良い。
全身の細胞それぞれの自由意志のもとバラバラに動けば、個体としての身体は機能しないが、脳髄が全体の交換局となって、最適化を行う。脳髄が制御する過程で複数いたはずの「わたし」は、いつのまにかひとりの「わたし」になる、という。
「わたし」は一人であって、昨日のわたしと今日のわたしが少し振る舞いが変われば「あの人、最近ちょっと変わったね」となるけれど、全く別人格になってしまう(昨日の自分すら忘れてしまう)とそれは「精神の病気」というカテゴリーに入ってしまう。
昨日のわたしと連続していないと「気が狂った」ことにもなるし、「わたし」の方では、自分のキャラの輪郭線を出す為にも「自分さがし」なんてしてしまい、「わたしは○○である」とラベリングをして「わたしらしさ」を構築する。そして逆に他人から「お前はこうだ」と強力なレッテルを貼られてしまう時にも、人間は思い悩み、健康を害したりもする。
ちなみに私の友人の高校では『ドグラ・マグラ』を読み切ったものは発狂してしまう、という都市伝説があったそうな。「地球表面上は狂人の一大解放治療場」とドグラ・マグラにも出てくるけれど、確かにこの奇書には精神を揺さぶるところはあるのやもしれない。そして確かに読み切るのは大変なんだけれど。読み切るコツとしては、作中出てくる数十ページにわたるアホダラ経の部分はラップとかBGM感覚で読むのがおススメ。
名前を忘れると帰れなくなる
日常世界の維持には「名前」はかかせない。また普段の自分と違うキャラを出そうとする時にも僕らはペンネーム、ハンドルネーム、芸名などなど「名前」を変えることで少し違った日常へ飛翔しようとしたりもする。
ガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』はマコンドという架空の村の100年あまりの盛衰史が奇妙な挿話と共に語られる。
その中でマコンド村で奇病が流行るというシーンがある。
その奇病にかかった人は、「人やものの名前」をどんどんと忘れてしまう。それの対策としてマコンドの人々は、忘れる前にイチイチ名前を紙に書いて、目の前に見えるもの全てに貼りつけていく。
「昨日のわたしが今日のわたしと一緒です」という自意識を継続させる為にも、社会生活のような記憶の継続によって成り立つ活動を維持するためにも、記憶を統合し連続させるシンボル=名前が重要となっていく。
自分の名前を忘れてしまうと日常世界へは戻ってこれなくなる。
仮に昨日の記憶と今日の記憶が連続しない状態(例えば痴呆などで)となってしまうと「わたしはこういう人だよ」と語るのさえ難しくなる。
「わたしはこういう人だよ」という「わたし」を語って自意識を連続させることも出来ず、ものの名前も失われていって、日常との連続性が失われると、「わたし」という意識はどんどんとぼやけてしまう。
分厚いステーキを食べるのは誰だ
それぞれの細胞が、単体あるいは集合的に生命維持のために動き、その全体最適の結果としても、僕等が言葉を使って自分や外界に「名前」をつけたりすることの結果としても、「わたし」という自己同一性=「身体や精神を常に同じような状態に安定させようとする恒常性」を機能させてしまう。
微生物のようなものを身体に住まわせなければ機能しない「わたし」の身体。
外界との世界と接続していて常に中身が入れかわらないと機能しない「わたし」の身体。
言葉が失われてしまったら途端におぼつかなくなる「わたしという自意識」。
生物なんて遺伝子の乗り物だ、と進化生物学者・動物行動学者リチャード・ドーキンスは言ったけれども、「わたし」は微生物の乗り物でもあったりもするし、「わたし」を通過するものたちの一時的な滞在場所でもある。
その「わたし」はというと、
そんなおぼつかなさをよそに、今ゲップをしながら、中年太りのお腹をさすりながらステーキを食べている。
「昨日のわたしと今日のわたしが同じだ」と勘違いしながら。