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不安な気持ちで隠していたほんとの気持ち

先日、所属している吹奏楽団のイベントMCをしました!
わたし的にはチャレンジだったのですが、「よかったよ!」「おつかれさま!」といろんな人に声をかけていただいて、思い切ってやってみてよかったな、と思いました。

なんか不安

でも家に帰ってから、自分が不安を感じているのに気が付きました。
「期待されていたものをお見せできたんだろうか?」みたいなのがあって。
本番中は、自分が心地よく輝けるMCをしようと思っていたんです。
弾けた感じでやっても良かったんだけど、華やかさと落ち着きを兼ね備えた、凛としたMCがわたしは好きだし、わたしが適正あるのはそういう雰囲気だと思います。

弾けた感じはわたしのトーンには合わなくて、それを出してしまうと後々自分の首を絞めることになりかねないです。
「弾けた感じでMCできる人なんだ」という印象がついてしまって、それを求められるようになると無理し続けることになってしうのでそれは避けたかった、、、!
だから70%くらいの出力感がよかったのです。

比べてしまう

一緒にMCをした人は、元気な感じでやっていて、明るくて可愛くて華があった。
子ども向けのイベントだったから、そういうテンション感のほうがあっていたんじゃないかな、、、とか思うと「こういう人が選ばれるんだろうな」って思って、劣等感が刺激されてしまったんです。
人と比べられて自分を選んでもらえないことが、わたしは不安みたいです。

わたしは中学の時に放送局をやっていて、「聞き取りやすい」「上手!」といろんな先生から褒めてもらっていました。
体育祭の司会でも保護者の方々から「あの子、上手い」って注目を浴びたり。
高校生の時も、何度かマイクで話す機会があって、そこでも先生から「上手だし、頼もしい感じがした」と言っていただけて。
自分で言うのもあれなんですが、学生時代は原稿を読むことにわたしの右に出る人がいなかったのです。

本当は?

ここまで書いてみて思ったのは、「マイクを通して原稿を読むのが好きで、やりたいんだな」っていうこと。
自分のやりたいことをやりたいって言うのって、恥ずかしいし、どう思われるかが気になるし、そこに評価がついてこなかったらやっぱりショックだし。
自分のやりたいっていう気持ちに必ず肯定がついてきて欲しかった。
でもそれは必ずついてくるとは確証できないし、人間って確証のないことってできればやりたくないものじゃないですか。

だから「やりたい!」を拒否するために不安を出していたんだな~と思って。
今までは「やりたい」と言うことが自分にとって不都合だったんです。
でもいつのまにか、不都合だと思うことが不都合になっていました。
今までだったらその方法で回避してこれたけど、今のわたしは不安の奥の本心を掴むスキルも知識も手に入れてしまったので、自分が本当に望む方に行けるんですよね~。

視野を広く

自分が選ばれるか選ばれないか、でモノを見ていると窮屈だ。
もっと広く見よう。

わたしは原稿を読みたい、マイクを持ちたい。
機会があれば引き受けてやっていこう。
そこに評価されない不安があってもいいし、評価が欲しいなら求めよう。
やりたいって思っていいんだよ!

一緒にMCをした人は子どもと関わる仕事をしているからそういうテンション感に慣れている。
普段子どもと関わることがないわたしには、その差を埋めることなんて到底できないし、埋めようとする必要もない。

そもそも「こんな雰囲気で」とか指定されたわけではないから、わたしの不安は悩みすぎ、考えすぎなんだよね。
依頼してくれた人は、手が空いてる若い子二人にお願いしよう、みたいな感じだったと思うし。
わたしが依頼者側だったら、若い二人の手が空いてるならお願いしたいし、もし失敗したとしても「がんばってくれてありがとう!」でしかない。

それに、わたしの強みは表に立つこと以上に、繋がりを見出だしたり人をサポートすることにだから、いくらでも力を発揮する場はある。
表に立つことは、できたこと、なんだから「こういうこともがんばります、できちゃいます!」っていう姿勢でいいんじゃないかな。

本当に、人生って悩みも不安も尽きないですね!!

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