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怒りをぶつけてくる人への接し方┊︎人の顔色を伺うあなたへ
自分の感情を受け止めることができず、怒りとして人にぶつける人っていますよね。
それはあなたの親かもしれないし、上司かもしれません。
わたしの父はまさにそういう人で、「教育のための暴力は正しい」と正当化しながら家族を支配している人です。
父の機嫌次第なので、いつだれがボコボコにされるか分からない。
父がいつ暴れるか怯えながら、機嫌をとろうと幼少の頃からわたしたち兄弟は必死に頑張って生きてきました。
他人の顔色を伺いながら、常に緊張して生きている人は多いのではないでしょうか。
その努力は長く続きません…。
必ず限界を迎えます。
わたしも疲れ果ててしまいました。
そんな状況からなんとか脱そうともがくなかで、こんなことを教えてもらいました。
察すると相手の成長の機会を奪う
衝撃でした。
だって「わたしが察せないから、いい子じゃないから怒鳴られるんだ」と思っていたから。
そうやって気を使って先回りしていると、相手にとっては、「やってもらって当然」の状態になってしまうのだそうです。
例えば、親が怒らないように気を付けていたら、親としては「機嫌をとってもらうことが当たり前」になるわけです。
ここで親が当然!と自覚しているかは置いておいて、「機嫌を取る人と取られる人がいる」という家族のシステムができあがっている事実を認めることがポイントです🍃
「やってもらって当然」の状態だと、自分の感情をぶつけていい器があるという認識になります。
そこにぶつけ続けるんです。
こちらが察して耐えることで、相手は自分の誤ちに気づくどころか、どんどん子供返りを起こしていきます。
このことを心理的退行と呼ぶそうです。
疲れ果てている人は「察する」をやめていく必要があります。
でも「察する」は頑張ってきたわたしたちにとって生存戦略であり、簡単に手放せるものではありません。
いつかは誰かの感情のゴミ箱の役割を放棄する、と見据えておくのは必要かと思いますが…!
いきなり手放すのは不安だし、手放すのを抵抗する気持ちも湧いてくるはずです。
まずはこの辺りの問いをとっかかりにしてみてはどうでしょうか?👇🏻
・どうしてこの生存戦略を選んできたのか?
→この選択を、その時の自分ができる精一杯の選択であったと認め、称えましょう
・どんな体験に傷付いてきたのか?
→過去の体験からなにを感じたのかありのまま書き出してみましょう。出来事や人生、自分に対して、どんな意味付けをしていますか?(人はどうせ裏切る、など…)
・本当は相手になにをしてほしかったのか?
→怒りをぶつけられるのではなく、あなたがどんな言葉、どんな態度を相手から向けて欲しかったのか受け取ってみてください。本当に望んでいることを、自分自身にしてあげてください。