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自然の古今東西


<自然の古今東西>

現代人が使う「自然との共生」という言葉には疑問が多い。西洋思想は「自然」と「人間(人工)」を分けて考えるから「自然との共生」という言い方ができるのであって、本来はずっと自然と共生し続けている。だから、人間が一方的に自然資源の浪費をすれば、他の生命たちは姿を消し、人口が増え、そして人類は危機に陥っている。

レイチェル・カーソンは「国家の真の富は、大地や水、森林、鉱物、野生生物など、自然の恵みにある」と言ったように。人間ほど「自然を強く愛している」ものはいないが同時に「破壊・消費している」ものもいない。

そもそも「自然」と「不自然」という概念は生物学ではなくキリスト教神学から生まれた。「自然」という言葉の神学的意味は「自然を創造した神の意図に一致した」ということ。キリスト教神学者たちは私たちの手足はそれぞれが特定の目的を果たすことを意図して創造したから、それに一致している場合は「自然」で、神の意図と違う形で使えばそれは「不自然」となる。

だが、現在の進化生物学では進化に目的も意図もない。手足などの器官は目的を持って進化してきたわけではなく、その使われ方は常に変化してきた。人体の器官のなかでその原型が何億年も前に初めて現れたときに果たしていた役割だけを今も果たしているものは一つとしてない。進化して特定の機能を持つことはあるが、他の使われ方もする。

昔考えられていたように、どうやら生物たちは生態系という一つのシステムをなしているわけではなく、それぞれの種を維持するための社会組織があるわけでもないらしい。

ドーキンスの「利己的遺伝子」で説明されているように、生物の個々の個体はそれぞれが自分自身の遺伝子を持った子孫をできるだけたくさん残そうとして努力しているに過ぎないようだ。そのためには子殺しや捨て子、同種間の奪い合いや競争など人間から見れば残酷な行動も辞さない。生物界では肉食も当たり前だし、助け合って種族を維持していこうなどという様子は見られない。人間社会の倫理や道徳が通用しない世界なのだ。

今日の共生者たちはお互いにうまく適合しているように見える。しかしそれは、初めから互いにうまく助け合いましょうね、と行って始まったことではない。お互いの利己的な遺伝子によるせめぎ合いが続いた結果、みごとな共生が生まれた、と考えられている。

自然界に見られる見事な共生関係が、実は生物間の利己的な論理のせめぎ合いの結果として偶然生み出されたのだとすると、人間の論理だけで作り出された美しい緑の庭はけっして共生とは言えないだろう。それは「擬似共生」にすぎない。人々が擬似共生を「ほんとうの共生」だと思い込んでしまうようなことになったら、人間と自然、人間と環境の共生など、ますます遠のいてしまうだろう。

人間は人間の論理で生きてゆくほかないのかもしれない。いや、人間には人間の論理しか考えることができないし、他の生命たちの論理を確かめる術はない。しかし同時に、そこに他の生き物たちの論理があり、分からない宇宙の論理もあるのだということを忘れてはならない。

人間以外の論理は排除したり、無視するのが楽であり、その方が有能さを感じ、整然として美しく見えるかもしれない。しかし「ほんとうの共生」とは、異なった論理のせめぎ合いの中で生まれてくるものであり、そうであるからこそ、今までにはなかった異なった新しい美も、誰もが予想できなかったような新しい価値も生まれてくるのかもしれない。

東洋思想においては時間も空間も天地・山川・動植物・人間も、「おのずから」そこに「しかるべく」あるものとして日本人は受け入れてきた。それが日本語の「自然(じねん)」であって、そういう自然的な世界観の中に人間も神(カミ)も含まれた一つの存在だった。

その神には風神や雷神のように、人間の能力や知恵を超越した力を持った畏怖すべき不思議なものも含まれているし、アニミズムのカミ・八百万の神ももちろん含まれている。その神々を丁寧に祀ることで、その心を和らげ恐るべき力を鎮め、その加護を祈るというのが、神々への対し方なのである。

草木や木の実を採取することを「刈り」、獣や魚を捉えることを「狩り」、これらはすべて神様から「借り」ることに通じる。百姓の農という暮らしや生き方は自然(じねん)そのものだった。

また人間も自分自身だけではなく、世間(顔見知りのコミュニティ)だけではなく、先祖は先祖霊や祖神として含まれ、子孫はその魂の生まれ変わりとして含まれていた。さらに言えば、会ったことがない人々も無縁の人々も含まれた一つの生態系として自然(じねん)は考えられていたのだ。

古代中国の書物によれば宇宙とは「宇」が四方上下の空間を意味し、「宙」は過去から今そして未来への時間の流れを意味する。宇宙とは「時空がつながって一体となったそのもの」を意味する。決して分けられるものでなかった。

孟子の「天の時、地の利、人の和」という言葉は「天は時間の流れを示し、地は空間の広がりを示し、人は天地の間でさまざまなつながりの中で生きている」という意味である。

つまり太陽や月の動きが、地球の大気・水を動かし、生命を育み、ヒトはそのつながりの中で生きているのだから、決して分けることができない。だから古代から人々は天の動きを読んで、暦を作り農作物と人生の吉凶を占ったし、風水を用いて地の利を最大限に生かそうとし、そしてヒトはその流れに沿って生きることが幸福に繋がると信じていた。ヒトは天地自然である大宇宙の中の小宇宙であり、相互に有機的なつながりを持ったモノと考えられていたのだ。

東洋思想において「氣」とは森羅万象・天地自然に遍満するエネルギーであり、万物を生み出す源のことを意味している。その氣はヒトと自然、ヒトとヒト、ヒトとモノ、モノとモノのさまざまな関係のなかに存在し、お互いに影響を与えあっている。関係性の中で元氣になったり、精氣を養ったり、氣を病んだり、やる氣になったりする。東洋医学ではこの氣を流れを整えてあげることで症状を癒していくように、農家もまた天と地、ヒトとモノの間に流れる氣を整えていく。東洋思想における多様性とは「氣のつながりによる調和」そのものである。ひとつが全体であり、全体の中にひとつがある全体論の意味は多様性のつながりがあってこそ価値がある。

私は20代前半の頃、西洋思想(宗教を含む)や哲学に興味を持ち、大学の図書館で本を漁っていた。気がつけば私はそれらの本を読まなくなった代わりに、奥山を原生林の中を歩いて旅をしていた。ときに山岳民族に会い、ときに他のハイカーに会い、ときに山奥に暮らす百姓と会った。

気がつけば、私は「自然と調和した存在になりたい」とか「自然と共生した暮らしがしたい」とばかり考えていたが、実際に田舎に移住し、自然農を始めるまで私は「ほんとうの自然」というものが何も分かっていなかっただ。しかし、自然農のある暮らしにおいて旅で出会ったすべての存在が、すべての物語が活きていることに気がついたとき、私は運命について想いを巡らせた。

人生においてすべてが偶然で、すべてが必然である。それが「自然そのもの」である。私は長い旅の中ではそれを教わり、私を含め、旅人たちはそれを運命と呼ぶ。片方が縦の糸で、もう片方が横の糸であるかのように運命は織り重なり、不確実な未来を彩っていく。

希望は必然の中になければ、偶然の中にもない。しかし、必然の中にありながら偶然の中にある。まるで運命のようだ。だから私たちは人生に希望を持つ。それはときに自分の手で掴み取ったようにも思えるし、分からない存在が与えてくれたかのようにも思える。しかし、私たちは欲望を希望と言い間違えたり、目的を希望と勘違いしたり、期待を希望とすり替えてしまう。

ほんとうの自然には計画性も確実性も予定調和もない。しかしどこか共生しているように見え、どこか調和に向かっているように思える。それを人類は運命の物語かのように語り続けていくのである。そしてそれを誰かがまた受け継いでいくのである。永遠に終わらないかののように希望を抱きながら。


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