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自己否定をやめるための100日間ドリル 坂口恭平さんの本

6586文字

僕は、坂口恭平さんの本が大好きである。
発売される本は、欠かさずチェックしている。

今回紹介する「自己否定をやめるための100日間ドリル」も、つい最近出たばかりなのだが、一見自己否定と関係なさそうな僕であっても、大きな気づきがあったことに感動してしまった。お世辞抜きで歴史的名著だと思う。

これは「死にたい」という凄まじいレベルの自己否定をしてしまう人でなくても、心に何かしらの傷を負った人間であれば誰しも共感することなのではないかと感じている。

そのような点も含めて、自分なりにまとめてみたい。

STEP1 自己否定とはなにか

この章では、躁鬱病の坂口さんが自分自身を観察することから見えてきた、自己否定の正体について言及している。

①「悩みが苦しすぎて、それで息が詰まって、こんなに苦しいなら死んだ方がましだ」

②「お前みたいな無価値な人間は、この世からいなくなればいい」

P17より引用

①の場合は、悩みすぎて苦しくなっている状態であるので、休息を与えるなど楽になる方法を周りの人から与えてあげれば、少しずつ回復すると書かれている。

ただし、①の場合は、休息を与えられても休むことができず、実際は②のような状態になっていることが死にたくなっている人の特徴だそうだ。

この次に続く部分が、僕にとっても気づきがあった内容となっている。

死にたくなっている人みんなにこんな質問をしました。
「お前みたいな無価値な人間は、この世からいなくなればいい」と誰かあなた以外の実在する人に言ったことがありますか?

答えは全ての人が「NO」でした。
(中略)どんなに仲が良くない人にですら言ったことがありません。
(中略)それなのに、自分自身には毎日言っているのです。

P22〜23より引用

この部分は、「なるほど〜」と唸ってしまった。
また、これは「死にたくなっている人」についての考察であるが、僕はコンプレックスを持っている人など幅広く該当するのではないかと思った。

僕の場合、あまり人混みが得意でないという悩みがある。なぜなら、大勢の人から何か視線を感じるというか、悪口を言われているのではないかと深読みしてしまうからである。より詳細に書くと、顔がイけてないとか、服装がおかしいとか、そういう類いに起因する。

もちろん、日によっても感じ方は違うし、そんなはずはないと分かっているつもりだったのだが、この部分を読んで理解が劇的に進んだ。

この他人から何か思われているという被害妄想は、とどのつまり、自分が自分に対して厳しく罵倒していることなのである。要は、自分を認めていないし、自信がないのである。究極は、自分を愛していないのである。

だから、「ちゃんとしないと」となっているのである。ちゃんとしないと他人の目をした自分に怒られてしまう。そして、ビクビク怯えている。

いつから、こんな性格になったのかと考えてみると、幼稚園の頃からその傾向はあった気がする。僕は当時から幼稚園の先生に、異常に落ち着いていて手のかからない子だと言われていたようである。

自我の記憶があるのは、中学校へ入学してからだった気もする。全く知らない小学校から、見知らぬ生徒が一挙に集まる中学校。この多感な時期に何かあったのかもしれない。

STEP2  自己否定を書き出す

僕は普段からそこまで自己否定することもないが、敢えて自己否定してしまうことがあるならばで、箇条書きでまとめてみる。

・鼻が曲がっている。
・唇から鼻下にかけて、傷跡がある。
・髭が濃い。
・顔がのび太みたい。
・服装がおかしいのではないか。

僕の自己否定は、外見についてのことが多い。
では、これを他人に言うだろうか。

「鼻曲がってるで〜」
「唇から鼻下にかけて、傷あるな〜」
「髭濃すぎて不潔やで、脱毛したら?」
「のび太みたいな顔やで」
「服装おかしいで」

まあ、普通は言わない。

「髭濃すぎて不潔やで、脱毛したら?」
「のび太みたいな顔やで」
「服装おかしいで」

に関しては家族から言われたことがある。
要は、関係が近いからこそ、真に受けているわけである。

私の場合は、ですが、私は他人の欠点をなかなか見つけることができません。その人が、自分の欠点と言っているところですら、私には欠点に見えないんです。

(中略)なぜなら私たちはそのように他人を粗探しするものだと思って見ていないからです。もちろん、褒めるところしかないわけでもありません。そのような羨望の塊としても見てないからです。どちらにも偏らず、平熱のような感じで眺めている、という感じですよね。それが他人を見る目です。

(中略)私たちは、他人の文句を言わないどころか、口にしないだけでなく、本当に心の底から他人を「否定していない」のです。

P34〜35より引用

意地悪に自分を見ていて、「私なんてどうでもいい」と思っている感覚に気づくことが大事だと坂口さんは言及している。

STEP3  第三者を登場させる

この章では信頼できる人、つまり第三者をこの自己否定世界に登場させることで、あることに気づかせてくれる。

それは、皆さんが自己否定をしているわけではない、という事実です。
まず、今、この教材を読んでくれている「あなた」がいますよね。

(中略)「あなた」は自己否定に「困って」います。
(中略)それをなんとかするためにこの本を取ってくれたわけです。

(中略)あなたは今、自己否定をしていませんよね?むしろ、自己否定に困っている側です。つまり、こう言えるでしょう。あなたは誰かに罵倒されて困っている。

(中略)でもそうじゃないとこの本を読んでいないはずです。あなたがもし罵倒している側であれば、この本は手に取らず、無視するはずです。

P56〜58より引用

この部分は哲学っぽいが、確かに自己否定されているから、この本を読んでいるわけで、体の中で隠蔽するように行われている「いじめ」があるように感じる。果たして、誰なのか?これが STEP4 に続く。

STEP4  あなたを否定するのは誰か?

この章では、具体的に坂口さんのエピソードも交えて、幼少期に母親から否定されたことが解説されている。

この過去に否定された経験から、私たちは「自己否定」を学んでしまっているという。

ここで重要なことは、自己否定の原因になった具体的な「誰か」がわかったとしても、決してその人を今の私たちが糾弾しないことであるという。

自己否定はあくまでも自分の問題であり、他者の問題ではないということである。

ここで、僕は幼少期に否定されたことがないか、振り返ってみたいと思う。密接的に自己否定と繋がっているかは分からないが、思い当たる節はいくつかある。

僕の場合、父と母の両方である。

父親は気性が荒く、気に食わないことが起きると、家がめちゃくちゃになるくらい暴れまわる人だった。夫婦で喧嘩することも日常茶飯事で、自分がその標的にされることもあり、父親の機嫌が悪くなる度に号泣していた記憶がある。

それからというもの、僕は父親の顔色を窺うようになった。今は機嫌の良い時かそうでない時か。何か余計なことを言って、機嫌を損ねないか細心の注意を払った。

一方、母親は父親に泣かされてばかりだったが、母親もまずいところがあった。一家でテレビを見ていると、「あの芸能人は歯ガタガタやな」とか「整形してるわ、絶対」など子どもの前で平気で言う人だった。

僕は、会ったことも話したこともないのに、Mrs. Green Apple の顔が嫌いだと話すことがある。(本当にすみません...)また、嫌いな雰囲気の古着系 Youtuber もいる。

これは、母親から「あの芸能人は歯ガタガタやな」とか「整形してるわ、絶対」などと他人を否定することを知らず知らずのうちに学んでしまっているのではないか。

あるいは、父親の顔色を窺っていた頃から、人の表情に異様なまでに固執してしまっているのではないかと気づいた。

そして、裏を返せば、僕は Mrs. Green Apple のような周りからチヤホヤされ活躍するアーティストに本当は憧れているのではないか。あるいは、本当は古着を売りたいのではないか。それは、本当は嫉妬なのではないか。

また、もう一つ気になることがある。それは、恋愛や結婚についてである。

僕は今までほとんど彼女がいた経験がないのだが、彼女が欲しいとか結婚したいという願望が自分でもビックリするほどないのである。(恋愛はしたいのだが...)

これも知らず知らずのうちに、「お前が恋愛して何になるんだ」とか「お前が結婚して幸せになってどうする?」という感情が深層心理にあるような気もする。

その根底には、両親の結婚生活の地獄をまざまざと見せつけられた幼少期の僕がいるからではないかと疑っている。(全てを両親のせいにするのも良くないが...)

そのようなことを色々考えた。

STEP5  元気な時の自己否定

この章では、鬱の時とは逆に躁状態の時の自己否定について、坂口さんが解説している。

元気な時に発生する見えない形の「自己否定」。それが「もっとできる」という考え方です。

P90より引用

「今のままのお前ではダメだ。もっとできるようにならないといけない。今の状態で満足してはいけない。うまくいったからといって油断してはいけない。いつうまくいかなくなるかわかんないんだから」

(中略)
これは「いつかダメになってしまうかもしれない」という「恐怖心」です。

P93〜94より引用

自己否定をする人であれば、元気な時にはもっとやりなさい、と言っているはずなのです。だからとことんやってしまいます。それで結局は疲れが溜まって、体が動かなくなります。そして、鬱状態へ向かっていくのです。

(中略)
現状に満足できない、のではなく、現状をまったく無視しているのです。

P96より引用

断片的に引用したが、躁鬱病のメカニズムを研究している坂口さん凄すぎである。躁状態では現状を無視し、頑張りすぎてしまい、鬱状態へ向かっていく。これが元気な時の自己否定か、なるほど。

STEP6  自己否定と葛藤

僕的にこの章が一番肝のパートだと思っている。引き続き、引用しながら考えてみたい。

(中略)
つまり、自分で無能力だと自覚していること、そして関心のないことに関しては自己否定しません。

(中略)
あれ、変ですよね。自己否定はお前はダメだと言いたい力のはずですが、最初から能力がないとわかっているようなことには効果がないんです。

P238〜239より引用

(中略)
つまり、自己否定は、自分の中のどうでもいい部分(つまり、ここでは元野球部で野球をやっていた)には発生せず、どちらかというと自分の中の大事な部分(ここでは作品を作って売る仕事をしていること)についてやたらと厳しく起きてしまうのです。

(中略)
つまり、自分が肯定していることを、自己否定してしまう。

P244〜245より引用

なぜ、自分が好きなこと、やり続けたいこと、自分の長所、にだけ自己否定が発生するのか。それは野球のことで自己否定しても、議論にならず、すぐ話が終わってしまうからです。そうではなく、永遠に自己否定を続けたいような感じがします。つまり「葛藤」を起こすことが目的なのです。

P246〜247より引用

(中略)
STEP4 までの手順で、自己否定を俯瞰した目で、しかも他者の風を吹かせて観察していくと、自己否定をしてくる「誰か」が少しずつ躊躇するようになり、自己否定が弱まって行きます。この「葛藤」がなくなってしまいます。

(中略)
自己否定を待ちに待つという姿勢になると、このように葛藤自体が発生しなくなっていくのです。

(中略)
葛藤が起きている間は、自己否定に抵抗し、自分を鼓舞する力を出すことに集中しなくてはいけません。

(中略)
葛藤という作業に夢中になることで、何かを直視することから避けているのではないか。私はそんなふうに感じるようになっていきました。

P253〜254より引用

この引用した部分は、かなり納得した。自分が大事だと思っている部分を自己否定し、葛藤を起こすことが目的となっている。つまり、葛藤するものというのは、自分が決してどうでもいいとは思っていない大切なことなのである。

これは、自分の中で気づきを得るためのスクリーニングとして使えるのではないかと感じた。

STEP7  自己否定の正体

この章では、自己否定の正体に坂口さんが迫っていくパートになる。それは何だったのか。

自己否定=さびしさ、ではありません。
自己否定=葛藤です。

自己否定はとにかく葛藤を生み出すために行なっていました。その葛藤は、さびしさを隠すためにあったわけです。

P264〜265より引用

坂口さんの場合、幼少期に感じていた「さびしさ」が根本にあったという。それを隠すために葛藤を引き起こし、自己否定していた。

つまり、自己否定とは、皮肉にも自分を守るために自分でしていた行為だったのではないかと感じた。

また、坂口さんは「さびしさ」という具体的な表現で言及していたが、やや抽象的な表現に変えると「心の傷」とか「心の穴」ということではないかと思った。

幼少期というのは、心も体も非常に傷つきやすい時期である。逆に言えば、傷つくことで強くなっていく。だからこそ、傷ついた傷口や穴はしっかりとケアしてあげないといけない。埋めてあげないといけない。

しかし、何か環境的な問題により、そのケアが適切に行われない場合、「心の傷」や「心の穴」は実際にはあるにも関わらず、「ないもの」にされなければならない。そのようにして、人間は難を乗り切ろうとするのではないか。

さびしい時には、さびしさを感じた時に、その瞬間に、さびしい、と口にすることです。

P272より引用

坂口さんも言及しているように、さびしい時には「さびしい」と口にする。言い換えれば、痛みを感じた時には「痛い」と口にするということではないか。

しかし、どこかのタイミングで不幸にも、「お前がさびしいと感じていること自体が間違いだ」と自分に思い込ませてしまう。これは、それをどのように防ぐかという教育論にまで発展しそうな内容だと深く感じる。

STEP8  一人ではなくなる

いよいよ最終章である。

イライラを相手にぶつける、これはつまり、自己否定の波に乗って自分を攻撃することと同じです。

P290より引用

多少前後するが、イライラの正体もここで登場している。イライラを相手にぶつけるというのも、自分自身を攻撃していることのようである。

では、どうすればいいか。それは、イライラしているという感情に自分で気づいてあげて、ちゃんと認めてあげて、それを口にするということではないか。このことは、後の引用にも繋がってくる。

自己否定がはじまると、それは幼年期の「私」が「話を聞いてほしい」と呼んでいるのです。

P284より引用

自己否定のメカニズムを知ると、押し入れの中に幼年期の「私」が今も生きて存在していることに気づきます。

P287より引用

一人でいる時間とは、つまり、幼年期の「私」と話をしている時だからです。

P293より引用

一人でいる時は一人ではないのです。一人でいる時は、いつもずっと隣に幼年期の「私」がいるんです。

P295より引用

自分の中には、過去の自分(たち)がいる。坂口さんはもう一人の自分と言及していたが、僕は自分はたくさんいると考えている。

そのように考えると、自分にいつも正直でいることが極めて重要なのではないか。なぜなら、過去の自分という事実は、変えたくても変えられないからである。言い換えれば、自分を偽って生きていくと、どんどん未来の自分が苦しくなる。

ただし、今からでも遅くはない。その今という時点から、過去に傷ついた自分、さびしさを感じている自分を認めてあげる。話を聞いてあげる。そうすれば、今からでも未来は少しずつ変えられる。

話は変わるが、よく一人旅をすると、人生観が変わると言う。

見知らぬ土地で、勝手も分からぬルールに従い、ひとり孤独に過ごす。

ここまで読んできて、なぜ一人旅が良いのか深く理解することができた。

それは、一人旅と銘打った「過去の自分たちとの旅」なのである。

過去の自分たちと対話するのが、一人旅なのである。

また、一人旅しようかな。

FIN.

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