田中豊著『儒学者 兆民 「東洋のルソー」再考』の序章を全文公開
*
序章 「東洋のルソー」はルソーなのか?
一.「東洋のルソー」
「東洋のルソー」。明治の思想家である中江兆民に冠せられたこの名辞は、とりわけ人口に膾炙している代名詞であるといえる。それゆえ、ルソーが没して百年の後の明治の時代に生きた兆民は、ルソーの存在を無視して語り得ないのかもしれない。ところで、そもそもなぜ兆民は「東洋のルソー」と呼称されているのか。まずは、兆民の経験を簡単に振り返ってみよう(1)。
後に、「億兆の民」を意味する「兆民」と号する中江篤介(1847-1901)は、1847(弘化4)年に土佐国山田町(現在の高知県高知市はりまや町)に生まれた。幼名は竹馬といった(篤介の「篤」の字は竹と馬から成る)。父は土佐藩足軽で元助といい、母の名は柳。「兆民」の他に「青陵」、「秋水」、「南海仙漁」などの名義で論説を発表している。1862年に土佐藩の藩校文武館に入り、四書五経など儒学を学ぶ。同じ頃、陽明学者の奥宮慥斎(1811‐1877)に就き、『伝習録』、『王陽明全集』などで陽明学を学び、さらは『荘子』や禅についても積極的に学んでいる(2)。また萩原三圭や細川潤次郎に就き蘭学、洋学も学んだ(3)。細川潤次郎の推薦をうけて、英学修業のために長崎に派遣されるが、結局フランス学を平井義十郎のもとで学ぶこととなった(4)。長崎では、当時海援隊を組織していた同郷の先輩である坂本龍馬(1836‐1867)に出会い深い感銘を受ける。愛弟子であった幸徳秋水(1871‐1911)の『兆民先生』によると(5)、兆民は「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に届せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、「中江のニイさん煙艸を買ふて来てオーせ、」などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屢々なりき」と、龍馬のために買い物に遣わされたこともしばしばあった(6)。長崎滞在の後、江戸へ出て村上英俊の下でフランス学やフランス語を学ぶ。村上英俊(1811‐1890)は、もとは信濃松代藩医であり、佐久間象山のすすめでフランス語を独学し、『仏語明要』などを編んだ幕末から明治にかけてのフランス語学の泰斗であった(7)。フランス学の始祖として名高い人物の門を叩いた兆民であったが、素行不良のためすぐに破門されている。1867年には、仏国領事の通訳として大坂・神戸へと転じているうちに、明治維新を迎える。維新後の兆民は、箕作麟祥(1846‐1897)が主宰する塾で学んでいる。また学生としてだけではなく、福地源一郎(1841‐1906)が主宰する塾では塾頭としてフランス学を教授していた(8)。
海外留学の志を長らく抱いていた兆民は、大久保利通(1830‐1878)に直談判することに成功し、晴れて1871年に岩倉具視使節団の一員としてフランスへ留学するに至った。翌年にフランスに到着し、既に滞在していた西園寺公望(1849‐1940)と現地で交流を深めている(ここでの交際は、帰国後の「東洋自由新聞」の創設につながる)(10)。その後、リヨンに転じパレーなる人物(11)から、大学入学資格試験の準備として普通学(語学や一般教養など)を学ぶが、結局大学には入学していない。さらには、井田進也によれば確証的な証拠はないけれども、在野の法律学者であったエミール・アコラース(Émile Acollas 1826‐1891)にも学んでいる可能性があるという。兆民のフランス留学時代の生活を詳細に検討した井田は、師事しなかった事実はないとしてこの点を積極的に認めている。アコラースは、ルソーの人民主権論に批判的であり、これを展開した Philosophie de la science politigue は兆民にも少なからず影響を与えた(12)。
1874年に帰国し官職に就いた兆民は、文部省(1874年)、東京外国語学校長(1875年)、元老院(1875年)と短期間で職を転々としている。なお、この頃にジャン=ジャック・ルソー (Jean=Jacques Rousseau 1712‐1778)の Du Contrat Social ou Principes du droit politique(以下、『社会契約論』と称す)の最初の翻訳である「民約論」を脱稿している(13)。この「民約論」は漢字仮名まじり体で書かれており、出版されずに写本の形態で植木枝盛や河野広中など民権家たちの間で閲覧されていることが認められている(14)。また、この時期に兆民の思想活動が本格的に始まったといってもよく、元老院時代には勝海舟(1833‐1899)の斡旋により島津久光(1817‐1887)に、西郷隆盛(1828‐1877)を担ぎ上げてのクーデターの敢行を唆した、いわゆる「策論」(この文書については、本書第五章で扱う)を献上した。
1877年には官を辞し、在野にくだり帰国直後に既に開塾していた仏学塾の経営に専念する。「仏学塾規則」には、モンテスキューやルソーのような西洋書のみならず、「明清律大宝令文章規範ノ講義」とあることからも、この塾では「和漢書」の講義も行われていた(本塾ハ仏蘭西書和漢書ヲ以テ法学文学ノニ科ヲ教授ス」)。そして、仏学塾の機関雑誌『(欧米)政理叢談』に掲載されたのが『社会契約論』の二度目の翻訳「民約訳解」(以下、『訳解』と称す)であった。仏学塾が民権学派としての旗幟を鮮明にするために発行された雑誌『政理叢談』に、『訳解』は第二号から第四六号まで途中の中断もはさみつつ掲載された。『社会契約論』を翻訳しルソー流の人民主権論を広く日本に本格的に紹介したとみなされる兆民は、当時の自由民権運動に多大なる影響を及ぼした人物として高く評価され、かつルソーの深い理解者として「東洋のルソー」という名辞が冠せられるに至った。
現在においても兆民を指す表現としてよく親しまれているこの言辞の背景には、兆民の思想に対する次のような認識が孕んでいる。第一に、『社会契約論』を懇切丁寧に祖述したルソーの紹介者として、言い換えると『訳解』が原著の正確な翻訳書としてである。これによって、兆民は当時において『社会契約論』に対する群を抜いた理解者で、ルソーの政治思想を日本に紹介したフランス学者として捉えられる。第二については、『訳解』は和文ではなく漢文、すなわち非常に高尚な古代中国語によって執筆されたことに関わる。『訳解』が儒学の言語である漢文で書かれたことにより、西洋思想の概念は儒学思想を媒介にして翻訳され理解されたとみなされる。結果的に『訳解』は、日本に留まらず、中国や朝鮮半島においても読者を獲得するに至った(中国における伝播については本書の補論で詳述する)。これらを踏まえると、兆民を「東洋のルソー」と称するのは、もっともなのかもしれない。
ニ.先行研究
ルソーの『社会契約論』の明治時代における『訳解』以外の訳書は、服部徳『民約論』(1877年)と原田潜『民約論覆義』(1883年)の二つが存在する(先述の兆民が1874年頃に翻訳した『民約論』は、刊行されなかったため今は数えない)。前者は本邦初の原著の全訳であり、後者も全訳であると同時に『訳解』と同様に訳者による「覆義」、すなわち解説が付されている。ただし、フランス語に堪能でなかった服部の翻訳がしばしば論理破綻を起こしており、しかもそれを原田が参照したため、両著とも『社会契約論』理解という点においてその評価は著しく低い。
その一方で兆民の『訳解』は、服部や原田訳と異なり、現在に至ってもなお高く評価されている。例えば「名訳であり、しかも全体として驚くほど正確」(16)、あるいは「明治思想史の金字塔」(17)、あるいは「今日においてさえ、『社会契約論』理解の高さで群を抜く」ものとして(18)、さらには訳のみではなく解説も付されているという点から、「ルソオ思想として把握したものを能うかぎり正確に読者に伝達」したかったものとして『訳解』は受け止められている。このように『訳解』に関する先行研究の多くは、ルソーに対する群を抜いた理解とその翻訳の正確性をしばしば強調する。たしかに、「訳者緒言」で兆民自身が、「余蚤歳より嗜みて此の書〔『社会契約論』引用者注〕を読み、久々にして得るところあるを覚ゆ。乃ち取りて之を訳し、其の解し難き処は従いて之に解を加え、名づけて民約訳解と曰う」と述べていたように、『訳解』は自他ともに認める翻訳書であることに違いはない。
兆民がルソーの思想を的確に理解したうえで、『社会契約論』の訳出に臨んでいたことに異論はない。明治に存した先の二つの翻訳書と比較すると、兆民がいかにルソーの深い理解者であったかは、なおより一層明瞭となるであろう。とはいえ、『訳解』は必ずしも原著の忠実な翻訳であるとはいえない。そもそも『訳解』は、原著の全訳ではなく第二編第六章まで、すなわち次章の「立法者について」以降を訳出しなかった。しかも、こうした外見上の問題のみならず、原著には明らかに存在していない文章を加筆し、あるいは原文を任意に削除している場面もみられるのである。ただしそれは、兆民が服部や原田のような誤読を犯していたことを意味するのではなく、兆民自身による戦略であった。
このような原著『社会契約論』との差異については、たしかに先行研究においても既に十分に留意がなされてきた。しかし「ややもすればこの核心的な問題と直接取り組むことを避け、もしくはこれを遠巻きにしてきた観がある」との指摘もあるように(20)、『訳解』を無批判に翻訳書として捉える傾向は依然として強い。こうした問題を承けて、山田博雄『中江兆民 翻訳の思想』は『訳解』の全編にわたり詳細に原著と比較することによって、ルソーからの学習を通して形成された兆民の政治思想の根幹を浮き彫りにしている。このような作業は、兆民が原著の複雑な思想体系をいかにして整理していたのか、あるいはそうした整理の過程でいかなる読み替えが発生しているのかを明らかにしている。ただし同書の題が示すように、兆民が原著をいかに「翻訳」したのかという面に重点を置いているため、ルソーから乖離する兆民の姿については十分に検討が及んでいるとはいえない。また、兆民があてた訳語に焦点を当ててそこから兆民独自の思想を抽出するフランス語の文献もある(21)。
兆民はなぜルソーから離れたのか。本書では、兆民がルソーと袂を分かつ契機として、兆民の儒学思想に注目しつつ検討する。もっとも、兆民と儒学との関係についてはこれまでの研究においてもしばしば指摘されてきた。例えば米原謙は、兆民が『孟子』をはじめとする中国思想を素地としたうえで、ルソーを受容していたことについて詳細に検討していた。米原は、兆民に占める儒学の位置の重要性を夙に強調していたが、儒学が兆民にとってルソーを理解するための一つの手段として扱われている(22)。また宮城公子による次の一節は示唆的である。すなわち、兆民においては「在来思想」である儒学の上に欧米近代政治思想が接木されるといった単純な構造でなく、その文化接触の過程は「在来思想への回帰」であり、「新たな再構成」であった(23)。それでは、兆民はいかにして儒学の再構成を図ったのか。本書の課題は、これまで見落とされてきたこの点を明らかにすることである。
三.本書の課題
『訳解』において儒学がルソーを理解するための一手段だったとする従来の見方は、翻訳書としての『訳解』の姿を捉えるという点において、有益な視座を提供し続けてきた。儒学を媒介にルソーの政治思想を紹介したという理解に立脚すれば、『訳解』において西洋と東洋とを架橋せんとした兆民の努力過程を確認することができよう。ただし重要なことは、兆民において『社会契約論』と儒学との間で齟齬が生じたならば、優先されていたのはルソーの政治思想ではなく儒学の方であったという点である。したがって翻訳書の観点から『訳解』を捉えたならば、こうした差異は儒学を媒介とした西洋思想受容の限界を意味することになる。しかし、本書は翻訳の限界を確認するのではなく、むしろこの点に重点を置くことによって、『訳解』が孕む思想的意義に対してその根底から再考を迫る。つまり、兆民はルソーを紹介するための手段として儒学を位置付けていたのではなく、ルソーを介して儒学を展開する儒学者 であった。
『訳解』が『社会契約論』から乖離するのは兆民の誤読や誤解、あるいは儒学に基づいた翻訳という営為の限界ではなく、ルソーの政治思想という場においても儒学思想の普通性を確認していたためであった。ただし、その際に確信されていたのは、民が主権者となり得るということであった。もっとも、人民主権は『社会契約論』においても揺るぎのない大前提であったが、それは「立法者」や「市民宗教」によって担保されていた。一方で兆民の場合は、こうした外的装置がなくとも、民の個々の内面の修養によって「君」(主権者)たり得るとみなす。つまり、民は誰しもが聖人・君子たり得るのであり、それゆえ政治の主権者たり得る。逆にいうと、政治の主権者は、儒学のいう聖人・君子のような人格者であらねばならないのであり、それが『訳解』でみられる一貫した兆民の思想的な態度であった。要するに、朱子学のいう「聖人学んで至るべし」が、兆民にとって譲歩できない根本命題であり、これを以てルソーと袂を分かつことになる。この時、民はルソーのように悲観的にではなく、儒学の文脈に応じて聖人・君子のような存在として再構成されるのであった。
『訳解』における思想営為を考察することで、これまで見過ごされてきた『社会契約論』との格闘を通じた儒学者としての兆民の真骨頂をみることができよう。本書では、『訳解』の政治思想を儒学の観点から改めて眺めることによって、『訳解』を単なる翻訳書としてではなく、兆民による一つの思想作品として評価する。こうした作業に基づき『訳解』を捉え直すことによって、『社会契約論』の翻訳者たる「東洋のルソー」という従来までのイメージを刷新し、儒学者としての兆民を提示することが本書の目的である。
近代日本政治思想史研究における儒学は「啓蒙」たる西洋思想と対置され、「伝統」たる思想としてしばしば語られてきた(24)。そのため、従来の研究においても、儒学(「伝統」)を駆使してルソーの政治思想(「啓蒙」)を見事に描写する兆民の営為が強調されてきた。しかし、兆民は決して「伝統」に基づいた「啓蒙」の紹介者ではなく、また単なる「啓蒙」の賛美者でもなかった。そうではなく、これまで「啓蒙」と対置されてきた「伝統」たる儒学の普遍性をルソーの政治思想から見出そうとしていた儒学者としての側面をみてとることができるのである。したがって、兆民を扱うことは、「啓蒙」(西洋思想)と「伝統」(儒学思想)という従来までとられてきた近代日本政治思想史研究における枠組みを書き直すうえでも意義がある。
彼はルソーの政治思想から儒学の普遍性を確認せんとした儒学者たる態度を崩さなかった。それはすなわち、「啓蒙」と「伝統」という二元的な方法で、少なくとも兆民の思想を捉えることができないことを意味する。本書は、こうした図式から脱却して、従来「伝統」として把握されてきた儒学思想が西洋思想を受容するに際して果たした役割について、兆民という一人の思想家の視点から再考を迫ろうとするものである。
注
(1) 兆民の略歴については、松永昌三『中江兆民評伝(上)(下)』岩波現代文庫、2015年が最も網羅的でかつ実証的に詳述している。以下、専ら同書に依拠したうえで叙述した。
(2) 両者の関係についてはここでは扱わないが、この点は杉山剛『奥宮艦斎の研究-明治時代を中心にして-』早稲田大学出版部、2013年、193‐197頁で詳述されている。
(3) 萩原三圭(1840‐1894)は、幕末から明治時代の医学者。土佐高知藩の細川潤次郎に蘭学を、大坂の緒方洪庵にオランダ医学を学ぶ。のち長崎で医学校に入学。明治7年ドイツに留学。明治7年に東京医学校教授、同21年に宮中侍医局の侍医を務める。そのかたわら小児科を開業した。細川潤次郎(1834‐1923)は、幕末から大正時代にかけて活躍した法制学者、教育家。土佐高知藩士であり、藩政改革に参画し『海南政典』を編集している。維新後、開成学校権判事となり、新聞紙条例、出版条例を起草した。明治9年元老院議官、同23年貴族院議員、同26年枢密顧問官。女子高等師範校長、学習院院長心得などをつとめた。萩原と細川の経歴については「講談社 日本人名大辞典」講談社、2001年を参照。
(4) 富田仁の調査によれば、平井義十郎は1839年に長崎の唐通事の子として生まれ、長崎奉行の役人として外交文書の作成や翻訳に携わったが、彼が解した言語は英語と中国語であった。つまり彼において「フランス語の学習過程はまったく伝えられていないので、具体的に兆民が義十郎に師事したということをあきらかにする資料は見当たらない」。したがって正確には、平井義十郎がいた「清美館でフランス語を修めた」とみなす方が妥当であろう(富田仁『プランスに魅せられた人びと-中江兆民とその時代-』カルチャー出版社、1976年、70‐75頁)。
(5) 「東洋のルソー」は、ジャン=ジャック・ルソーと異なり自伝を残さなかった。そのため、兆民の伝記については、直接彼の謦咳に接した幸徳秋水による『兆民先生』がしばしば頼りにされている。この時期における兆民の動向に関する史料はほとんど残っていないため、秋水の証言に依拠せざるを得ない。また秋水はかって兆民の書生であり愛弟子であったように、直接師匠から聞き及んだ(と彼が述べている)内容が盛り込まれており、後世の兆民評伝の多くも往々にして秋水の証言に依拠してきた。ただし、ここでの弟子による師匠に対する評価には、多分に偏見が含まれていることも否めない(後述の、兆民を「革命の鼓吹者」と評する態度は、その典型である)。要するに、ここでの叙述は秋水の理念にしばしば重なり合うかたちで展開され、歪みが生じている場面がみられる。『兆民先生』が兆民の生涯の全容を描いているとはいえ、その内容に全幅の信頼を置くことができない点は、留保されるべきである。
(6) 別四四八。〔※この略表記は、岩波書店刊行の『中江兆民全集』別巻448頁からの引用を示す。以下も同様。―創元社note部注〕
(7) 『仏語明要』(1864年)は、「これまでの日本語対照の字書ではなく、西洋式A・B・Cの順序に単語配列がなされている」点において当時としては画期的な辞典であり、本邦初の本格的な仏和辞書と称される(田中貞夫『幕末明治初期フランス学の研究〔改訂版〕』国書刊行会、2014年、186頁)。
(8) 秋水によると、兆民は福地のことを教育家ではないと手厳しい評価を下している。それは兆民の仏学クラスには多くの受講者がいた一方で「福地先生は屢々吉原に遊んで帰らざるが故に、英学の生徒漸く散じ」る状態にあったためであった。しかしその兆民も「窃かに近傍の稽古所に通ひて、杵屋の三絃を学」んでいた(別四四九)。
(9) 兆民が大久保に直談判し、留学生の一員に入れてもらった経緯は、彼の逸話の中でもとりわけ有名である。兆民と大久保との間でやりとりされた会話を秋水は次のように証言する。「先生〔兆民〕乃ち日々衙門の前に遊びて、公〔大久保〕の馬丁と親狎し、相図って其退庁に乗じ、車後に附攀して往く。公車を下るや、急に進んで刺を通し、坐に延かるゝを得たり。先生乃ち政府の海外留学を命ずる、之を官立学校の生徒に限るの非なるを論じ、自ら其学術の優等にして、内国に在て、就くべきの師なく読むべきの書なきを説きて、其選抜を乞ひ、且つ曰く、同じく是れ国民にして、同じく是れ国家の為め也、何ぞ其出身の官と私とを問はんやと。公莞爾として曰く、足下土佐人也、何ぞ之を土佐出身の諸先輩に乞はざる。先生曰く、同郷の夤縁情実を利するは、予の潔しとせざる所也、是れ特に来つて閣下に求むる所以也と。公曰く、善し、近日、後藤〔象二郎〕、板垣〔退助〕諸君に諮りて決す可しと」(別四四九‐四五〇。〔 〕は引用者による注)。
(10) 兆民は留学する前に日本で通訳の仕事を担っていたことや、フランス到着後間もなく西園寺の書きかけのフランス語の文書を見るや否やその文法の誤りを指摘したように、国内での学習において既に相当なフランス語能力を身に着けていたことが窺える。
(11) パレーとはいかなる人物であったのかについてはこれまで不明であったが、最近の研究で判明した。彼は、リヨン裁判所の上訴手続きを担当していた「代訴人」であったJean Baptiste Paret であることが特定された。この点については、横山裕人「中江兆民のフランス留学に関する新知見-リョンの師パレとパリの師クトロー-」(『成蹊法学』98号、2023年)を参照。
(12) アコラースについては、米原謙「エミール・アコラースのこと」(『書斎の窓』第369号、1987年9月号)、および井田進也と宮村治雄との対談「アジアの思想を読む:中江兆民を中心に」(『アジア太平洋研究』40号、2015年)、109‐110頁を参照。
(13) なお、箕作麟祥は明治四年に『社会契約論』を「民約論」と訳していたことからも(飛鳥井雅道『中江兆民』吉川弘文館、1999年、91頁)、「民約論」という名称が兆民の独創であったわけではなかった。
(14) 河野広中「南遊日誌」(明治12年10月)には、「土州者ニテ仏学者中居徳助ト云フ者アリ、此者が曩ニ民約論ヲ訳セシガ、何カ政府ヨリ談ジラレ為ニ鼻ヲ拭テ捨タリシガ、其写トカヤヲ植木ガ所持セシト、之ハ今日ノ民約論ヨリハ可ナリ」との記述がみられる(別三)。
(15) 渡辺浩「日本政治思想史 十七世紀~十九世紀」東京大学出版会、2010年、454頁。また、井田進也「明治初期『民約論』諸訳の比較検討」(井田進也[編]『兆民をひらく明治近代の〈夢〉を求めて』光芒社、2001年)も参照。
(16) 加藤周一・丸山眞男(校注)『翻訳の思想 日本近代思想体系一五』岩波書店、1991年、412頁。
(17) 飛鳥井、前掲書、157頁。
(18) 山田博雄『中江兆民 翻訳の思想』慶應義塾大学出版会、2009年、3頁。
(19) 井田進也『中江兆民のフランス』岩波書店、1987年、382頁。
(20) 井田、前掲「明治初期『民約論』諸訳の比較検討」、117頁。
(21) Eddy Dufourmontによる以下の著作を参照。Rousseau au Japon : Nakae Chômin et le républicanisme français (1874-1890), Presses Universitaires de Bordeaux, 2018' および Rousseau et la première philosophie de la liberté en Asie (1874-1890) : Nakae Chômin, Bord de l'eau, 2021°
(22) 米原の研究については、『日本近代思想と中江兆民』新評論、一1986年、および『兆民とその時代』昭和堂、1989年を参照。
(23)宮城公子『幕末期の思想と習俗』ぺりかん社、2004年、187頁。
(24)そもそも、近代西洋思想の紹介者を一括に「啓蒙思想家」と呼称すること自体、ほとんど意味をなさない。それは、当時の思想家群において漢語的な意味での「啓蒙」を担うという知的態度が全くといってよいほどみられなかったためであった。この点については、河野有理「「啓蒙思想」語りの終わらせかたについて(政治思想における知性と教養)」(『政治思想研究』20巻、2020年)、142頁を参照。
*
*