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流れを変えるための考え方

割引あり

1.ツキの法則は人それぞれ

ツイてる!ツイてる!にはムリがある。
ダメなときはダメ。
できないときはできない。

ツイてる!ツイてる!は、斉藤ひとりさんの代表的なメソッドですが、それをやろうと思える気持ちがあるだけ、まだまだマシな状態です。もちろん理想的には、ほんの小さなラッキーや、日常から些細な喜びを1つでも見つけて、そこからツイてる!ツイてる!に半ば強引に持っていくという手法もありますが。

でもやっぱり本当にダメなときは、やることなすことすべてが裏目に出て、まさに八方塞がりになりますから、それをやればこの状況がきっと上向いていく!などとは到底思えません。

おそらくそんな時期には、プラス思考やツイてる!ツイてる!だけでは、ちょっと乗り越えにくい運の悪さがあるのかもしれません。たとえば3人で歩いていて、自分にだけ鳥のフンが落ちてくるとか?その類いの運の悪さが連発する時期です。

そんなときにでも「いや~、私にだけフンが落ちてくるなんて、自分って何て運がいいんだろう!フンだけに運(うん)」だとか「そろそろクリーニングに出せって神様から言われたのかな♪ルンルン♬」といったように、なんでもかんでも全部片っ端から、自分に起こるすべての物事をプラス思考で考えろと言われても、なかなか心の底からは素直に思えないものです。

「歩道を歩いていたら、自分にだけ車が突っ込んできてくれて!意識不明の重体で生死を彷徨っている私って、なんて幸運なのかしら!」

さすがにこれはちょっと極端すぎる例ですが?しかし12~15年に1回の大凶生き地獄シーズンだと、これに匹敵するくらいの激しい落ち込みがある時期ですから、そんな状況下ではプラス思考をするにも、ツイてる!ツイてる!をやるにも、なかなか上手くできるものではありません。

プラス思考とはつまり、死んでさえいなければ全部ラッキーということです。でも、それって本当なんですか?じゃあもしもそれで本当に死んでしまっていたら?そこで初めて「いや、じつはツイてはいなかったかもね・・」と訂正される?

それともまさか!自称スピリチュアルカウンセラーみたいな奴に「いやいや、来生では幸運なんですよ~♪」とか「死後の世界ではきっと良くなりますよ~♪」とでも言われたりするのか?死んでからのことなんて正直どうでもいいし、死後の世界が本当にあるかどうかなんて、自分が実際に死んでみなきゃ分からないだろう?

ズバリ言ってしまうと、みんな生きてる間に、それも何年か先の近い将来に、明確なツキや変化を実感したいんですよね。20年後に良くなるとか、50年後に良くなるとか、死ぬ直前で良かったと思えるとか、そういう話ではなくて。半年先とか、なんなら来月にでも分かりやすい変化やツキが感じられる方法が知りたいんだから。

運が良くなるツキの法則とは、死んでさえいなければ全部ラッキーで?どんなに災難・苦難続きでも、死の直前までプラス思考だって!?そんなのやってられるかよ!何がプラス思考だ!冗談じゃねえや!と思いたくなるほうが普通かもしれません。

どんな時期にでも、どんな人にでも、皆が同じように使えるツキの法則があればなぁ、と思いませんか?気が小さい人でも、性格がキツい人でも、どんなタイプの人がやっても同じように結果の出る「本当に流れがよくなる絶対法則」があれば、失敗する人はいなくなりますよね。

何にでも人道的で、おセンチで、虫一匹も殺せないような法則が向いてる人もいるだろうし?むしろ毒舌辛口で、大多数の衆には嫌われるような、カリスマ系な法則を選択することで魅力が出る人もいる。

せっかく本来の本質はそっち系な人なのに、それとは反対の法則に傾倒してしまうことで、虫一匹殺すだけでも心配になり、「これでツキが下がってしまうんじゃないか!」と気に病んで葛藤したりするのも、何だか違う気がしませんか?

また本来は争うことが苦手な平和主義者で、人が不幸になるくらいだったら自分が不幸になりたい!という神様みたいな人が、利益優先な会社の社長になったり、横柄なカリスマになろうとしても、本質は虫一匹も殺したくない人なんだから、もしたまたまそうなったとしても、やはりそれが長くは続かないでしょう。

双方とも本当は反対のほうが合ってるのだから、その教えを正しいと思って続けてしまうことで、かえって負の連鎖を招いてしまう可能性もあります。自分の潜在的な「本流」を知ることで、全般的に良い流れを引き起こしやすくなりますし、何より引っかかるような違和感を感じません。

ツキの法則は人それぞれなので、どんな法則に傾倒するにせよ、何でも「やりすぎる」と自分の首を絞めてしまいますから注意が必要です。苦しみから抜け出すつもりで始めたことが、新たな苦しみを作ってしまうという本末転倒な結果にもなりかねません。

少し前までは「引き寄せの法則」なども流行っていましたが、そのような自己啓発やコーチングなどの本は、何冊読んでもあまり変わりません。言ってることはみんな似たり寄ったりで、これまでにあった本からの受け売りがほとんどですから、まったく新しい法則やメソッドは入手できません。

また奨めてるアプローチや考え方も、その多くが著者自身の経験から湧いて出た言葉ではないので、重みが無くあまり心に響きません。いま世の中に出ている自己啓発や成功哲学系の本は、昔からある「マーフィーの法則」か、もしくはナポレオンヒルの「思考は現実化する」の焼き増しがほとんどなので、参考にするならその本家の2冊だけでも、まだ十二分に活用できます。むしろ余計なものにまで手を出して、自分の首を絞めてしまわないように気をつけることのほうが大切です。

2.欲張るから損をする?

もっとツキたいとか、もっと良くなりたいという欲求は、誰にでも普通にあることです。人間として生まれてきた以上、子供にでも当たり前にある自然なことなんですが、しかし時と場合によっては「欲張りすぎ」とジャッジされる場合があります。

・神様は欲張りすぎる人を好まない?
・欲は8分目以上を求めてはいけない?

欲張りすぎが裏目に出て、ツキを失ってしまうことも多々あります。なぜ多くの人がそのように、つい欲張りすぎてしまうのでしょうか?それは、絶対に損はしたくないという気持ちが強すぎるからです。

たとえば潔癖症や強迫神経症の原因になるものも、その根源にあるのは似たようなことかもしれません。絶対に損はしたくないから、異常に確認したくなる。絶対に失敗したくないから、念には念をで二重三重に備える。

異常に縁起を担いだり、運が悪くなることを極度に恐れたり、日常の些細なことまでもすべて不安と結びつけてしまう。しかしよくよく考えてみてください。その異常なまでの神経質さで苦しんでいるのは、自分自身ではないですか?

そのように欲張りすぎる人の裏を返せば、根が真面目すぎるということです。なぜなら真面目と欲張りは紙一重、もしくは表裏一体だからです。真面目すぎるから、過度に失敗を恐れる。逆にいえば、もっと良くなりたいということに対して真面目すぎる。

真面目に考えすぎるから、完璧を目指したがる。適当に済ませることや手を抜くことは、不真面目だと捉えてしまうから、真面目でなければいけないという強迫観念に囚われる。しかしそのように、絶対に損はしたくない、失敗はしたくないと常に怯えることそれ自体が、じつはもっとも損をするという事実にも、そろそろ気がつくべきかもしれません。

私の場合は座右の銘のひとつとして、「捕らぬ狸の皮算用」だけは絶対にしないようにしています。今から20年ほど前に、中目黒で整体施設を運営していたころ、不妊治療の研究に盛んに取り組んでいた時期があって、そのときにもつくづく実感させられたことです。

不妊治療が目的で来院されていたクライアントさんが、まだ着床していない段階で、赤ちゃん用のベッドはどうするとか、生まれたら引っ越しがどうとか、仕事を辞めるとか辞めないとか、いわゆる「捕らぬ狸の皮算用」をするクライアントは、高い確率で授かりませんでした。

また不妊とは関係ないですが、たとえばまだ結婚もしていない、ましてやまだ相手すらも存在していない段階で、家族サイズのマンションを購入してしまった人。将来結婚した場合のために、産まれるかどうかも分からない子供の間取りまでを考慮した上で、独身なのに4LDKのマンションなどを購入してしまったりする人は、往々にして将来の子供どころか、結婚すらもできなくなってしまってる事例が数多くありました。

これはおそらくその人が「捕らぬ狸の皮算用」をしているとして、備えすぎのしっぺ返しを食らっていたのかもしれません。なのでこういった場合はまず、実際に彼女・彼氏ができて、それから無事に婚約~結婚に至り、いま住んでる物件じゃとても一緒に暮らせないから、まず1LDKか2LDKに引っ越そうかな?といった流れが理想的です。

そこでまた捕らぬ狸をやってしまい、将来の子供のことも考えると、いまから3LDKか4LDKを買っておいたほうがいいんじゃない?と欲張って、先走って考える夫婦には、なぜかは分かりませんが不思議なことに?なかなか子供ができないのです。

なのでこの場合でもやはり、夫婦2人で住むなら広めの1LDKか2LDKでもいいよね?と選択しておいて、そこでいよいよ本当に奥さんが懐妊してから初めて、3LDKや4LDKを借りるなり購入するなりしたほうが、きっと着床率は上がります。備えすぎは神様に嫌われでもするのでしょうか?その科学的なメカニズムは分かりませんが。

3.信じる者は、やはり救われる

ただここで誤解のないようにしておきたいのは、「何かに期待する」というのは、とても前向きなことであり、生きていく上でもっとも大切なことではある訳です。何かに期待することで、その期待している間はウキウキ、ハッピーでいられますから、イライラ、ウツウツと心配ばかりして過ごすよりは100倍マシです。ただ期待しすぎてしまうがゆえに、あまりにも備えすぎてしまうと、それは捕らぬ狸だと判断されてしまう可能性もあるということ。

ましてやその結果が期待通りではなかったときに、「なんだよ、期待して損した」「どうせダメなんだったら、最初から期待なんかしなきゃよかった」などと考えてしまうと、さらに目に見えない何かが味方してくれなくなってしまいます。「期待なんかしなきゃよかった!」と悲観的になってしまうのも、多くは失敗することを恐れすぎていたり、自分は絶対に損だけはしたくないという気持ちが強すぎるからです。

損することや失敗することをあまりに嫌悪するというのは、裏を返せば期待しすぎているということ。草食系の男子が「傷つくのはイヤだから、最初から恋愛なんかしない」と言ってるようなものですよね。

他にもたとえば神社で絵馬を書いて、「この受験が受からないんだったら、もう神様はいない!」「宝くじでも当たったら、ここの神様のことを信じるよ」「でももし外れるんだったら、最初から信じないからな!」と言ってるようなものです。

結果が出るなら信じるし、結果が出ないなら信じないというのでは、到底その神様だって協力などしたくありません。ここらへんの感覚は科学や物理や、根拠(エビデンス)がまったくつかめない領域なので、明確なことは言えませんが、やはりそれでは順番が逆です。

信じるからこそ結果が出るし、信じられないから結果が出ない。あくまでも私がこれまでに、色々な人からたくさんの話を伺ってきて、30年分のデータをまとめた統計からみると、極論は、信じる者は救われています。

・腐ると、救ってもらえなくなる。
・本質にこだわりすぎると、神様に可愛がってもらえなくなる。
・何でも科学的に考えないほうがいい。
・理屈まで知ろうとしないほうがいい。
・少しバカなくらいがちょうどいい。

これだと新興宗教などにまんまと騙される場合もありますが、運やツキに好かれるためには、多少あったほうがいい要素です。芸能事務所の社長や芸能人などが、霊能関係者に騙されることが多いのも、これと似た方向性によるものかもしれません。

なぜならあの世界は、完全に運とツキだけで構成されているからです。どんなに歌が上手くても、どんなに演技が上手くても、どんなに容姿が整っていても、運とツキがなければ芸能人にはなれません。どんなに努力をしても、どんなに工夫しても、どんなに市場を分析しても、運とツキがなければなぜか売れないのです。

もしも運やツキを味方につけたければ、「結果が伴わないんだったら最初から頑張らない」のではなく、結果の見返りは期待せずに頑張ったほうがいいです。やっぱり前向きなものには、前向きなものが集まるからです。

私自身もこれまでに色々なやり方を試しましたが、これはやっぱり間違いなかったと思います。結果がどうであれ(運命として、結果は×だったとしても)そこまでの間を楽しく過ごすかどうか。同じ○日間~○年間なんだったら、その間を楽しく過ごしたほうがいい。たとえ結果として×という運命が待っていたとしてもです。具合悪く恐怖に怯え不安な毎日を過ごすよりも、ましてや腐って過ごすよりも、そのほうが必ず良い方向に導かれます。

なので30代以降からは私も、可能性のあることは素直に全部やりました。唯物、物理的なものだけに傾倒し、その行動に科学的な意味はない!とは言わないほうがいいみたいです。

盛り塩でも神社でも家の掃除でも何でも、可能性のあることは素直に全部やって、あとは時を待つ。果物が食べごろになるまで、機が熟すのを待つのと同じです。

自然でも人間でもたいがいの対象に於いては、待つことのほうが難しいです。攻めることのほうが数倍カンタンなんですよ。待たされていると不安になりますからね。時間も必要以上に長く感じますし。絶対に失敗はしたくない、絶対に損はしたくないという思いが強すぎると、待つことに耐えるのが苦手になります。

でも自分の人生を信じて、よい結果に期待するのは当然のことですし、期待することが悪いことではありません。ただ「捕らぬ狸現象」だけには気をつけたほうがいいとアドバイスしたいのです。

4.頑張る?頑張らない?どっちが正解?

もっと頑張るべき?→その努力が報われ結果が出る?
もしくは一旦忘れる。諦める訳ではないけど、執着をやめる→肩の力が抜けて逆に結果が出る?どっちが正解?

早くそこから抜け出さないと、早く上がらないと、さらなる悪循環に陥る?→もがいた分だけ、頑張った分だけ結果が出る?
もしくは逆に、流れに抗うことはもう止めて、さらに落ちるとこまで落ちたほうがいい?→底まで行けば、あとは上がるしかないから。

どっちのほうが結果が出る?

これは仕事、受験、競技、芸術、はたまた恋愛まで、何にでも当てはまることかもしれません。前者と後者、果たして結果が出るのはどっちだと思いますか?

世間では色んな人が色んなことを言いますが、正解はもちろんひとつではありません。その対象対象に対して、ちょうど良く(いい加減に)適切に(適当に)対応した人が、一番上手くいくのでしょう。

でも、その度合いが分からない!とみんな言ってるんですよね。それは私にも分かりませんが、自分はダメだと思っている時期ほど、変に頑張ってしまうものです。悪い時期ほど真面目になろうとする。悪い時期ほど反省ばかりする。

たとえば受験でも、スポーツの試合や舞台、会社のプレゼンなどでも、練習通りにやれれば勝てることが多いのは事実です。本番での曲者は唯一、プレッシャーです。そのプレッシャーさえなければ、もっと良い結果やタイムなどが出せたのに!と悔しい思いをすることは、誰もが経験のあるシーンではないでしょうか。

・良いイメージを頭に描いて
・合格している自分を想像して
・勝った自分を映像で具現化して
・絶対に負けない強い意志!

というのが、一般的に推奨されている「勝つ」ための法則だと思いますが、時にその想いが強すぎると、逆にそれが本番でのプレッシャーを余計に増長させてしまうこともあります。練習通りにやれれば肩の力も抜けて、むしろいつも以上の結果やタイムを引き出すことだってあります。

たまに思うのは、「負けてもいいや」「ダメでもいいや」「失敗してもいいや」と心の底から思えれば、プレッシャーは限りなく軽くなります。それを不真面目な発想だとか、不謹慎だとかと非難するのではなく、結果を本当に出すための最も真面目な策としてです。

もちろん「絶対に負けない!」という強い意志や執念こそが、正念場での「粘り」や「起死回生」を生み出す源であるのも間違いはないですが、まずその場でのプレッシャーを軽くするのには、ナメてかかったほうが上手くいく場合もあります。

欲張らないことで手に入るもの。頑張らないから上手くいくもの。希望の位置やポストに一度でも目標を定めたら、どうしてもそれを手に入れたいと強く思うのは当然ですから、失敗してもいいとか、ダメでもいいやとはなかなか思えません。

今までに良いイメージを頭に描いて、上手くいった自分を映像で具現化して、常に努力を積み重ねてきたのであればなおさらに、それが実現されないことには、とても耐えられるものではありません。

しかし事の本質は、結果としてそれを絶対に手に入れること。現実に叶うものにする、ということが本当の本題です。その方法が必ずしも「絶対に負けない強い意志!」だけではないというのも、勝負事の摩訶不思議ではあるのです。

じつはナメてかかれば上手くいくもの。いや努力と根性と諦めない鉄の心によって報われるもの。どっちが正解とか、正しくないとかはありません。やはりその対象対象によって、それらの傾向をきちんと見極め、強弱の絶妙なさじ加減を学び、これは頑張る、これは手を抜く、の割合を調整する必要があるのでしょう。

特に勝負事に関しては、時の運みたいなのも大きく関わります。そこで風が急に止んだとか、気温が下がったとか上がったとか、突然雨が降り出して形勢が逆転したとか、偶然起きたことが有利に働くなどの「ツキ」を味方につけないと、どうしても達成できないものもあります。

どんなに大人になっても、どれだけ経験を積み重ねても、「もう分かった」「これで終わり」という領域はありません。

勝ちの法則とは?
挑戦を続ける者にとっては、いつまでも付きまとう答えの見えない答案用紙みたいなものかもしれません。

5.アソビがない人は壊れる

かなり昔の話ですが、知り合いの経営者から聞いた話で、とても印象深かった話があります。仕事でも勉強でも何でも「アソビ」は絶対に必要、という話。

車のブレーキにも「遊び」がないと、軽く踏んだだけでも急ブレーキがかかってしまって、タイヤがロックしてしまうので逆に危ない。ハンドルも同様に、タイヤとハンドルが直結している状態、つまり「遊び」がないと真っ直ぐ走ることはできないし、ちょっとハンドルを切っただけでも急に進行が変わってしまうので、スピンして大事故を起こしてしまう。

他にも精密部品を作ってる工場の機械などでも、その機械のネジの締め方ひとつで、商品は良くも悪くもなると言っていました。ネジはただ強く締めればいいってもんじゃなく、どこまで「遊び」を作れるかに、その職人の腕が試される。

また商品が悪くなるだけならまだしも、ネジを締めすぎることでその機械自体が壊れてしまうこともある。しかしそれを恐れて弛めすぎると、こんどは商品にすらならないため、廃棄部品がたくさん出てしまう。

他にも似たようなものでは弓矢でも、張りすぎた弦はすぐに切れてしまいますし、かといって弛めすぎてしまうと、こんどは矢が遠くまで飛びません。まさに先にもあった「いい加減=ちょうど良い」の究極に当てはまる例です。

ただ頑張ればいい。ただ真面目であればいい。強く締めることだけが正しい。常に何でも100の力で突き進めば結果が出るか?といったら、案外世の中そうではありません。

たとえば急な坂道を登るにしても、上体を少し前かがみにしないと、上には登れませんよね。それを真面目に、頑なに、何が何でも地面に対しては垂直であるべき!常に直角90度が絶対に正しい!とやってしまっては、当然ですが重力で後ろに転げ落ちてしまいます。

これらすべてに共通していえるのが、100かゼロか、白か黒か、晴れか雨か、善か悪か、本当か嘘か、正しいか正しくないかと、あまり全部のことをはっきりとさせたがらないほうが良いということ。

はっきり答えを出さないことに不真面目さや、罪悪感や、不誠実さや、劣り、至らなさをつい感じてしまう部分もありますが、それをどっちつかず、中途半端、あいまいなどと捉えずに、ちょうど良い=ベストな選択と捉えることも大切です。

真実はいつもグレーゾーンにあったり、善悪も表裏一体です。正解は極端に右側でもなく左側でもなく、真ん中よりちょっと右寄りにあったり、頑張る60%サボる40%のあたりが、一番結果の出るやり方だったりもします。

特にメンタルや流れがダメな時期は、頑張れば頑張るほどすべてが裏目に出ます。もちろん良い時期ならケツも叩けばいいし、頑張れば頑張るほど結果も出ますが、どんなときでも全力で取り組めば、すべて上手くいくとは限らないので、そこは間違えないようにしたい。

何でもキッチリと締めすぎてしまうと、身の回りにある大切なものや、さらには自分自身すらも壊してしまいかねない。ただ真面目なだけで生きていくのは、あまりにも直球すぎます。直球だけでは試合は面白くなりませんし、そもそも試合にも勝てません。そろそろ変化球=アソビもレパートリーに取り入れてみることが大切です。

6.コントロールできる運とできない運

どこそこで誰それと偶然に知り合い、○億規模のビジネスチャンスを手に入れた!
どこそこで誰それに声をかけられて、チャンスだと信じた投資話に騙された・・
これはコントロールできる運。

先のほうは、チャンスだと思えなかったら、その話には乗らなかったでしょうし、後のほうは、とことん疑ってかかれば、相手のウソに気づけたかもしれません。やるか、やらないか、2つの道が用意されているので、自分の判断次第でどちらの道も選択できます。

なのでコントロールできる運で仮に失敗したとしても、自分の決断が招いた結果なので、誰にも文句は言えません。コントロールできる運は、引き寄せるも遠ざけるも、すべて自己責任です。それに比べてコントロールできない運のほうは、究極の快感を味わえるか、可哀想と哀れに思われるか、2つにひとつだけのことが多いです。

たまたま親切にしてあげた貧乏くさい老人が、じつは世界的な資産家で、すっかり気に入られてすべての財産を譲り受けた。たまたま友達が”勝手に送った履歴書”が、大手芸能事務所の社長の目に止まり、大スターの仲間入りを果たした。※わざわざそんなことする友達って、、本当は自分で送ったのかもしれませんが?まあその真相はさておき。

これらは自分で興そうとしたことでもなく、何かを期待してた訳でもなく、狙って行ったことではないので、コントロールできない運に分類されます。これは選択して手に入るものではないので、究極の快感を味わえます。

逆に一番ツライのは、コントロールできない運のなかでも、まったく意味の分からない運の悪さです。たとえば新婚旅行で南国に行き、2人で手を繋ぎながらビーチに向かって歩いていたら、夫の頭の上にココナッツが落ちてきて、脳挫傷で亡くなってしまった、など。こうなってしまうと、運命とか偶然とか?もう意味が分かりません。

まさかこれを必然と考える人はいないでしょうし、命まで失ってしまっては、いくらなんでも両者が可哀想すぎます。あの店でもう1杯お茶を飲んでいれば!とか、モールで先にお土産を買っておけばよかった!とか、すべて「たら」「れば」になってしまいますよね。

偶然に偶然が何重にも重なり、億分の1の確率で、ココナッツの茎が切れた下に夫がいる。これはどんなに避けようと思っていても、コントロールできない。選択もできなければ、予測もできる訳がない。ただ、運が悪かった。それ以外に答えが見い出せません。

他にも似たようなもので、赤信号で停車していたら後ろから追突されて、脊髄を損傷して手足が動かなくなり、生涯寝たきりの人生になってしまった。乗っていたタクシーが事故に巻き込まれて、運転手は無傷で無事だったのに?自分は意識不明の重体で病院に運ばれているなど。

このようにコントロールできない運のほうは、究極の快感を味わえるか、可哀想と哀れに思われるか、2つにひとつのケースが多いのです。なのでわれわれが集中すべきは、コントロールできる運のほうです。

コントロールできない運のほうで、1万人にひとりの存在になろうとするのは、結果が究極すぎるのであまり求めないほうがよい。また「コントロールできない運にはくれぐれも気をつけましょう!」などと言われても、ココナッツの件などは特に、気をつけようがないのも実情です。

なのでコントロールできない運のほうに関しては、もしも災難が避けられる唯一の方法があるならば、それは自身の傾向や統計を常に取り続けて、直感力を鍛える以外に回避する方法はありません。みんなはコントロールできる運のほうを上手く使えるようになって、良い流れに移行できるチャンスを模索してください。

7.失意のドン底ほど喜んでもらえる

誰もが安定した人生、不安のない暮らし、波風立たない安泰人生を求めていると思います。もちろん私も内心はそうですが、はたしてその波風立たない暮らしというものを、実際にしてみたらどうなんでしょうか?

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