見出し画像

ハロウィーンで社会学

ハロウィーンの起源は、“古代ケルト人” の祭りにある。

古代ローマの言葉で「未知の人」。あるあるパターンの、わかりやすく他称だ。こんな呼び方には意味がない。この辺りの土地に少しずつ違う人々がいてーーと、考える方がいい。

約2000年前。現在のアイルランド・イングランド・北フランスあたりに住んでいた人々が、11月1日に、新年(夏の終わりと冬の始まりを告げる日だとして)を祝っていた。

農業と狩りが生活の中心なら、そういう分け方にもなるよなと思う。

新年の前夜には、生者界と死者界の境界があいまいになると。こうも信じていた。つかの間、死者が地上に戻ってこれると。


その際、動物の毛皮でできた衣装を着ていた。

その時に「妖精」も異世界からやってくる。妖精に誘拐されないように、動物や怪物の格好をするのだという。

けっこう「フルで着る」んだな。

そんなに警戒しなきゃならないのか?妖精を?と思うだろう。妖精の一例を見てほしい。

理解。これは警戒に値する。首がないのはデフォ。
要はこれだもんね。「プレデター脊髄ぶっこ抜き」と言う人がいるが。脊椎が正しいだろ(余談)。

動物のふりをする以外にも。

怖い妖精を追いはらうために、こういうグッズを用意していた。

ジャガイモやカブなどに怖い顔を彫ったものだ。

後々、実用性も兼ねるように。根菜類をくり抜いたオブジェをこう使った。

「しんのすけとひまわりがつくったのに、すぐ捨てるなんてもったいないわ」「ユニークな表情が掘れてる、なかなかの力作だしなぁ」「もしかしてこれって、ランタンの代わりになるんじゃないの」「しんのすけ、天才か」「おら天才〜」「たい!」「ワンワン」

私のほっこりイマジネーションだ。

落差が激しくて申し訳ないが。敵の生首を表すオブジェか何かだった、という説もあるらしい。勝利の記念のような感じか。

まぁ、人間の頭蓋骨そのものを陳列していた文化もあるしな。

過去回より。

アイルランドの場合。この祭りには、軍事的な側面もあった。兵士のリーダーに玉座が用意されたり、兵士らにごちそうがふるまわれたりしていた。苦労をねぎらうだとか士気を高めるだとか、そういう意図があったのだろう。

このことと敵の生首起源は、矛盾しない気がする。

「トリック・オア・トリート」も。アイルランドとスコットランドの習慣に由来すると言われている。(後で詳しく書く)


ローマ帝国が、 “ケルト人” の領土の大部分を征服した。

キリスト教が根づいていった。教会指導者たちは、この伝統的な祭りをキリスト教の祝祭として再構築しようと、試みた。

どちらの側も、祝祭の異教的側面を完全に排除しなかった。つまりは、融合した。


より具体的には。

ローマ起源の2つの祝祭:死者をしのぶ祭り・果樹の女神を称える日と、“ケルト” の伝統的な祭りが、融合した。

この果樹とは、主にりんごの木のことで。ローマにあったりんご祭りがどうハロウィーンに?と思った人は、以下の画像を見てほしい。

現代の米国でも、ハロウィーンにこういうゲームをする。

この時期、小ぶりなりんごの売れゆきが高まる。

西暦1000年頃。教会は、死者を敬う日(日付は11月2日なのだが)として、All Souls' Day を設けた。

中期英語で Alholowmesse だ。カタカナでできるだけ近く表すと、アルハロマス。中期英語の messe → 現代英語の mas だ。Christmas(クリスマス)はキリストのミサだよ。

中期英語が使用されていたのは1150年~1500年頃。時代も大きくずれてはいない。

おそらく、これだね。ハロウィーンという名前と音の源は。


アメリカではアメリカ独自のハロウィーンが育った。

19世紀後半。アメリカに新たな移民が殺到した。その中に、故郷の飢餓から逃れてきたアイルランド人が何百万人もいた。主に、彼ら彼女らから伝わった。

地域の指導者たちは、ハロウィーンから怖い要素を減らするようにと、大まかに人々に奨励した。(先ほど貼った妖精を思い出してほしい。子どもが怖がるでしょう)

そうして浸透していったのは、近所の寄りあいを重視したあたたかみのあるイベントだった。


ところが。問題が起こりはじめた。

アメリカのハロウィーンでは、破壊的行動を起こす人々が現れてしまったのだ。

実例をいくつか紹介する。

1879年10月31日のこと。列車の運転手が線路に横たわる人を発見。急ブレーキをかけた。人ではなく人形だった。少年たちのいたずらだったのだ。線路沿いに身を隠して一部始終を眺めていた少年たち、その数なんと、200人。もし、列車やその他に被害が出ていたら……。

彼らは、慌てて人形に駆け寄る運転手に大笑いした。

そもそも、スコットランドとアイルランドでも。この祭りの日、ちょっとしたいたずらをする習慣があったという。

「スコットランド人は本当に不快ないたずらをする。キャベツの茎をひきぬいて、誰かの家のドアの鍵穴に押しこむ。家中が臭くなる」こんな記述が残っている。笑笑

いや、いたずらって。土台もなしにそんなことが習慣になるなんて、あり得るだろうか。

妖精にさらわれるというのは、妖精にいたずらをされると言えるだろうか。妖精のいたずらをよそおって子どもがいたずらをした?自分がしたいたずらを妖精のせいにした?こうだったのではないか。「誰!?こんなことしたの!?」「よ、妖精さんだもん」まさに、子どもが言いそうだ。

あった。やはり、こんな感じだ。
ジョシュア・レノルズが描いた「パック」。

米国であった実例を続ける。

菜園の野菜を全てひきぬく。これは前段の話と関連性を感じる。

家畜を納屋の屋根に乗せる。は?と言いたくなるようなエキセントリックさに。

禁酒主義の牧師宅の玄関に、ビール樽ピラミッドをつくる。いたずらの幅が広がっている。

道路のマンホールを外しておく、タイヤに穴を開けておく。これは車ができてから。こんなの人死にが出る犯罪だろ。

マンホールのふたをはずすという行為から、宮部みゆき『龍は眠る』を思い出さずにはいられない。読んだことない人なんかいねえよなぁ!?マイキーで言ってみた。

最初、いたずらは田舎に限られていた。都市圏が拡大するにつれ、そうではなくなっていった。都市部だと物事が過激化するのは、想像にかたくない。

ジョージ・フロイド氏が死亡した事件を引き金に、反人種差別デモが全米に急速に拡大した時の写真。デモ中に燃やされるパトカー。

なんで、そんなにナチュラルに建物の上にいるんだよ。別に、そこへ上がったって意味がないだろ。さすが、家畜を屋根に上げる人らだな。なんとなく伝わるだろうか。米国の「こういうところ」が怖いのだ。ヘイトごめんけど書くよ。→ 日本にはいない奇行種がいる。


そして、ある年、悲劇は起こった。

カンザス市の少年たちが路面電車の線路にワックスをかけた。しかも坂道の線路に。車両がすべって別の路面電車に衝突。車掌が重傷をおった。

悲劇は続いた。

1907年にアリゾナ州で。歩道にワイヤーをはり通行人を転ばせるといういたずらが、多発した。被害者の1人が拳銃をとり出した。いたずらをしかけた子どもの1人が射殺された。

同じ年のインディアナ州では。少年グループが家々のドアをノックし、出てきた住人の顔にカボチャを押しつけて(?)いた。あるティーン・エイジャーの女性が、その被害にあい悲鳴をあげた。それを聞いた彼女の母親は、パニックになり心停止。


ハロウィーン期間中の暴力や略奪は、大恐慌による経済の急激な落ち込みの中、さらに悪化した。

職と家を失ったシャリフー夫妻がとった行動。

1920年代から1930年代にかけて、アメリカのハロウィーンに、特別なパーティーやパレードが誕生した。

地域団体や親たちのグループが、子どもたちをトラブルから守るためにと、それらを企画したのだ。

いたずらから気をそらそうと、代わりのものを用意したのだ。賢い。

しかし、大恐慌の頃だ。

人々は資金を出しあった。分担の理念から、家々をまわるスタイルが採用された。

最初の家では、シーツや顔料などの仮装用品を配ったかもしれない。次の家では、お菓子をあげたかもしれない。また次の家では、幽霊屋敷としての地下室を用意したかもしれない。

かなりつながりが見えてきた。

あまりにも暴力と関連するようになってしまったハロウィーンを、米国の政府や自治体は、禁止しようかと検討したが。そうしなかった。

賢い選択だったと思う。

禁止しても、このようになっていただろう。

大人は、子どもたちから楽しみをうばいとるのではなく、子供たちを「買収」した。

「トリック・オア・トリート」には、子どもにお菓子を渡すことで自分がいたずらされるのを防ぐという、論理性があった。当時まじめに、だ。

繰り返すが、大恐慌の頃だ。これはリアルに機能した。

比較的費用のかからない方法で、社会からバイオレンスを減らせた。重く罰するのではなくささやかな報酬を与えることで、人々をコントロールできた。


過去に書いたナッジの話を貼っておく。

現代社会にナッジングが溢れかえっていることには、個人的にあまりいい感情を抱いていないため、この回は批判的な内容だ。

私は、折に触れて、この事例(ハロウィンのこと)を考える。このぐらいシンプルな報酬が効くのではないか、など。私の興味対象は「事後ではなく事前」なんだ。私の本当に夢みる世界。


80年代になっても。デトロイトなどの都市では、まだ、シャレにならないいたずらが残っていたのだが。

詳しく書くと。1984年のハロウィーンでは、デトロイト全域で800件以上の放火が発生した。

イメージ

さすがに、(文字通りの)お菓子をあげて、おとなしくなるような輩ではない。

外出禁止令を発令・市警を動員・数万人のボランティアが近隣をパトロールなどの対策がうたれた。

継続的な努力の結果、そんなデトロイトのハロウィーンも、落ち着いたものになっていった。


このように。ハロウィーンの治安対策に関しては、かなり成功しているのだ。クリスマスなら、わかるのだが。そこには神がいるからね。

人は、「おかしをもらえるならいたずらをしない」のではないか。(前段のデトロイトは、こんなことを表していないけどね)

これはとても興味深いことだ。

いただいたコメントを貼り出すということをはじめてする。読者さんに穴埋めしてもらった。感謝!

〆に向けて段階的に、この辺りで書くべき、重要ポイントだった。追記する。

悪用することもできてしまう。常にかなり足りない状態で暮らさせる。上から定期的に物資を配給するスタイル(一例)にする。すると、どうなるか。人々はやたらと従順になるのだ。

「少数のレジスタンス」状態では、こうなるに決まっている。↓

シゲトゥ・マルマティエイ(ルーマニアの都市)の旧刑務所にある、『共産主義と抵抗の犠牲者記念碑』。

過去回より。

現在のアメリカ人は、ハロウィーンに、年間約60億ドルを費やしている。

ペット用のコスチュームでさえ、約7億ドル。ちなみに、この額は2010年の3倍以上だ。

明らかなる商業的成功だ。

大勢の10代の子たちが、車をひっくり返し電柱を倒していた日。そんな日を平和で楽しいものに変えることができた。さらに、極めて高い経済効果まで生み出した。


混乱がピークに達していた頃は、「ブラック・ハロウィーン」と呼ばれていた。もう、その呼び名を聞くことはない。「ブラック・マンデー」と違って。


研究者らは言う。ハロウィーンのサディズムは恐怖の時代に高まると。

毒入りキャンディーが無作為に配られる、リンゴの中にカミソリの刃が入っている、などの噂が広まる。

1990年のこと。カリフォルニア州の7才の少女が、トリック・オア・トリートの最中に倒れた。警察は即座にキャンディーを押収。彼女はある病気だった。詳しく調べても、当然、中毒症状など見られなかった。

言いたいことわかるよね。

レストランで同じことが起こっていたとして。警察は、全員オムライスを食べるのをやめて!スパゲティーから離れて!などと叫んでいない。

何このりんご。日本人って本当に発想が豊かだね。笑

グリコ・森永事件。

公訴時効が成立しており、完全犯罪となっている。日本の警察庁広域重要指定事件で、初の未解決事件だ。

以下、「怪人21面相」から送られたと推測される(コールド・ケースなのだから私にはわからないよ)、複数の脅迫文書より。

「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」「グリコを たべて はかばへ行こう」「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」

人々に植えつけられてしまった恐怖心が解消されるまで、かなりの時間を要したのだろうな。ちなみに。これをバイアスとは呼べない。怖がって然るべきだから。

他人から見ても感動的だ。たくさんの「ともこちゃん」のためにがんばるぞ!となるよね、社長も。

「あんな どじばかり しとったら 小がくせいでも あいて してくれへん ように なるで こくみんの ぜい金 むだづかい せえへんように もっと べんきょう せえや」

これをまともに相手する・真剣に考えるとして。マクロな話、この問題は終わっていない。いや、ベースの状況としては悪化していると言えるかもしれない。

『アンパンマン』のテーマ曲がこれな時代だもん。超ポリティカル・ソング。

昨日。近所の幼児くんがママさんにお説教されていたんだ。「働くっていうのは人の役に立つってことなの!役に立ってないのにお金なんかもらえないの!」これ言われてた子、よちよち歩き。

この曲をはじめて聞いた時のように。吹いた後で真顔になってしまった。


もう1つ昨日の話をする。投票行ったか。

罰則という文字が並ぶ。うーん……。それぞれに、考えたいところである。私は今回、ささやかな報酬の話をした。

選挙期間中は、どれだけ彼ら彼女らが一般人にペコペコするか。そのことについても、よく考えるべきだ。

個人的には、短期集中 × 過剰で苦手なのだけれども。頭を下げられたら入れるということは、ないのだし。

うちら鬼舞辻無惨じゃないんだからさ。

まじめな話、私たちには力があるのだ。それを自ら放棄するなど、正気の沙汰ではない。

夫婦の片方が妥当な理由もなしに、突然、離婚したいと言い出したとする。もう片方は、二つ返事で了承しなければならない。そんな仕組みでOKと。本質的にはそういうことやぞ。

自分を第三者的に見て、私はこの点(下に貼った文章を参考にしてほしい)、強めに片方に寄った意見をもっている。自由:保全しなければ失われるもの。と考えているということ。


ハロウィーンから選挙投票の話しないで?「ハロウィーンで社会学」とタイトルに明記した。

〆は YOASOBI のこの曲で。

このMVの中の女の子が好きだ。見た目とかでなく。

愛する家族からの着信を無視してパラレル・ワールドへ向かう時、一瞬だけ感情を見せる。彼女が怒っていることがわかるのは、ここだけだ。怒ったのは本当にこの時だけで、彼女の原動力は怒りじゃないのかもしれない。誰にも相談することなく、ひとりで計画を実行した。生まれ育った環境が異なるだけで、苦しんでいるか危機的状況にある「自分そっくりの友達」のために。友達も、人生を勇敢に戦ってきたのだから。

この『セブンティーン』は、宮部みゆき『色違いのトランプーーはじめて容疑者になったときに読む物語』を原作とする、楽曲だ。

私はこの作品を読んでいない。彼女は “ファーザー” から離れたがっていて?自分がとった行動が他世界の自分に悪影響をおよぼして?など、物語があるのだろうな。それなのに感想文を書いて、ごめん。せめて、他人の考察なども一切見ずに書いたよ。私のクオリアを表現/反映したようなものだと思って、解釈違いなどを許してほしい。